第4話  目覚め

翌日――午前8時12分。


艦内放送が突如、いつもの警告音ではなくフラットな女性音声で流れ始めた。


『中国語のできる者は速やかに、医務室まで来る事。繰り返す、中国語のできる者は、医務室まで…』




数秒の沈黙が、艦内を包む。


その放送を聞きながら、艦橋の椅子にもたれていた田金大佐は、

わずかに肩を震わせて、苦笑した。


「……BF4のキャンペーンで、こんなシーンあったな。」


飛騨が新聞を下げて、目だけをこちらに向ける。


「ん?」


「米軍の空母ヴァルキリーが、中国人を大量に保護した後、EMP食らって電子機器全部死ぬんだよ。

確か、あの中国人たちの中にスパイ混ざってたんだよな……って話。」

(スパイでは無いのだが、随分前の話のため…)


「……笑えねぇな。」


飛騨が額に手を当てて、うんざりしたように吐き出す。


「この国が中立じゃなかったら、今の俺ら、完全にそのヴァルキリーだぞ。」


「そうだな。しかもこっちは、EMPじゃなくて書類の山と外務省の問い合わせで死ぬタイプ。」


「じわじわ来るやつ。」


ふたりは、わずかに笑った。

だが、笑い声は短く、すぐに艦橋にはいつもの沈黙が戻った。


誰もが知っていた。

もし、この中国人――ジョン・ワン二級軍士長がただの兵士でなかったなら。


たとえば、伝令、諜報員、命令を握るキーマンだったとしたら――

この海防艇・若鷲の運命は、もう別の海域に入っているのかもしれない。


医務室の空気が一変した。

「啊啊啊!!」と、ジョン・ワンが突然声を上げ、軽いパニックに陥ったのだ。


その騒ぎに駆けつけたのは、若鷲の「薔薇」とも噂される美人兵士、阿賀野(あがの)さん、24歳。

彼女は医務室のドアを静かに開け、落ち着いた声で声をかける。


「请保持冷静。你现在在这里很安全。」

(どうか落ち着いて。ここは安全な場所よ。)


驚きで目を見開いたジョン・ワンは、声を震わせて答える。


「……是真的吗?」

(本当ですか?)


阿賀野は柔らかな笑みを浮かべ、真剣なまなざしで言った。


「是的,很安全。」

(はい、とても安全よ。)


室内に静かな安堵の空気が広がった。

しかし、緊張の糸はまだ切れていなかった。


阿賀野は、彼の前にしゃがみこむようにして目線を合わせた。

その動きに敵意はなく、むしろ静かな優しさと確信があった。


「请问您贵姓?」

(失礼ですが、お名前をお伺いしても?)


少しの間。

ジョン・ワンは、目を伏せたまま呼吸を整え、そしてゆっくりと答えた。


「……王约翰(ワン・ユエハン)。」


名乗った瞬間、彼の目にあった緊張が、わずかにほどけた。

異国の海、防空艦の医務室、未知の国の兵士たち。

だが彼は、自分の名を呼んでくれる誰かがいることに、かすかな安心を覚えたのだ。


阿賀野は頷き、微笑んで言った。


「好的,王先生。我们没有敌意,只想帮你恢复健康。」

(わかりました、王さん。私たちに敵意はありません。あなたの健康を回復させたいだけです。)


ジョン・ワンは、再びゆっくりとまばたきをし、弱々しくも確かな声で返す。


「……谢谢你。」

(ありがとう。)


静かな会話がひと段落し、

医務室の空気に、ようやく“人間らしさ”が戻り始めたそのとき――


ケタケタケタッ。


後ろの壁にもたれていた田金が、腹を抱えて笑っていた。


「ジョン・ワンって言ったの、間違えじゃねーか!

あれ、“王约翰”って書いて“ワン・ユエハン”だろ? どう聞いても“ジョン・ワン”じゃねぇ!」


思わず吹き出す飛騨と阿賀野。


一方で、医務員は顔を真っ赤にして振り向き、声を上げた。


「し、仕方ないじゃないですか! 僕、中国語知らないんですよ!?

てっきり“ジョン・ワン”って英語の並びで言ってるのかと……!」


「うーん、それだとなんかもうハリウッドのスパイ映画の名前だよな。」


「敵か味方かどっちかわかんないやつね……」


苦笑と冷やかしが交錯する中、阿賀野だけはまだ真面目な顔のまま、王约翰――ジョン・ワンの顔を見ていた。


「でもまあ、彼が笑わなかったのは、“名前を間違えられることに慣れてる”って顔でしたね。」


その一言に、全員が一瞬黙る。


兵士として、異国に流れ着いた者の覚悟と孤独。

その重みを、ふざけ合いの隙間に、ほんの少しだけ感じ取っていた。


阿賀野は、柔らかく微笑みながら、そっと問いかけた。


「好的。那么,抱歉,你能跟我简单介绍一下你自己吗?」

(わかりました。では失礼ですが、簡単に自己紹介していただけますか?)


礼儀正しい言葉の奥に、ほんの少しだけ探りの気配があった。

だが、それは敵意ではない。

ただ、知りたい――この男が誰なのか。


その阿賀野の表情を見ながら、王约翰(ワン・ユエハン)は、わずかに顔をしかめた。

視線を天井へ、そして窓の外へ。

やがて、低く唸るような声で呟いた。


「这是一艘日本船吗……?」

(ここって、日本の船なんですか……?)


その言葉を聞いた瞬間、

後ろにいた飛騨が、ふん、と鼻で笑った。


「“日本船”だとよ。

まあ……ちょいと前までバチバチしてた国同士だからな。

気にするのも無理はねぇけどさ。」


王は黙った。

だが、その顔には「自分がどこにいるか」を今さらながらに認識したような、微妙な警戒と戸惑いがにじんでいた。


阿賀野は、少し肩をすくめて、穏やかに続けた。


「是的。我们是日本的护卫船。你现在在一艘叫若鷲的海防舰上。」

(はい、私たちは日本の護衛艦です。あなたは今、“若鷲”という海防艦にいます。)


「不过别担心,我们没有任何恶意。你只是个伤员。」

(でも心配しないで。私たちに悪意はありません。あなたはただの負傷者です。)


王の表情は、少しだけ柔らかくなった。

だがその瞳の奥には、まだ海と硝煙の色が残っていた。


「日本海岸防卫舰“青年鹰”号。那是首舰吗?“青年鹰”?谢天谢地,它不是美国舰。」

(日本の沿岸防衛艦“若鷲(青年の鷲)”。これがネームシップですか?……よかった、アメリカ艦じゃなくて。)


そうつぶやいた後、王约翰は少しだけ息を整え、再び名乗った。


「二级军士长,这是中国海军护卫舰“刘龙”号上的船员王。」

(二級軍士長、中国海軍コルベット艦“劉龍”所属、王です。)


阿賀野は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに冷静さを取り戻し、丁寧に翻訳する。


「――彼、中国海軍“刘龙(リウロン)”号の乗員だったそうです。階級は二級軍士長。」


その言葉を聞いた瞬間、

飛騨が「おいおい」と言って立ち上がり、田金は眉をひそめて煙草をポケットに戻した。


「ほう……“劉龍”かよ。」

飛騨が小さく唸るように言う。


田金が、腕を組みながら呟くように続ける。


「中国のコルベット艦“六龍級”の中でも、最新型だろ。

海上機動戦に完全対応した高機動仕様……中国海軍の“最高傑作”って言われてるやつだ。」


「こりゃ……ただの漂流兵じゃ済まねぇな。」


室内に、再び重苦しい空気が流れる。


王は、彼らの反応を見て、自分の立場がまた一段階深まったことを感じ取っていた。

阿賀野の目を見ながら、少しだけ口を開いた。


「我……不是间谍。」

(私は……スパイじゃない。)


「でも、生きてここにいるってだけで、もう世界はそれを疑うのよ。」


阿賀野の答えは、優しく、それでいて現実だった。

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