第6話:天の使い


「いいか、リヒト。何があっても俺から離れるな。そして、絶対に魔術は使うな! お前のマナは、闇の中では灯台の光も同然だ。奴らを呼び寄せるだけだぞ!」


アルフレッドはそう言うと、剣を抜き放ち、俺を背後にかばいながら森の奥へと進み始めた。

目指すは、森の東の出口。そこを抜ければ、アルトハイムの街へと続く街道に出るという。


月明かりだけを頼りに、俺たちは獣道をひた走った。だが、森は俺たちを容易には通してくれなかった。


「グルルァ!」


茂みから飛び出してきたのは、巨大な牙を持つ狼型の魔物。アルフレッドがそれを一閃のもとに切り伏せる。


「師匠!」


「来るぞ、リヒト!」


休む間もなく、今度は木の陰からゴブリンの群れが姿を現した。


「やはり、お前のマナに引き寄せられている! さっきの暴発で、森中の魔物を呼び覚ましてしまったか!」


アルフレッドは忌々しげに吐き捨て、剣を振るう。


「リヒト、背後は任せたぞ!」


「はい!」


俺もショートソードを構え、彼の背中を守るように戦った。月明かりが差し込む森の中、甲高い金属音と、魔物の下卑た雄叫びが響き渡る。アルフレッドの剣は、まるで流星のようだ。一閃するごとに、ゴブリンの首が飛ぶ。彼の動きには一切の無駄がなく、最小限の動きで敵の攻撃をいなし、的確に急所を貫いていく。


俺は、師匠の背後から襲いかかろうとするゴブリンに斬りかかった。剣が肉を裂く生々しい感触に吐き気を催しながらも、必死で剣を振るう。一体倒したかと思えば、すぐに新たな一体が躍り出てくる。


「ぐっ…!」


横から突き出された槍を、咄嗟に剣で弾く。腕が痺れる。息が上がる。だが、止まることは許されない。師匠の背中を守る。その一心だけが、俺を突き動かしていた。


断続的に、しかし波のように押し寄せる戦闘で、俺たちは少しずつ体力を削られていく。


どれくらい走っただろうか。

森の出口を示す、巨大な岩が見えてきた。あと少し。そう思った、その時だった。


今までとは比較にならない、濃密な獣の気配。周囲の木々がざわめき、大地が揺れる。


俺たちの前に、ゆっくりと姿を現したのは、身長3メートルはあろうかという、四ツ腕の魔猿だった。その全身は赤黒い体毛で覆われ、爛々と輝く目は、明確な知性と悪意を宿していた。


「グオオオオオオッ!」


天を衝くような咆哮。その風圧だけで、体がよろめく。


「……まずいな。まさか、"厄災級"を引き寄せちまうとは……」


アルフレッドの声が、微かに震えていた。元騎士団長である彼が、これほどまでに動揺する姿を、俺は初めて見た。


「厄災級……?」


「ああ。ごく稀に現れ、一つの街を一夜にして滅ぼすと言われる、規格外の魔物だ。俺が騎士団にいた頃でさえ、遭遇したのは数えるほど……」


アルフレッドが、俺をかばうように前に出た。その背中は、いつものように大きく、頼もしかったが、どこか悲壮な覚悟が漂っていた。


「リヒト、よく聞け。こいつは、俺が一人で勝てる保証はない。だが、やるしかない」


彼は剣を強く握りしめる。


「俺がこいつを食い止める。その隙に、お前だけでも逃げろ!」


「そんなことできるわけないでしょう!」


俺は叫んだ。恐怖で声が震える。だが、それ以上に、腹の底からこみ上げてくる感情があった。

逃げる? 俺だけが?

冗談じゃない。こいつがここにいるのは、俺のせいだ。俺の力が、師匠をこんな危険な目に遭わせている。ここで師匠を見捨てて逃げるなんて、そんなことをしたら、俺は元の空っぽな自分に逆戻りだ。師匠が教えてくれたこと、託してくれた想い、全部無駄にしてしまう!


「問答無用だ!」


アルフレッドは、俺の返事を待たずに魔猿へと突進した。元騎士団長の剣技は、まさに神業だった。魔猿の四本の腕から繰り出される、嵐のような猛攻。それを、アルフレッドは紙一重で見切り、いなし、的確に反撃を加えていく。剣が甲高い音を立ててぶつかり合い、火花が散る。


だが、相手が悪すぎた。魔猿のパワーは圧倒的で、アルフレッドの剣撃は、その分厚い筋肉に阻まれて致命傷を与えられない。逆に、掠めた一撃で革鎧が裂け、腕から血が噴き出す。


「師匠!」


それでも、アルフレッドは退かなかった。一歩でも引けば、背後にいる俺が狙われると分かっていたからだ。彼は、自らの体を盾にして、俺を守り続けていた。


そして、ついに限界が訪れる。

魔猿の、予測不能な軌道を描く二本の腕による連撃。アルフレッドは一本目をどうにか弾き返すが、二本目の爪が、彼の腹部を深く引き裂いた。


「がはっ……!」


アルフレッドの巨体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。


「師匠ッ!」


絶叫が、俺の喉から迸った。

時間が、引き伸ばされたようにゆっくりと流れる。血を流し、地に伏せるアルフレッドの姿。その巨体を嘲笑うかのように見下ろす、四ツ腕の魔猿。

俺の頭の中で、何かが、ぷつりと音を立てて切れた。


違う。

違う、こんなのは、間違っている。

この人が、こんなところで、こんな化け物に、殺されていいはずがない。

この人は、俺に生きる場所をくれた。生きる術を教えてくれた。空っぽだった俺に、「自由」の意味を教えてくれようとした、たった一人の……。


――許さない。


腹の底から、マグマのような激情が込み上げてくる。

魔猿が、俺に気づき、その醜悪な顔を歪めた。次はお前だ、とでも言うように。

恐怖。絶望。そして、それらを塗りつぶすほどの、燃え盛るような怒り。

だが、どうすればいい? 俺の剣では、あの化け物には届かない。


「思い出せ、リヒト!」


その時、倒れたアルフレッドが、血を吐きながら叫んだ。

その声は、絶望に沈みかけていた俺の意識を、強く揺さぶった。


「あの時の感覚を! 己の器から溢れ出した、あの力の奔流を! 恐れるな、リヒト! 今こそ、お前の意志で、その力を掴み取れ! お前の本当の姿を、その力を見せるんだ!」


師匠の言葉が、引き金になった。


あの時の感覚。


そうか、あれは暴走じゃなかった。あれが、俺の本当の力。

今まで恐れて、蓋をしてきた、俺自身の魂の形。


目を閉じる。意識を深く、深く沈める。腹の底にある、あの熱源。


今度は、事故じゃない。

俺の意志で、この力を解放する。


師匠を守るために。


「ああああああああああああああああああああッ!!」


俺は叫んだ。

それは、もはや人間の声ではなかった。


全身から、蒼い光が奔流のように溢れ出す。視界が、蒼一色に染まった。

だが、今度は意識がある。俺は、自分の身に起きている変化を、はっきりと感じ取っていた。


額の周りに、光の粒子が集まり、荘厳な冠を形作っていく。

背中が、灼けるように熱い。そこから、巨大な蒼い光の翼が、夜の闇を切り裂くように広がった。


魔猿の目が、驚愕に見開かれ、その黒曜石のような瞳に、俺の今の姿が映り込んでいた。

冠を戴き、翼を広げた、人ならざる者の姿。


「これが……俺……?」


力が、湧いてくる。今まで無意識に身体能力を底上げしていた、あのマナの漏れとは比較にならない、爆発的な力の奔流が、全身を駆け巡る。


これが、俺の全力。


視界が、信じられないほどクリアになる。魔猿の筋肉の動き、呼吸、次の瞬間どこに攻撃が来るのか、その全てが線となって見えた。


アルフレッドが教えてくれた『魔術』とは、根本的に何かが違う。

魔術は、体内のマナを外部に顕現させるための、後天的に学ぶ『技術』だ。

だが、今俺の中で渦巻いているこの力は、技術などではない。

俺自身の内なるマナを燃やし、魂そのものを変質させて、己の存在を極限まで高める……生まれ持った権能。

師匠が語ってくれた、天使だけが持つという、唯一無二の『魔法』。


『蒼天の覇権(アズール・ドミニオン)』


その名が、思考ではなく、魂に直接響いた。

これが、俺の魔法。俺という存在に、生まれながらに刻み込まれた、絶対的な力。


俺は地面を蹴った。

景色が、後ろへ飛んでいく。

魔猿が、恐怖に顔を歪めるのが、スローモーションのように見えた。

手に握ったショートソードが、蒼い光を纏って輝く。


「死ねええええええええええッ!!」


振り下ろした一撃は、魔猿の屈強な腕を、骨ごとたやすく断ち切った。


夜通しの死闘が始まった。

魔猿は、残った三本の腕を巧みに使いこなし、俺に襲いかかる。だが、俺の体は、アルフレッドとの稽古をなぞるように、自然に、そして最適に動いた。

攻撃をいなし、カウンターを叩き込む。一撃一撃が、今までの俺では考えられないほどの威力と精度を持っていた。


東の空が、白み始める。夜の闇が、少しずつ薄れていく。

その光を背に受けた、その瞬間。俺は、勝機を見た。


魔猿が、最後の大技を繰り出そうと大きく身構える。その一瞬の隙。

俺は、背中の翼から溢れる蒼い光を爆発させ、地面を蹴った。体は弾丸のように天高く跳躍し、魔猿の頭上を取る。

そして、全ての力を込めたショートソードを、流れ星のように、魔猿の眉間へと叩き込んだ。


断末魔の叫びを上げる間もなく、魔猿の巨体は力なく崩れ落ち、やがて塵となって消えていった。


全身を包んでいた蒼い光が、すうっと消えていく。翼も冠も、幻だったかのように霧散した。

同時に、凄まじい疲労感と虚脱感が俺を襲った。立っているのがやっとだった。


「……師匠!」


我に返った俺は、アルフレッドの元へ駆け寄った。よろめく足で、必死に。

その腹に空いた、致命的な傷。どくどくと溢れ出す血が、地面に黒い染みを作っていく。


「師匠! しっかりしてください!」


俺の呼びかけに、アルフレッドは薄っすらと目を開けた。その瞳には、もう力がない。


「……無駄だ。内臓をやられた。もう、長くはもたん……」


掠れた声。だが、その目は、穏やかに俺を見つめていた。


「……見事だったぞ、リヒト。最後に見られて、良かった……」


彼の大きな手が、俺の頬に伸びる。その手は、ひどく冷たかった。


「その姿……やはり、お前は『天使』だったか……」


「天使……? 俺が……?」


さっき見た、自分の異形の姿が脳裏をよぎる。


「何を言ってるんですか! 死なないでください! 俺、師匠にまだ何も恩返しできてないのに……!」


熱いものが、頬を伝った。涙だった。止まらなかった。俺は、まるで子供のように泣きじゃくった。


「……空の色か。自由な、お前にぴったりの色だ……」


アルフレッドは、どこか満足そうに呟いた。


「いいか、リヒト……よく聞け。これが、俺からの最後の教えだ……」


アルフレッドは、俺の腕を力なく握った。


「……教会には、行くな。奴らは、お前を『兵器』として利用するだけだ。お前の自由を奪い、使命という名の鎖で縛り付ける……。俺が守れなかった、あの子のように……」


その目には、深い悲しみが浮かんでいた。


「お前は、自由になれ……。自分のやりたいことを見つけ、自分の足で歩き、自分の幸せを掴むんだ……。それが、俺の……唯一の願いだ……」


アルフレッドは、懐からあの黄色の翼を模した首飾りを取り出し、俺の手に握らせた。


「もし、どうしようもなく困ったときは……アルトハイムの街へ行け。そこに、俺の……息子がいる……。ゲオルグ、という名だ。あいつを……頼れ。きっと、力になってくれる……」


「師匠……!」


「泣くな、リヒト……。お前は、もう一人で立てる……。俺が、そう育てたんだからな……」


それが、アルフレッドの最後の言葉だった。

握っていた手から、力が抜けていく。

師匠の目は、静かに閉じられた。その顔は、とても安らかに見えた。


俺は、夜が明けるまで、ただ泣き続けた。

そして、太陽が昇り始めた頃、涙を拭って立ち上がった。

アルフレッドの亡骸を、日の当たる丘の上に埋葬した。武器だった剣を、墓標として突き立てる。


「師匠、ありがとう」


俺は、深く頭を下げた。

あなたにもらった、この命。この力。そして、この教え。

絶対に、無駄にはしない。


俺は、あなたの願い通り、自由になります。

そして、俺自身の幸せを、必ず見つけ出します。


アルフレッドのペンダントを強く握りしめ、俺は振り返ることなく歩き出した。

目指すは、アルトハイムの街。

師匠が愛した森に、背を向けて。


こうして、俺の本当の旅が、始まった。


まだ見ぬ世界へ。

そして、己の運命と向き合うために。


空っぽだった俺は、一つの大きな喪失と、確かな意志を胸に第一歩を踏み出した。

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