第七話 「青年①」

朝から照りつける太陽に、私は額の汗を手の甲で拭った。


坂道を自転車で登るのは、いつものこと。けれど今日に限って、後輪から異音がしていた。


「……まさか、パンク……?」


コノハは自転車の横にしゃがみ込み、ため息をついた。


「……やっぱりパンクしてる。遅刻するじゃん…」


私はうんざりと空を仰いだ。旅館まではあと15分。けれど、ここからは上り坂だ。


「どうしよう…」


額の汗をぬぐいながら悩んでいると、すぐそばで自転車のブレーキ音が鳴った。


「大丈夫?」


顔を上げると、私と同じ歳くらいの青年が立っていた。



短く整った黒髪に、陽の光を受けて赤茶に揺れる瞳。均整の取れた顔立ちは、どこか中性的で――長いまつ毛が印象的だった。



そして、その自転車の両ハンドルには、袋いっぱいの野菜がぶら下がっている。


「タイヤ、やばそうだな。パンクか?」


「あ……はい、みたいです……。」


「どこに行くつもりだったの?この辺で見ない人だけど、観光?」


「あ、いえ。この坂を登ったとこにある旅館でバイトしてるんです。」


「旅館?」


「はい、最近雇ってもらったんです。知ってるんですか?」


「もちろん!榎木さんのとこは、うちのお得意様だからね。あ、俺んち八百屋だから」


そういって、ハンドルにぶら下がってる袋を指差しながら、ニコッと笑った。


「あ、なるほど。」


「でも、あの旅館にバイトって珍しいね。」


「珍しいですか…」


「俺の知ってる限り、バイト雇ってるのみたことないし。」


(この人は、あの旅館の“秘密”は知っているのだろうか。)



そう思っていると、青年は小さく頷きながら呟いた。



「俺もちょうど、そこに野菜を届けるとこだから後ろ、乗る?」



あまりにあっさりとした提案に、コノハは思わず目を見張った。



「えっ?後ろですか?…いやいやそんな、ご迷惑はかけれません!それに2人乗りって良くないですよね…」



「いいって。俺、迷惑とか思ってないし。目的地一緒だし、バイト遅刻するかもしれないんだろ?」


 

涼しい笑顔でそう言うと、彼はスタンドを外してサドルを軽く叩いた。


 ――迷ったのは一瞬だった。


今のままじゃ遅刻確定。


神様、今日は2人乗り許してください!と心の中で懺悔して、私はおそるおそる自転車の荷台にまたがった。


「…失礼します。」


「しっかりつかまってろよ。坂道、飛ばすから」


その言葉どおり、自転車は軽快に走り出した。



初対面の人の背中に掴まるなんて、申し訳ないと思いながらも、不安定な坂道でバランスが取れるわけもなく…。


ぎゅっと腰を引き締め、コノハは青年の背中に手を添えた。


(……両ハンドルに袋いっぱいの野菜、荷台に私。絶対に重いよね)



そんな心配をよそに、彼は息一つ乱さず、立ち漕ぎで坂道を駆け上がっていく。その姿は頼もしく、どこか涼やかだった。



「……この人、モテるだろうな」



「え?ごめん、聞こえなかった。何か言った?」


 思わず口をついて出た独り言に、自分で赤面していた。


気がつけば、もう旅館の前に着いていた。


「うそ……もう?」


「何度もこの旅館に来てるし、坂道は慣れてるからな」


彼は爽やかに笑うと、自転車を降りた。


「バイト、間に合いそう?」


「はい…本当にありがとうございました。恩人です!」



息を整えながら、私は頭を下げる。



「じゃあ、榎木さんに野菜届けたいんだけど……呼んできてもらってもいい?」


「はい!暑いので玄関のなかで待っててください。」


私は小走りで旅館の玄関をくぐり、榎木さんを呼びにいった。


「榎木さん、お疲れ様です!玄関で配達の方が来られてます。」

 

「コノハさん、お疲れ様。ありがとう、ちょっと行ってくるね」


いつもの笑顔で榎木さんは、玄関の方へ向かって少年と話始めていた。


「あの人のお陰でバイトにも間に合ったし、さっそく掃除をはじめよう」


準備を始めようと廊下を歩いていると、反対側からキラキラした目をしたもみじ君が走ってきた。


「コノハさん! レイ兄ちゃん来てるの!?」


「レイ兄ちゃん?八百屋の配達の男の人なら来てたよ。今、玄関で榎木さんと話してる。」


「絶対にレイ兄ちゃんだー!」


私の言葉を聞くやいなや、もみじ君は走り出した。


その小さな背中を見ながら、自然と笑みがこぼれた。


 「……レイっていうんだ。もみじ君、すごく嬉しそうだったな」


初対面の私にも親切にしてくれた人だ。


もみじ君にとっても、信頼できる人なんだろう。


私の心の中が、ほわっと暖かくなるのがわかった。

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あやかし旅館 百瀬 あぐり @aguri0314

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