水面下

 寝室の空気は重く、けれどひどく静かだった。


 リリアントは皇帝の寝台の傍らに座り、無言のまま額に布をあてていた。布はすでに何度も濡らされ、取り替えられたものだった。薬草と蜜酒を混ぜた湯の匂いが仄かに鼻をつく。


 皇帝は痩せ細り、枕に沈んだ顔はもはやあの壮健だった日々の影もなかった。閉じた瞼の下で夢を見ているのか、眉がかすかに動く。


 リリアントは何も言わなかった。ただ夫の寝顔を見て微かに微笑み、その手で彼の皺を撫でる。夫に触れるたびに彼の“病”が消えるようにと心で祈るが、状況が良くなることはない。


 控えめなノックの音が、沈んだ空気を切り裂くように響く。


「お入りなさい」


 リリアントの声は、やわらかく、それでいて凛としていた。


 重い扉が軋みを立てて開かれ、若い侍女が現れた。金色の髪をきちんと結い、目元に緊張の色を浮かべながらも、姿勢は崩れていない。慎ましく一礼し、リリアントに近づく。


「リリアント様。例の給仕人が宮殿に参りました。控えの間にて待たせてあります」


「ありがとう。すぐに行くわ」


 リリアントは布を盆に戻し、静かに立ち上がる。


「レンディアヌは?」


「サーヴィア様と中庭に」


「そう……」


 リリアントは窓の方へと歩を進め、静かに外を見た。帝都を囲む湖は穏やかで、水鳥が空を飛んでいる。


「……私の部下二人に見張らせてあります。何かあれば直ぐに報告が」


「ありがとう」


 リリアントは再び夫の方に顔を向けた。

 

「リリアント様」侍女は小さく言った。「レンディアヌ様をサーヴィア様と会わせるのをおやめになさるべきです」


 侍女の言葉にリリアントは驚いた表情を浮かべたが、直ぐに穏やかな笑みに戻った。


「それはできないわ。レンディアヌはサーヴィアに凄く懐いてるもの」


「ですが、サーヴィア様は……あの方の頭にあるのは権力の事だけです。彼女の側にレンディアヌ様をお近づけになるのはあまりに危険では? 陛下も意識がご明瞭の時は──」


「妹を警戒しろと言ってたわ。だから監視をつけている……だけどね、ニーナ。それ以上はできないわ。レンディアヌの行動を制限したら、それはもう母親じゃないもの。私が叔母を引き離したら、レンディアヌは反発するでしょうし、もしそれでレンディアヌの叔母に私が抱いている懸念が白日の元に晒され、レンディアヌが護られたとしたら、レンディアヌはどうなると思う? 自分の意志を信じられなくなって私から離れなくなるわ」


「……ですが」


「……たとえサーヴィアの罠にレンディアヌが片足を踏み入れていたとしても、それが学びとなるのならば、私は止めない」


 リリアントは言葉の最後に、凛とした光をその瞳に宿した。


「けれど、それは“見捨てる”こととは違うわ。何が起きても、私はレンディアヌの味方でいる。彼女が人を信じられなくなった時も、間違った時も、苦しむ時も……。だけど、レンディアヌは皇帝になる運命……私は見守ることはできても、それ以上の事はできないし、すべきじゃないのよ」


 ニーナはそれ以上何も言えず、ただ深く頭を下げた。


「……申し訳ありません。出過ぎた真似を」


「構わないわ」リリアントは優しく微笑んだ。「ありがとう、ニーナ。あなたは最高の友よ」


 その一言に、侍女の肩がわずかに震えた。想いが胸の奥で膨れあがり、それを静かに染みこんでいった。


「レンディアヌに控えの間へ行くように伝えて。私もすぐに向かうわ」


「はい、リリアント様」





 控えの間は、妙な静けさに包まれていた。


 大理石の床は冷たく、壁にかけられた織物の模様はどこか威圧的で、貴族の客人をも縮み上がらせるような格式を漂わせている。だがその中心、豪奢な椅子にちょこんと腰かけているバレンティアは、まるで見えない敵と必死に戦っていた。


 敵、それはお茶である。


 いや正確には、お茶そのものではない。


 彼女は呼ばれてから一時間近くここに座っている。その間、丁寧な応対をする侍女たちが「お待たせしております、お茶のおかわりを」と勧めるたび、断るのも失礼かと、二度、三度と杯を空けてしまった。蜂蜜と花の香りがする上質な茶葉だったし、初めは素直に美味しかった。だが、今ではその余韻よりも、胃の下にひたひたと膨れ上がる水圧の方がよほど存在感を放っている。


 バレンティアは膝をぴたりと閉じ、つま先を揃えて深く腰掛け直した。だがそれも一瞬の安堵しか与えてくれない。内側からぐい、と押し返してくる感覚に眉がきゅっと寄った。


(頑張るのよ……バレンティア)


 彼女は控えめに辺りを見回した。扉の脇には寡黙な近衛兵が二人。侍女は廊下を行き来している。豪華な雰囲気の控えの間──だが、その雰囲気のせいで、いざという時に気軽に「お手洗いを」と言い出す雰囲気ではない。


 しかも今、自分の立場は最悪だ。皇女のお召し物を料理で汚して翌朝に呼び出された者。つまり、今後どのような立場になるかもわからない。軽率な行動は命取りになりかねない。


(あと……あともう少し……。リリアント様が来られるまで、なんとか、持たせれば……!)


 彼女は自分を鼓舞するように姿勢を正したが、それがまた逆に刺激となって、腰のあたりに危機が走った。


 そんな時だった。


 控えの間の扉が開く、優美で厳かな音が響いた。バレンティアは一瞬、呼吸を止めた。


 そして、現れたのは


 リリアントと、そしてその後ろから顔を覗かせる、小さな皇女だった。


「お待たせしてごめんなさいね」


 リリアントはやわらかくそう告げて、静かに歩み寄ってきた。微かな香の優しい匂いが漂う。


「……いえ。とんでもございません。光栄に存じます……」


 バレンティアは、声が震えないよう注意しながら立ち上がって一礼した。けれど、ぎりぎりまで膝を閉じていたせいで、足が痺れて少しよろけた。あわてて踏み直したが、それすらも膀胱には新たな試練となった。


「こちらは私の娘、レンディアヌ」


「おはようございます」レンディアヌはニッコリと微笑み、小さく頭を下げた。「また会えましたね」


 何て出来た女の子だとか、この和やかな雰囲気なら怒られる心配はなさそうだとか、頭で考えながらバレンティアは控えめに頭を下げた。「おはようございます」と小さく告げる彼女の瞳は潤んでいて、まるで水面に落ちた雫のようだった。


 だがバレンティアの頭の中は、尿意が暴れまわっている。


(これは無理かもしれない……! いや、でも! ここで席を外したいなんて言えるわけない! 失礼だもの! ……そもそも皇族の方になんて言ったらいいの? “わたくし、催してまいりました”? “お花摘みにいきたいですわ”?)


「バレンティアさん?」


「っ……! は、はいっ!」


 リリアントに声をかけられ、バレンティアは大げさなほどの勢いで返事をしてしまった。びくんと肩が跳ね、表情が強張る。


「……少し顔色が悪いわ。大丈夫?」


「大丈夫です……」


(嘘です。完全に限界です)


 リリアントは首をかしげたが、それ以上は追及しなかった。


「そう……では少しお話をしましょう。長くは取りませんから」


(本当だといいなぁぁあああ!!!)


 バレンティアは内心で絶叫しながら、硬直した姿勢で再び椅子に腰掛けた。


「宮殿から追い出されたと聞いてレンディアヌがとても心配して──」


「そこで貰うはずだった日当分を──」


 どんな言葉が交わされようとも、彼女の意識の半分以上はひたすら下腹部の緊急事態に集中していた。


「バレンティアさん。一つ頼まれてほしいのよ」


 暫しの沈黙。リリアントの話が途切れたことに、バレンティアはハッとして顔を上げる。


「な、なんでしょう?」


 微笑みの後、リリアントが続けた言葉はバレンティアにとって予想外な事だった。




 

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