第05章 神子の覚悟、妃の決別
第24話 王太子との再会
重厚な扉が、低い音を響かせて開いた。
その音は、王宮の冷たい空気に吸い込まれ、謁見の間全体に重く響き渡る。
扉の向こうから差し込む光は、まるで宵の新たな決意を照らすかのようだった。
磨き上げられた石の床、黄金に輝く装飾、天井から垂れる絹の帷幕。かつての栄華を誇るその空間は、しかし今、どこか淀んだ空気を纏っていた。
白羽山の清らかな社とも、庵の素朴な暮らしとも異なる、威圧と虚飾に満ちた空間――玉座の間は、宵にとってもはや過去の遺物のように感じられた。
その中央、階段の上に、王である明照は座していた。
彼の顔には、かつての傲慢な輝きはなく、深い疲労と拭いきれない焦燥の影が刻まれている。
その瞳は、まるで遠い過去の幻を追うかのように虚ろだった。
嘗て出会ったときの彼は、鋭い眼差しと冷たい声音で、宵を遠ざけた。
だが今、彼の瞳は僅かに陰りを帯び、声も落ち着きを含んでいる。
その落ち着きは、諦めにも似た、静かな絶望を秘めているかのようだった。
「……宵」
名を呼ぶその響きは、過去に彼が向けたものとは違っていた。
嘗ては命令のように、あるいは無関心に呼ばれた名が、今は微かな後悔と、縋るような響きを帯びている。
明照は深く息を吐き、玉座の肘掛けに置いた指先をわずかに震わせている。
その震えは、彼の内なる動揺と、王国の窮状が彼に与える重圧を物語っていた。
「君が去ってから、私は……何もかもが崩れた。土地は痩せ、作物は枯れ、民は病に倒れ、神託の声は完全に途絶えた。かつてこの国を護っていたはずの神の加護が、まるで氷のように消え去ったのだ……」
声は静かだったが、そこには嘗て見せなかった脆さが滲んでいる。
彼の言葉は王国の崩壊を、そして彼自身の無力さを、静かに告白しているかのようだった。
「臣下の声も、民の嘆きも、耳に入らなかった……私にはただ、空虚が残っただけだ。この宮の空気さえ、君がいた頃とはまるで違う。まるで、命の灯が消えたかのように……」
明照は、ゆっくりと立ち上がり、階段を下りて宵の前に歩み寄る。
その足取りには、以前のような傲慢さはなく、どこか迷いを含んでいるかのように。
視線は、宵の顔から、彼女が纏う簡素な旅衣へと向けられた。
「だが……気づいたのだ。全てを失いかけて初めて私は愚かにも気づいた。君が必要なのは、力ではない。神子の加護でも、子を成す器でも、王家の道具でもない……君そのものだったと……君の存在そのものが、この国にとって、私にとって、どれほど重要であったか……」
明照は、宵の瞳をまっすぐに見つめ、縋るように言葉を続ける。
「頼む、宵、もう一度、この国に戻ってきてはくれないか?君さえいてくれれば、きっとこの国は救われる。君の祈りだけが、この国を救えるのだ」
玉座の間に静寂が落ちる。
誰も声を発さず、宵と明照だけが、その場に存在しているかのように、互いの存在を際立たせていた。
その沈黙は、明照の切実な訴えを、より一層重く響かせた。
その光景を、玉座の間の隅から、側室である澪音が息を潜めて見つめている。
彼女の顔は、明照の言葉を聞くにつれて、血の気が失せていく。
嘗て蔑んだ神子が、今や王太子に縋られており、その屈辱と焦燥が彼女の胸を締め付けた。
(う、嘘、明照様が、なぜあの女に……あんなに冷たく切り捨てたはずなのに!)
澪音の心の中で、怒りと絶望が渦巻いた。
宵は、ただ静かに彼を見つめ返している。
そこにあるのは、嘗て自分を追放した男の顔。
だが同時に、過ちを悔い、何かを取り戻そうとする男の姿でもあった。
彼の瞳の奥に、微かな痛みが揺らめいているのを感じた。
彼の変化を、宵は確かに感じ取った。
王太子としての驕りが消え、一人の人間としての弱さを露呈している。
だが――心の奥で、ひとつの思いが芽生える。
(『必要』と『愛』は、同じではない)
その言葉は、彼女の胸の奥で静かに、しかし確かに響いていた。
明照が今、彼女を『必要』としているのは、国が滅びかけているからだ。
それは、自分を『子を産む器』として必要としたのと同じ、役割としての『必要』 に過ぎない。
嘗ては命じられるままに『神子』として隣に立ち、契りを強いられた。
その日々は彼女の魂を深く傷つけており、今でも心の中に残っている。
けれど今の宵は、もう誰かに必要とされるだけの存在ではない。
庵で過ごした日々、桂火と鈴羽の笑顔、火を囲んで交わした温もり。
そこにあったのは、力を求められる事でも、役割を強いられることでもない。
ただ『宵』というひとりの人間を見て、共に在ろうとしてくれる確かな絆。
それは、彼女が真に求めていた「愛」の形だった。
(……なんて、身勝手な)
まさか宵がそのように考えている事など、目の前の男は知る由もない。
宵はゆっくりと、しかしはっきりと口を開いた。
「殿下、私はもはやこの国の妃ではありません。そして、あなたの隣に立つ理由もございません」
その言葉に、明照の顔から血の気が失せた。
宵の瞳は、静かに揺るがない光を宿している。
その光は、明照の切実な眼差しを受け止めながらも、決して揺らぐことはなかった。
それを見て、明照は言葉を失う――彼の瞳に、絶望の色が微かに滲んだ。
玉座の間に流れる沈黙は、嘗てとは違う意味を持っていた。
それは、王の言葉が、もはや神子の心を動かす力を持たないことを、静かに告げる沈黙。
澪音は、その沈黙の中で、自身の野望が音を立てて崩れ去るのを感じていた。
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