第5話 飯の時間

医務室の空気は、少しだけ冷たく張り詰めていた。


王约翰は、ベッドに腰掛けたまま、右の脇腹をそっと押さえた。

そこにあったのは、旧ソ連製の小型拳銃――マカロフ。

救命胴衣の奥に、海水で錆びかけた状態で隠されていたそれを、医務員が発見したのだった。


一歩前に出たのは、阿賀野だった。


彼女は無言で手を差し出し、王と視線を合わせた。


王は、少しだけ戸惑いながらも、その手に拳銃を差し出そうとした。


だがその時、阿賀野はほんの一瞬、冗談のように――それでいて静かに言った。


「抱歉,但是……马卡洛夫……?我想我会留着这把手枪。」

(ごめんなさいね、でも……マカロフ? この銃は、預からせてもらうわ。)


王は、苦笑いしながら拳銃を差し出した。


それは、命令でも命乞いでもなく、

「自分の手から戦争を、ひとつ、手放す」という意思だった。


阿賀野は、マカロフを慎重に受け取り、背中のホルスターに収める。

その手つきに、ほんの一瞬、兵士としての覚悟と、女性としての静けさが同居していた。


王は、何かを言いかけたが、やめた。


阿賀野は振り返らず、医務室の窓から外の海を見つめた。


たとえどの国に属していなくても――


目の前の人間くらいは、守ろう。


それが中立国の兵士として、

あるいは、一人の人間としての、

阿賀野のささやかな誓いだった。


カチリ、カチリ。


医務室の片隅。

田金大佐は手にしたマカロフをいじくりながら、煙草も咥えずにぽつりと呟いた。


「はーっ、こりゃまた……すげえ骨董品だなぁ……

中国海軍のお財布事情は、そんなに悪いんかね?」


阿賀野がため息交じりに肩をすくめ、

王の方に顔を向けて通訳する。


「事实并非如此。护卫舰上确实有AK22。

不过,我们逃跑的时候,军官们为了AK22还在争吵……」

(実はそうでもありません。護衛艦にはちゃんとAK22がありました。

でも、脱出の時、士官たちがAK22の取り合いを始めて……)


阿賀野はやや複雑そうな表情で訳す。


「本人いわく、AK22は配備されていたそうです。

でも、脱出時に士官同士で取り合いになっていた、と。」


その報告を聞いた飛騨は、眉をひそめ、苦々しく顔をしかめた。


「あー……成る程ねぇ……。」


艦内の空気がわずかに重くなる。


「上は逃げ道のために武器を、下は武器も渡されず命だけで逃げろか。

どこの国も、戦場じゃ似たようなもんだな……」


田金は小さく笑ってマカロフを机に置いた。


「こういうの見るとさ……戦争ってのは“国”じゃなくて、“人”を壊すんだなって思うよ。」


王はその言葉の意味を正確に理解したかはわからない。

だが、どこか表情の端が、静かにうなずいていた。


その瞬間、医務室に静寂を裂く音が響いた。


──ぐぅぅ……


場の全員が目を向けた先で、

ベッドの上に座る王约翰が、やや気まずそうに腹を押さえていた。


彼は顔を赤らめながら、そっとつぶやいた。


「啊,不好意思……刚才有段时间没吃东西了……」

(あ、すみません……少しの間、何も食べていなかったもので……)


阿賀野は吹き出しそうになりながらも、ちゃんと通訳する。


「えーと……『申し訳ない、ちょっと何も食べてなくて』だそうです。」


その訳を聞いた瞬間、飛騨が吹き出した。


「ハハッ、そりゃそうだろうよ!

じゃ、少し早いが……飯にするか!」


飛騨は医務室のドアをバンと開けて、廊下に向かって大声で叫んだ。


「調理班! 用意してくれ!

中国からのお客さんも一緒だぞ!」


それを聞いた艦内のあちこちから、「はいよーっ!」という元気な返事が返ってくる。


まるで艦全体が久々に一息ついたように、

医務室の空気が、ふわっと温かくなった。


若鷲(わかわし)は――再び“人のいる船”としての熱気を取り戻した。


王は少し戸惑いながらも、笑みを浮かべた。


阿賀野は、その笑顔を見て、胸の奥でそっとつぶやく。


(……これでよかった。

銃でも、命令でもなく、

こんなふうに笑い合う時間が、一番の武装解除だって思うから。)


艦内食堂。

金属製のスプーンがカチャカチャと響く音に、笑い声とエンジンの微振動が混じる。


王约翰と阿賀野は、並んで腰掛け、食器を手に軽口を交わしていた。

語学の違いは、もはや障害にはならなかった。

阿賀野が笑いながら言えば、王も少し遅れて笑う。

笑い声のテンポは違っても、そのリズムは合っていた。


そんな二人の様子を――

少し離れたテーブルから、一般水兵・Mさんがじっと見つめていた。


口にした白飯をゆっくり噛みしめながら、

瞳には敗北の色と、どうしようもない嫉妬が宿っていた。


「くぅっ……! 中国海軍軍人め! 拾われたくせに……阿賀野さんと仲良くなりやがって……っ!」


その呻くような声に、隣の席の仲間が苦笑いして言った。


「バーカ、てめぇと阿賀野じゃ、釣り合わねぇよ。

鏡見てこい。」


その瞬間──


コツン。


優しく、けれど逃げられない角度から、

飛騨が後ろから軽くチョップを入れた。


「妄想で苦しむな。現実に帰れ。

あと、おかず残すな。」


「ッス……」


Mさんは皿に戻り、悔しそうに煮魚を箸で崩しながら呟いた。


「……でも、いいなぁ……異国の軍人と、異国の恋……」


「ロマンス映画じゃねぇぞ。こっちは戦後処理だ。」


飛騨のツッコミが、食堂にまた一つ、笑いを生む。


若鷲は今日も平和だった。


もっとも、その“平和”がいつまでも続くとは、限らないのだが。


食後、田金は静かにテーブルの上に一発の薬莢を置いた。

それは王约翰の救命胴衣の中から、医務員が発見したものだった。


6.02×41mm。


「……これ、AK-22の弾薬だよな?」


田金はそう言って、銃器に詳しい者特有の鋭い目を王に向けた。

「お前んとこ、試作銃がもう実戦配備か?」

その問いは、疑念と興味が入り混じっていた。


阿賀野がその言葉を中国語に訳すと、

王は少しだけ肩をすくめて答えた。


「没错。AK-22 原型机大约在 2023 年底完成,目前仍在生产中。

然而,它已经装备在六龙级轻型护卫舰上。

不过,弹药方面存在一些问题。」

(その通り。AK-22の試作型は2023年末には完成し、今も量産が進められています。

すでに“劉龍”級軽型護衛艦には配備済みです。

ただし……弾薬面にはいくつか問題がある。)


阿賀野が簡潔に通訳する。


「試作は終わって配備はされてるみたいです。

ただ、弾薬にはまだトラブルが多いようで。」


田金は、ふん……と鼻を鳴らし、薬莢を指で弾いた。


「高性能でも、弾が安定しねぇんじゃ宝の持ち腐れだ。

……まぁ、“上には優しく、下には厳しい”ってのは、どこの国でも同じか。」


飛騨が肩を竦めてうなずく。


「道具があっても、使うのは人間。

だけど、その人間が最後に回されるのが戦争の仕組みってやつだ。」


王は無言でうなずいた。

その顔に、“理解されてしまった”という苦味がにじんでいた。


ガチャ、と後方のドアが開く音がして、

ゆっくりと一人の女性が医務室に入ってきた。


島田 冴子(しまだ・さえこ)、階級は曹長。

若鷲の武器と弾薬、全ての管理を一手に担う“弾薬庫の女王”。


軍服の袖はピシッと整い、髪は一切乱れていない。

だが一番目を引くのは、その目だった。

一発の銃弾すら見逃さない、プロの目。


「7.62ミリでもなけりゃ、5.56ミリでもないからね……」

彼女は王の持っていた6.02×41mm薬莢を指でつまみながら、渋い顔をした。

「扱いづらい訳よ。ロシアと中国くらいよ、そんな弾使うの。」


飛騨が気楽そうに、コーヒーを啜りながら言う。


「おー、島田っち。」


冴子は、眉間にシワを寄せながらも、すぐに顔を赤くして答えた。


「……島田“ちゃん”のほうが、まだいいわ。

“っち”って、子どもか私ゃ……」


そう言いつつも、すぐに真顔に戻り、薬莢をテーブルに置く。


「この口径、つまり“6.02×41mm”。

これは実質的に、EUや西側諸国からの決別を意味する弾薬とも言えるわ。

5.56ミリを避けるってことは、NATO弾を捨てたってこと。

7.62はともかく、6.02を選んだ時点で、完全に東側の象徴。」


沈黙が一瞬、医務室を包んだ。


田金も、阿賀野も、飛騨も――

そして王すらも、黙って島田の言葉を聞いていた。


彼女は最後に、静かに吐き出すように言った。


「この戦争、終わらないわね。

銃の口径がバラバラになった時点で、

人間の価値も、もう揃わなくなるのよ。」


「ほーん、なるへろ。」

田金はコーヒーを飲み干しながら、軽い調子で頷いた。


「7.62ほど扱いづらくなく、5.56ほど弱くもない……

中国、やるじゃねぇか。地味に“ちょうどいい”とこ突いてくるなぁ……」


それを聞いた島田は、肩をすくめ、少しだけ皮肉めいた笑みを浮かべる。


「ま、そーね。

どれだけ時代が変わっても、武器だけは進化を止めない。

人間って……ほんと、愚かよね。」


そう呟くと、彼女は脇の棚からトレイを手に取り、無言で列に並ぶ。


プレートの上には、少し冷めかけた米と、今日の副菜であるサバの味噌煮が乗っている。


阿賀野が思わず苦笑して言う。


「言ってることと、やってることが違う気が……」


島田はくるりと振り返り、さらりと返した。


「愚かでも、お腹は空くの。

戦争が終わらなくても、今日の昼ご飯は食べなきゃ。」


飛騨が肩を揺らして笑いながら言った。


「そういうとこ、好きだぜ島田ちゃん。」


「だから“ちゃん”って呼ぶなっつってんでしょ!」


怒りながらもどこか笑っている。

そんなやりとりに、艦内の空気が少しだけ柔らかくなった。


その横で、王约翰は黙ってトレイの上の煮魚を箸でほぐしていた。

彼の目は、まだどこか遠い戦場を見ているようだったが――

ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る