第二章 レンディアヌとバレンティア
思いがけない出来事 オファーとポータル
──レンディアヌの使いとして宮殿に通ってほしい。
何故自分なのか? その理由について明確に語られることはなかったが、バレンティアに拒否する選択肢はなかった。リリアントに無理強いされた訳ではない。拒否する理由が見当たらなかったのだ。一銀貨二十銅貨の日給と安定した仕事は魅力的だったし、孤児院時代に華やかな生活を夢見ていたバレンティアにとって宮殿で過ごせるのは例え雇われの身であったとしても夢のような話であった。
それに別の面でも限界が迫っていた。
バレンティアは食い気味に申し出を承諾し、離席を申し出た。「“ご”用を足す場所は?」配慮に配慮を重ねてリリアントに言った言葉がそれだった。
リリアントは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに微笑を浮かべて小さく頷いた。
「ニーナ、案内して差し上げて」
「はい、リリアント様」
控えていた侍女のニーナが丁寧に頭を下げ、バレンティアに向かって手を差し伸べた。「赤い花瓶が側に置いてある部屋よ」
バレンティアは礼を返しつつ、その手の示す方向へ小走り気味に足を運んだ。
天井には金箔細工、壁には年代物のタペストリー、床はつるつるの大理石──すべてが気品に満ちているのに、己の頭の中は「赤い花瓶、赤い花瓶、赤い花瓶」でいっぱいだった。
──とにかく、今は間に合うかどうかの瀬戸際。
やっとの思いで目印の赤い花瓶を見つけ、扉を押し開けた瞬間、半ば祈るように駆け込んだ。
なんとか間に合った。
──生き延びた。
そう思った瞬間、ようやく肩の力が抜け、バレンティアはため息をつきつつ周囲を見渡した。
そこは、想像を超えて豪奢な“御手洗い”だった。
床は磨き抜かれた白い大理石で、壁には淡い薔薇模様の浮き彫りが施されている。
「すご……っ」
思わず呟いた言葉は、個室の数を数え始めたあたりで喉に詰まりかけた。
「ひい、ふう、みい……なんでこんなにあるの……?」
途中で数えるのをやめたが、少なくとも五十はありそうだった。いや、宮殿だからってちょっと多すぎでは? と、バレンティアは疑問に思った。何人同時に駆け込む前提なのか。これだけの数が必要な事態が想像できない。
何故か一番手前の個室だけ、外側から頑丈な錠がかかっていることに気づいた。
「何でここだけ……」
疑問に思ったが、差し迫った脅威が彼女から好奇心と思考を奪う。
バレンティアは近くの個室に駆け込んだ。
そして異様な構造に思わず目を丸くした。
「……え?」
床の中央が、青い光で満たされていた。
波紋のような揺らめきのある光。透き通っているのに、底は見えない。どこか遠い、深い場所に繋がっているかのような不思議な“底なしの青”。
そして、その周囲には何の説明書きもなければ、通常の便器もない。
ただ、青いポータルと呼ぶしかないものが、床に広がり、取っ手がついた柱がポータルの先にあるだけ。
バレンティアの脳裏に浮かんだのは、孤児院時代に大人が冗談半分に語った古い宮廷の逸話だった。
──“不浄”という概念に病的なまでの嫌悪を抱いていたエルフの皇帝──の物語だ。
潔癖を極めた皇帝。彼は使用人な食器を一度落とせば、厨房ごと燃やし、服に泥が跳ねれば、その道を歩かせた使用人全員を遠国に左遷したとか。
そんな彼があるとき、魔術師に命じた。
「宮殿の厠をどうにかせよ。匂いも何もかも不浄さを感じさせぬようにせよ」
それは誰にも不可能な命令だった。だが、たった一人、頭の螺子が飛び気味だった宮廷魔術師が言ったのだ。
「不浄を地上から消すことはできませぬが、それを“別の場所”に送ることなら……」
その結果、完成したのが──ポータルだった。
魔法陣を彫り、空間を切り取り、異界の“清き大河”へと直通する回廊を設置したという。
皇帝は心底喜び、宮殿の厠を全てそのように改造した。
そして、皇帝はある時用を足している際、突如として行方不明になったという。
その話は半ば伝説、半ば笑い話として語られていたが……。
「ほんとだったのかよ……」
バレンティアは呟いた。目の前の現実が、逸話と見事に一致している。
床の青い光の揺らぎ。どこか底知れぬ吸引力。そして、手すり代わりの銀の取っ手。
……取っ手がついているあたり、しゃがむのが前提なのだろう。皇帝の身に降りかかった(であろう)悲劇を繰り返さない為のものかもしれない。
(さすがに、座る椅子ぐらい……欲しかったな……)
バレンティアはこの日世にも奇妙な体験をした。
(……異界の住人が怒ってたりしない?)
用を済ました後、ふとそんな心配がよぎったが、宮殿の誰もがこのポータルを当たり前のように使っているなら、今さらだろう。
侍女のニーナも、リリアントも、誰一人としてこの“仕組み”について一言も触れていない。
恐らく彼女らにとっては説明するまでもない日常なのだろう。説明しなくても見たら分かるとでも思っていたかもしれない。
そう結論づけた。
ただ一つ気になったのは一番手前の、“錠のかかった個室”。あれだけは、他とまるで雰囲気が違った。重厚な鍵、沈黙を湛えた扉。
その鍵はまるで、何かを封じているかのようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます