第一章 ひょんなことから

祝宴 交差する思惑

 太陽が西に傾きはじめた頃、宮殿の大広間では、皇女レンディアヌの誕生日を祝う祝宴の準備が整っていた。


 大理石の床には赤絨毯が敷き詰められ、天井からは無数の水晶灯が吊り下げられている。灯りは黄金の皿や銀細工の食器、葡萄酒の満ちたクリスタルの杯。それらのきらめきが空間を照らしていた。


 楽団が奏でるリュートやハープ、荘厳でありながらどこか軽やかで、祝宴の空気を濃密に彩っている。


 列席するのは、帝国の貴族と高官、そして一部の諸国からの特別な賓客たち。彼らはそれぞれ豪奢な衣を身に纏い、皇女の祝宴にふさわしい献辞と贈り物を携えていた。


 祝宴の主役──レンディアヌは、大広間の奥、ひときわ高い座席に座っていた。淡い金糸の刺繍が施された白い衣、腕につけられた純金の腕輪、頭にはティリナ草を模したミスリルの冠が飾られている。


 背筋を伸ばし、丁寧な言葉で客人に挨拶をするその姿は礼儀深いが、レンディアヌには可愛らしい少女の一面もあった。奥で行われている大道芸人の軽業に青い目をキラキラと輝かせたり、小さく口元を緩めて笑ったりしていた。


 その傍らには、母である皇妃リリアントが静かに立ち、娘を見守っていた。リリアントは周囲の視線を余裕と優雅さで受け流し、時折レンディアヌの小さな手を取っては優しく言葉をかけていた。


 そこへ──扉が開かれ、ひとつの影が大広間に現れた。


「おお……」


 微かなざわめきが貴族たちの間に走る。誰もが目を向けたその女性の名を、誰もが知っていた。


 サーヴィア。


 背筋を伸ばしてゆっくりと入ってくるその姿は、まるで夜の王妃のようだった。


 レンディアヌは、彼女の姿を見た瞬間に顔をぱっと輝かせた。


「叔母様!」


 高座から軽やかに駆け下り、一直線にサーヴィアのもとへと向かう。


「レンディアヌ」


 サーヴィアは静かに微笑み、片膝をついて身を低くし、両手を広げた。レンディアヌはその胸に飛び込み、サーヴィアもやさしく彼女の背を抱きしめた。


「来てくれて嬉しい! 叔母上のこと、ずっと待っていたんです!」


「それは光栄だわ。わたくしにとっても、今日は特別な日よ」


 声は柔らかく、仕草も優雅。しかし──その目の奥に宿る光だけは冷ややかで、氷のように透き通っていた。


(この子さえいなければ)


 サーヴィアは抱きしめる腕に、かすかに力を込めた。脆く、柔らかく、無垢な命。この掌で容易に消せるもの──だが、彼女は遠くで自分を見るリリアントと数人の近衛兵の視線を感じとり、レンディアヌを離した。


 席に座るリリアント、剣の柄から手を離す近衛兵と侍女。サーヴィアは不敵な笑みを浮かべた。


「さあ、席へ戻りましょう。お祝いはこれからですもの」


 レンディアヌは嬉しそうにうなずき、サーヴィアの手を引いて共に玉座の近くへと歩いていった。リリアントは娘の背を見守りながら、サーヴィアに視線を向けた。目と目が合う。互いに微笑む。だがその笑顔の裏には、幾重にも折り重なった計算と警戒があった。


 宴は、さらに華やかさを増していった。


 宮廷料理長が腕によりをかけた料理が次々と運ばれ、空には果物と蜜の香りが広がった。大皿に盛られた銀鱗魚の炙り焼き、星花の蜜をかけたドラゴンのロースト、万年茸のソースを使ったパイ。


 レンディアヌは、料理に手をつけながら、隣に座るサーヴィアと時折言葉を交わした。話題は絵画のこと、最近読んだ本のことなどだ。


 笑顔で語る姪とそれに微笑む叔母。はたから見れば微笑ましい光景だ。だが、サーヴィアの心の内を知れば不気味な光景に早変わりする。


 サーヴィアの指先が、ワインの杯に触れた。濃い赤色の液体が静かに揺れる。それはまるで血のように濃く、底知れない欲望の色をしていた。


 彼女は笑っていた。目元にかすかな皺を寄せて、やわらかな声で姪と語らう。その微笑は暖かく、慈愛に満ちているようにすら見える。だが、心の奥では別の思考が静かに渦巻いていた。


(よくもまあ、あの女はここまで育てたものね。これほど帝位にふさわしい装いと立ち振る舞い……あの小さな器に、帝国の未来を詰め込もうというの?)


 レンディアヌが愛らしく笑うたび、その姿がサーヴィアの胸中に毒を垂らしていった。 


 ちらと視線を横に送る。すぐそばの席に座るリリアント。あの女の存在が、全てを狂わせている。


 リリアントは、娘を護る壁のようにそこにいた。華やかな衣に身を包み、笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には揺るぎない鋼の意志があった。彼女は、この帝国を、娘に譲るべく動いている。密かに、確実に。


(そう簡単には落とせないわね)


 しかし、サーヴィアもまた、ただの野心家ではない。彼女は待つ。時が満ちるその瞬間まで、蛇のように静かに息を潜めるのだ。



「リリアント、久しぶりに話しするのは久しぶりね。こうやって喋る機会は」


 サーヴィアが杯を片手に声をかけた。レンディアヌが料理に気を取られている隙を見計らってのことだ。


「こちらこそ、ようこそお越しくださいました、サーヴィア様」


 二人の視線が交錯する。一瞬の静寂。周囲には笑い声や楽団の音が満ちているはずなのに、そこだけが別の空間のように感じられた。


 会話の応酬は柔らかく、礼儀を逸するものは一切ない。それでいて、言葉の一つひとつが探り合いの刃となっていた。互いの腹の底にあるものを、わずかでも見せまいとしながらも、確かめずにはいられない。


(こうしたら、どう出るか)


 サーヴィアは立ち上がり、レンディアヌに向かって優しく手を差し伸べた。


「少し、踊りましょうか。お祝いの日ですもの。ね?」


 レンディアヌは無邪気にうなずき、その手を取る。小さな白い手が、サーヴィアの手の中にすっぽりと収まった。


「レンディアヌ」と思わず、声に出すリリアント。彼女は直後に何でもないと言って席に座った。


「行きましょう」リリアントに笑みを浮かべたあと、サーヴィアはレンディアヌの手をとって前に出た。


 中央の広間に二人が現れると、楽団は空気を読み、新たな旋律を奏ではじめた。緩やかで、優美な曲。帝国の古い伝統に則った、王家の舞曲。


 レンディアヌの足取りは軽く、楽しげだ。サーヴィアは完璧な笑顔を浮かべ、彼女に合わせてステップを踏む。その姿はまさしく、理想の“高貴な叔母”そのものだった。


 しかし、サーヴィアの胸の内には、冷たい炎が宿っていた。


(この舞台が、いつか血に染まる日が来る。だが、それは今日ではない。今日だけは、この子の記憶に“祝福された日”として刻まれねば)



 踊る二人を、リリアントは黙って見つめていた。杯の中の酒を、静かに傾けながら。目は笑っていない。むしろ、沈黙の中で何かを測り続けている。


(私がここにいる限り、レンディアヌに手出しはさせない。たとえあの蛇がどんな毒を持っていても)


 リリアントは静かに立ち上がった。舞が終われば、次の挨拶が控えている。だが彼女にとって、それはただの儀式ではなかった。娘を守るための、戦場のひとつだ。


 祝宴は、なおも盛大に続いていた。だが、その華やかさの裏では、すでに見えぬ剣が抜かれ、鋼の意志が交錯している。


 

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