第5話:枷
アルフレッドが過去を告白した夜、俺はなかなか寝付けなかった。
暖炉の火が消え、小屋が静寂に包まれる中、俺は師匠の言葉を何度も頭の中で反芻していた。
『お前は、あの子によく似ている』
『運命なんかに縛られず、自分の足で立ち、自分の意志で道を選べる……そんな「自由」を掴むための力を』
自由。
その言葉が、ずしりと重くのしかかってくる。
今までの俺は、自由だっただろうか。いや、違う。
親に反発もせず、ただ言われるがままに大学へ行き、周りに合わせてなんとなく日々を過ごす。
それは自由なのではなく、ただの思考停止だ。自分の意志で何かを選び取ることの面倒さから、目を背けていただけ。
アルフレッドは、そんな俺の空っぽさを見抜いていた。
そして、かつて守れなかった誰かの姿を、俺に重ねている。
この人の想いに応えたい。
その気持ちは、昨日までの漠然としたものとは違っていた。
師匠が俺に託そうとしているのは、同情や憐れみではない。
彼の後悔と、それでも捨てきれなかった願いそのものだ。
空っぽの俺が、それを受け止める資格があるのだろうか。
答えは出ないまま、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
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翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。
小屋の外に出ると、ひんやりとした朝の空気が肺を満たす。東の空が、ほんのりと白み始めていた。
「目的、か……」
アルフレッドに言われた言葉が、再び胸をよぎる。
まだ、俺には目的と呼べるような大層なものはない。
だが、一つだけ、確かなことがある。
このままじゃダメだ。変わりたい。
師匠の想いに、胸を張って応えられるような男になりたい。
それは、俺がこの世界に来て、初めて自分の意志で抱いた、ささやかな、しかし確かな願いだった。
俺が静かに決意を固めていると、背後で小屋の扉が開く音がした。
「早いな、リヒト」
「師匠こそ」
振り返ると、そこにはいつもと変わらないアルフレッドが立っていた。彼は、俺の顔をじっと見ると、何かを察したように、だが何も言わずに頷いた。
「よし。準備をしろ。明日、街へ行くぞ」
こうして、俺たちは街へ向かうための準備を始めた。干し肉や保存食を革袋に詰め、万が一に備えて矢筒を矢で満たす。
初めて見る街、初めて見る人々。俺の心は、昨日までとは違う、確かな熱を帯びていた。
そんな準備の最中、アルフレッドは険しい顔で俺に言った。
「リヒト。街へ行く前に、最後の仕上げだ」
「仕上げ、ですか?」
「ああ。お前のマナコントロールも、ようやく人並みにはなってきた。ロウソクの火を消さずに揺らし続けることもできるようになったしな。だが、それはあくまで小手先の技術だ」
彼は、昼間の見回りから戻り、その際に仕留めたゴブリンの死体を片付けながら、苦々しげに続けた。
「人のマナには、良くも悪くも魔物を惹きつける特性がある。だが、周囲の環境に影響が出るほど魔物を呼び寄せるのは、通常、百人単位の人間が集まった場合だ。村一つ分だな」
アルフレッドの顔に、険しい皺が刻まれる。
「最近、この森に魔物が増えているのは、十中八九、お前のせいだろう。お前のマナの量が、それだけ桁外れだということだ。今のレベルであれば、一か所で訓練を続けるのを避ければ、マナは自然と散って問題にはならん。だが……万が一、お前の全力のマナが俺の想像を遥かに超えるものだった場合、話は別だ」
「……どういうことですか?」
「魔術の訓練を続ければ、体外に漏れ出すマナの量は自然と増えていく。熟練の魔術師ならばそれすら制御できるが、今の未熟なお前では無理だ。もし、お前の全力があまりに膨大だった場合、この森に留まること自体が危険になる。その時は……この小屋を捨てて、街へ拠点を移さねばならん」
「街へ……」
「そうだ。街の多くは『聖域』と呼ばれる、神の力が強く宿る土地に作られている。聖域には魔物を寄せ付けない力があるから、人々は安心して暮らせる。だからこそ、お前は自分の力を完全に把握する必要があるんだ」
アルフレッドは、いつになく真剣な目で俺を見据えた。
「お前はまだ、自分の力の底を知らない。器にどれだけの水が入っているのか分からなければ、上手く注ぐことなどできん。一度、全力でマナを解放しろ。己の限界を知ることで、初めて力加減というものが感覚的に理解できるようになる」
「ぜ、全力で……ですか? でも、それって……」
「危険なのは分かっている。今までお前に全力を出すことを禁じてきたのは、コントロールが未熟なままでは、力の方向性すら定められず、お前自身が暴発しかねなかったからだ。だが、今の───方向性だけは定められるようになったお前なら、あるいは」
師匠の覚悟に応えたい。その一心で、俺は頷いた。
――目を閉じ、意識を深く、深く沈めていく。腹の底にある、あの温かい熱源。今まで、恐る恐る触れるだけだった、俺自身の力の核。
アルフレッドの言葉を信じ、俺はその核にかけられていた枷を、自らの意志で外した。
――ドクンッ!
心臓が、大きく跳ねた。
まるで堰を切ったように、今まで抑え込んでいたマナが、全身の血管を駆け巡る。いや、もはや奔流などという生易しいものではない。内側から世界そのものが書き換えられていくような、圧倒的な力の洪水。
「そうだ、その感覚だ! 恐れるな、リヒト! 全てを受け入れろ!」
アルフレッドの声が、遠くに聞こえる。
視界が、蒼い光で塗りつぶされていく。熱い。体が、内側から焼き尽くされるようだ。だが、不思議と苦痛はなかった。むしろ、今まで窮屈な殻に閉じ込められていた魂が、ようやく本当の姿を取り戻していくような、歓喜にも似た感覚があった。
光が、俺の額に収束していく。無数の光の粒子が、複雑な紋様を描きながら、荘厳な冠を編み上げていくのが見えた。
同時に、背中に灼けるような感覚が走る。まるで、そこに存在しないはずの何かが、内側から世界へと飛び出そうとしているかのようだった。それは、凄まじい圧のはずなのに、俺の心は歓喜に打ち震えていた。
「う、あああああああああああああああああああああっ!!」
それは、もはや人間の声ではなかった。
生まれたての赤子のような産声であり、世界の理へ己の誕生を告げる、魂の雄叫びだった。
力の奔流に耐えきれず、視界が激しく明滅し、世界がぐにゃりと歪む。立っているのがやっとだった。
マナの放出が落ち着き、ぜえ、ぜえ、と荒い息を繰り返す。肺が酸素を求めて悲鳴を上げていた。
ようやく明滅していた視界が焦点を結ぶと、アルフレッドが、見たこともないような蒼白な顔で俺を見下ろしていた。その目は、驚愕と、恐怖と、そして……何かを深く悔いるような色に染まっていた。
「師匠……? どうしたんですか……?」
掠れた声で尋ねる俺に、彼は震える声で呟いた。
「……今の光は……一体……。馬鹿な……。そんなはずは……」
彼は何かをブツブツと呟き、俺にはその言葉の意味を理解できなかった。ただ、師匠が俺の力の暴発に、ただならぬ何かを感じ取っていることだけは分かった。
「問答は後だ!」
アルフレッドは、俺の言葉を遮るように叫んだ。
「こうしてはいられん! 予定を早める、今すぐ森を出るぞ! あれだけのマナを放出できるとは予想外だった、とんでもない奴らが嗅ぎつけてくる前に!」
矢継ぎ早に告げられる事実に、俺の頭は追いつかない。
だが、アルフレッドの鬼気迫る表情が、それが冗談ではないことを物語っていた。俺たちは、ろくに準備もできないまま、夕闇の中、小屋を飛び出した。
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