初対面

 磨き上げた銀の盆を抱え、バレンティアは深く息を吸った。目の前に広がるのは、帝国の中心にして、最も美しく最も遠い世界――宮殿の広間。その夜、彼女はひとりの給仕人として、この場所に立っていた。


 天井は高く、ありとあらゆる物が夜空の星のように輝いていた。広間を満たす音楽は、絹のように滑らかで、けれどどこか荘厳な響きを持っている。ミリアのような者にとって、それはまるで現実味のない夢の世界だった。


 彼女は若く、美しかった。透き通るような肌と金色の髪、細くしなやかな指先。だがその美しさが何かを保証するわけではなかった。生きていくためには仕事にありつけなければならない。


 数日前、市場の掲示板に貼られていた短い告知。


 祝宴の給仕人募集、即日払い。


 奇跡のようなその紙切れを見て、彼女は震える手で名を書いた。


 そして選ばれた。


 今日、彼女は帝都の中心、皇宮の大広間に立っている。


 帝国の中枢。帝都の心臓。その中で皇女レンディアヌの誕生日を祝う祝宴が開かれていた。


 それにしても、まさか裸足で仕事をするとは。太腿からつま先まで何もない。バレンティアが身に着けているのは貸し出された白い衣だけだった。今は第三紀だというのに、給仕人の服務規律はエルフ時代から殆ど変わっていなかった。


 バレンティアは空気、それから一部の自分の脚に“関心”がありすぎる殿方の視線を感じながら仕事に励んだ。

 

 一皿、また一皿と盆を運ぶ。給仕人に期待されているのはそれだけだ。だが、そこに“女”を見ようとする目線は確かにあった。


 宴は進み、次々と料理が運ばれていく。


 毒見役の侍従が頷き、銀の盆がバレンティアの手に渡される。盆には豪奢な料理が載った皿が数枚置かれていた。香辛料と肉の良い香りが鼻をくすぐる。


「これを皇女殿下に。くれぐれも気をつけて」


 淡々とした声で言われたその一言に、バレンティアの胸がぎゅっと縮んだ。


(皇女……レンディアヌ様にわたしが?)


 頭では理解しても、手足の感覚が少しずつ遠のいていく。彼女の指先はしっかりと盆を支えていたが、その下で膝は確かに揺れた。軽く息を吸い、吐く。心を落ち着けようとしたが、鼓動は速くなるばかりだった。


 レンディアヌの前まで、あともう少しの時だった。


──ゴキ。


 鈍い音がした。


 それはバレンティアの足からだった。子指の側面から床についた事で、右足が捻じれてしまったのだ。裸足の弊害が最悪の形で現れた形だ。


 彼女の身体は前に傾いた。銀の盆が揺れ、ご馳走の載った皿が音もなく跳ねた。


 皿は宙を舞い、鮮やかな軌道を描いて落下した。


 ──びちゃっ。


 豪奢なソースの染みた肉料理が、まるで悪夢のように、皇女レンディアヌの胸元を濡らした。


 銀糸を織り込んだ薄桃色の正装。その中心に、無惨なまでの茶褐色の染みが広がる。


 会場の空気が、一瞬で凍りついた。


 音楽は止まり、近衛兵が剣を抜く音が響き、貴族たちの表情が途中で固まる。誰もが信じられないものを見たという顔をしていた。


 バレンティアの視界はぐらつき、頭が真っ白になった。


 (終わった……)


 盆を取り落とさなかったのは奇跡だった。だが、そんなことはもうどうでもよかった。最悪の形で「皇女に気をつけて」という忠告を裏切ってしまったのだ。


 ドタドタという近衛兵の足音。


 前に出ようとする兵の前に、白く細い手がそっと掲げられる。金の腕輪をはめたその手が挙がるのを見て、近衛兵たちはピタリと足を止めた。


 レンディアヌはひとつ息を吐き、濡れた胸元を気にする素振りも見せずに、ゆっくりとバレンティアへ歩み寄った。


 バレンティアは床に腰を下ろし、青ざめた顔を上げることもできずにいた。恐怖で呼吸が浅く、痛みも遅れて押し寄せてきていた。右足がジンジンと焼けるように痛む。


 そんな彼女の前で、レンディアヌは静かにしゃがみこんだ。


「大丈夫ですか?」


「……はい」涙声で答えるミリア。急いで立ち上がろうとするが、激痛が襲う。「いたたっ……」

 

 その様子にレンディアヌはすぐさま手を差し伸べた。彼女は自らの両膝を床につき、バレンティアの足にそっと手を添えた。白いバレンティアとレンディアヌの手と足の間から淡く金の光が溢れる。


 広間の片隅で、誰かが小さく息を呑んだ。


 何かが動く不思議な感覚のあと、痛みは一気に消え失せた。


「……もう大丈夫です」レンディアヌは可愛らしく微笑み、手を離した。


 バレンティアはぽかんと口を開け、信じられないものを見るように自分の足首を見下ろした。ほんの数秒前まで焼けるように痛んでいた場所が、今はまるで何もなかったかのように軽い。


 レンディアヌはそっと手を差し出した。


「立てますか?」


 バレンティアは息を詰めたまま頷き、その手を取った。細く白い指先に触れた瞬間から温もりが広がった。恐怖も羞恥も、まるでその温もりに溶かされていくようだった。



「なんてことをしてくれたの!? あんな大舞台で!!」


 ヒステリックな責任者の叫び。バレンティアは何も言えなかった。ただ唇を噛み、じっと俯くだけ。


「お前の顔は二度と見たくない!! 出ていって!」


 バレンティアの心は震え、言葉も出なかった。


 バレンティアはただ俯き、宮殿を後にした。宮殿からはまだ音楽が聴こえてくる。バレンティアは一銭も受けることなく、疲れ切った身体で夜の街へと消えていった。



 翌朝、薄暗い宿屋の部屋で、バレンティアはぐったりと横たわっていた。昨夜の失敗の重みと、責任者の怒声がまだ胸にこびりついている。手元に残ったのは、空の酒瓶だけだった。彼女にもし分別が備わっていなければ見知らぬ男が隣で寝ていたことだろう。


 突然、戸が静かにノックされ、すっと開く音がした。バレンティアの目はぼんやりと開き、そこに立つ一人の女性を見た。彼女は白いローブを纏い、凛とした空気を漂わせている。


「あなたがバレンティア・セレンディアで間違いありませんか?」


 バレンティアは、まだ頭がぼんやりとしたまま、うなずいた。声が出そうで出ない。女性は静かに部屋に入ると、表情を変えずに言った。


「私はリリアント様の使い、セレナと申します」


 バレンティアの心臓が激しく打ち始めた。バレンティアは手の震えを抑えるためにぎゅっと握りしめた。心の中は恐怖と不安でいっぱいだった。


『あなたを殺します』


 そう目の前の女性が言っても何も不思議ではないと、バレンティアは思った。それくらい恐ろしい失態を昨夜皇女相手にしでかしたのだから。


「リリアント様は、あなたに直接会いたいと言っています。今すぐ身支度を整えてください」


「今すぐ……ですか?」


「はい。ですから準備を済ませてください」


 言われた通り、バレンティアは簡単に身支度を整えた。宿屋の鏡には、疲れ果てながらもどこか覚悟を決めた少女の顔が映っていた。


 馬車は既に外で待っていた。宿屋の主は目を丸くしていたが、何も訊ねなかった。バレンティアと近衛兵達の放つ雰囲気が、それを許さなかったのだ。


 車輪の音に揺られながら、バレンティアはずっと手を握りしめていた。爪が手のひらに食い込むほどに。


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