第4話:自由
そんな魔術訓練が始まって一月ほど経った頃、森の様子に明らかな変化が現れ始めた。小屋の周りで見かける獣の数が増え、夜には、これまで聞こえなかったような不気味な鳴き声が響くようになったのだ。
「師匠、最近、物騒になってきてませんか?」
「ああ、気を引き締めろ。どうも森の様子がおかしい。見慣れん魔物が増えてきている」
その言葉通り、罠の見回りに出かけると、以前よりも頻繁に魔物の痕跡を見つけるようになった。
ある日の朝、アルフレッドはいつもより険しい顔で言った。
「リヒト、今日は森の少し奥まで見回りに行く。準備をしろ」
彼がそう言うと、小屋の壁にかけてあったショートソードを手に取り、俺に差し出した。それは、今まで使っていた木剣とは違う、鈍い光を放つ本物の剣だった。
「師匠、これは……」
「今日からは、それを使え。いつまでも稽古気分のままでは、いざという時に刃が鈍る。命を奪う鉄の重みを、その手に刻み込め」
渡された剣はずしりと重く、ひやりとした感触が手のひらから伝わってくる。これが、本物の武器。
武器の重みを感じながら森の中を歩く。
「……止まれ」
不意に、前を歩いていたアルフレッドが、低い声で俺を制した。
茂みの向こうから、複数の気配がする。獣ではない。もっと狡猾で、悪意に満ちた気配。風に乗って、鼻をつくような獣臭と腐臭が漂ってきた。
ガサガサッ、と音を立てて、茂みから現れたのは、五体のゴブリンだった。緑色の肌、鉤爪のような指、そして、その手には錆びついた棍棒や短剣が握られている。その濁った瞳が、獲物を見つけた喜びにぎらついた。
「……ちっ、面倒なのが出たな」
アルフレッドが舌打ちする。
「リヒト、俺の背後にいろ。だが、いつでも動けるようにしておけ。稽古通りになどいかんぞ」
「は、はい!」
心臓が、喉から飛び出しそうだ。初めて対峙する、本物の魔物。手のひらの汗で、握りしめた剣の柄が滑る。
ゴブリンたちは、下卑た笑い声を上げながら、じりじりと距離を詰めてきた。
「リヒト、右の二体だ! やれ!」
アルフレッドの号令が、俺の体を無理やり動かした。恐怖で固まる足を叱咤し、飛び出す。
一体のゴブリンが、奇声を発しながら棍棒を振りかぶってくる。稽古を思い出し、半身になって剣で受け流す。
ガギンッ!
木剣とは比べ物にならない、硬質な衝撃。腕が痺れ、体ごと持っていかれそうになる。だが、持ちこたえられた。無意識に漏れ出るマナが、俺の身体能力を底上げしているおかげだろう。
俺は、アルフレ-ッドに教わった通り、受け流した勢いを利用して、がら空きになったゴブリンの胴に、渾身の力で剣を突き出した。
ぐにゃり、とした生々しい感触。肉を断ち、骨に当たる硬い感触が、剣を通して腕に伝わる。
「グギャッ!」
ゴブリンが短い悲鳴を上げて吹き飛ぶ。俺は、自分の剣が初めて命を奪ったという事実に、一瞬思考が停止した。
その隙を見逃さず、もう一体が短剣を構えて突進してくる。
「リヒト!」
アルフレッドの鋭い声で我に返った。俺は咄嗟に後方へ飛び退く。その動きは、自分でも驚くほど素早かった。
ゴブリンの短剣が、空を切る。俺は体勢を立て直し、今度は自分から踏み込んだ。恐怖はある。だが、それ以上に、師匠の期待に応えたいという気持ちが強かった。
俺の剣が、ゴブリンの肩口を浅く切り裂く。
「ギッ!」
ゴブリンが怯んだ隙に、俺はさらに一歩踏み込み、心臓めがけて剣を突き立てた。
その間にも、アルフレッドは残りの三体を、まるで舞うように、いとも簡単に打ち倒していた。彼の剣は、無駄な動き一つなく、ゴブリンたちの急所を正確に貫いていた。
「……ふん、形にはなってきたか」
全てのゴブリンが動かなくなったのを確認し、アルフレッドが俺の方を振り返った。
「だが、動きが硬い。それに、まだ殺気に対する反応が鈍い。実戦では、一瞬の油断が命取りになる」
厳しい言葉だったが、俺は彼の言う通りだと思った。
「す、すみません……」
「謝る必要はない。これが、お前の初陣だ。上出来な方だろう」
アルフレッドはそう言うと、ゴブリンの死体を検分し始めた。
「それにしても……妙だな。この辺りには、ゴブリンなどほとんどいなかったはずだ。まるで、何かの匂いに誘われたように集まってきている……」
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季節が巡り、森での生活が一年を過ぎた頃。 ふと、気まぐれに、俺がこの世界に来た時に着ていたスウェットに袖を通してみた。
「……あれ? きつい……」
肩はパンパンで、胸回りははち切れそうだ。いやそれだけなら筋肉量が増えたことで説明ができる。おかしいのはズボンやシャツの丈が短くなっていることだ。まるで、成長期の子供の服を着ているかのようだった。
「師匠、俺、まだ背が伸びてるみたいです。もう二十歳過ぎてるのに、おかしいですよね?」
俺が笑いながら言うと、アルフレッドは厳しい顔で俺の体つきを検分した。
「……おかしいな。確かに、お前さんの体は一年前とは比べ物にならんほど鍛えられている。だが、これはただの筋肉の付き方じゃない。骨格そのものが、成長している……?」
言われてみれば俺の身長は170cmなかったくらいだ。会った当時はアルフレッドを見上げていたのに今ではほぼ同じ目線。190cm近いのではないだろうか。
彼は、その常人離れした成長に、ただならぬ何かを感じ取っていたが、その正体までは掴めずにいた。
その夜、暖炉の火を囲みながら、アルフレッドが切り出した。
「リヒト。お前もこの生活に慣れてきた。近いうちに一度、街へ下りるぞ」
「街へ、ですか?」
「ああ。普段は数日かけて麓の村で物々交換を済ませるが、今回は違う。お前には、この世界の常識というものを学んでもらう必要がある。金銭感覚、人との接し方、今の王国の情勢……。そのためには、村より街の方が都合がいい」
街、という言葉に、俺の心は少しだけ浮き立った。だが、アルフレッドは真剣な表情で続ける。
「その前に、話しておかねばならんことがある。街へ行けば、俺の素性を知る者に出会うかもしれん。その時にお前が戸惑わぬよう、先に俺の口から話しておく」
いつになく真剣なその表情に、俺はゴクリと唾を飲んだ。
「俺は昔、アステル王国の聖教会で、騎士団長を務めていた」
「えっ!? 師匠が、騎士団長!?」
驚く俺に、彼は静かに頷いた。
「お前が、俺の過去を気にするのも無理はない。だから話しておこう。俺がなぜ、こんな森の奥で隠者のような暮らしをしているのかをな」
アルフレッドは、暖炉の揺れる炎に、遠い過去の面影を重ねるように目を細めた。
「俺の騎士団は……以前話した『天使』の一人を守護する任を負っていた。俺が仕えたのは、一人の心優しい少女だった。戦いなど好まず、ただ、花を育てたり、歌を歌ったりするのが好きな、普通の女の子だった。だが、教会はそれを許さなかった。天使は、人類を守るための『兵器』でなければならん、と。彼女のささやかな願いは、全て踏みにじられた」
アルフレッドの声は、深い後悔に震えていた。
「俺は、騎士団長という立場にありながら、彼女を守ってやれなかった。ただ、使命という名の鎖に縛られ、心を殺していく彼女を見ていることしか……。そして、彼女は……ある戦いで、命を落とした。笑うことも忘れてしまった、寂しい顔でな」
拳を握りしめ、アルフレッドは続けた。
「俺は、全てが嫌になった。教会も、騎士団も、そして、天使一人救えなかった自分自身も。だから、全てを捨てて、この森に逃げ込んだ。俗世を離れ、誰とも関わらず、静かに朽ち果てようと……そう思っていたんだ。お前と出会うまではな」
アルフレッドの言葉が、小屋の静寂に重く響いた。
師匠が時折見せる、深い悲しみの理由。以前俺に問いかけた「自由」という言葉の意味。その全てが、一本の線で繋がった気がした。
彼はただの元騎士ではない。深い傷を負い、過去に囚われた一人の人間だった。そして、そんな彼が、俺に手を差し伸べてくれている。
「師匠……」
俺に、何が言えるだろうか。無力で、空っぽだった俺に。
「お前は、あの子によく似ている。空っぽの目をして、何にも期待せず、ただ流されるままに生きている。だが、お前のその器は……空っぽだからこそ、何にでもなれる。だから、俺は決めたんだ。お前に、俺が彼女にしてやれなかった全てを与えよう、と。運命なんかに縛られず、自分の足で立ち、自分の意志で道を選べる……そんな『自由』を掴むための力を」
アルフレッドの言葉は、もう俺を通り過ぎてはいかなかった。
その言葉の重みが、込められた想いが、俺の空っぽだった心に、ずしりと響く。
この人の想いに応えたい。
師匠が俺に託そうとしている「自由」という名の願い。
その言葉が、今まで何も映さなかった俺の心に、初めて小さな波紋を広げていた。
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