8【内部通報】その指導は、アカデミック・ハラスメントです
魔王軍からの、あまりにも丁寧な宣戦布告から数日が過ぎた。僕たちの日常は、奇妙な形で安定していた。
一つの大きな変化として、王都と魔王軍の支配領域の間に、広大な「緩衝地帯」が設定された。これは、ヴェノムから渡された『戦闘規定書』に基づき、「両軍が小競り合いや演習を行うための公式エリア」として、双方の合意の上で定められた場所だ。これにより、無用な全面戦争を避け、ルールに則った限定的な戦闘だけが行われることになった。戦争というより、もはやスポーツの試合会場に近い。
そんな、平和ボケしそうな午後だった。僕たちが王城のバルコニーからその緩衝地帯を眺めていると、一角で何やら不穏な空気が流れているのが見えた。
銀髪を長く伸ばした、見た目は12歳くらいの豪奢なローブ姿のエルフの少女が、広場に集めたゴブリンやオークたちに、何かを教えている。しかし、その雰囲気は教育現場というより、公開処刑に近かった。
「違います。そのマナの集束率は誤差の範囲を超えています。やり直しなさい」
少女が静かに言うと、ゴブリンの一匹が「ひぃぃ」と泣き崩れた。
「ああ、嘆かわしい。単細胞生物に高等教育を施すのは骨が折れますわ。あなたたちの脳は、そもそもマナを理解する気があるのかしら?」
「マキナ、あれは?」
「魔王軍四天王が一人、『賢老』のルナミリア。500歳を超える天才魔術師です。現在、彼女が行っているのは、物理的な暴力ではない、相手の知性と尊厳を静かに、的確に、完膚なきまでにへし折る、アカデミック・ハラスメントです」
そこへ、案の定、四天王ヴェノムが慌てて駆けつけた。
「ルナミリア殿!ここは公式演習場ですぞ!戦闘規定第15条『人格を否定する指導の禁止』に、明確に違反しております!」
しかし、ルナミリアは彼を冷ややかに一瞥するだけだった。
「黙りなさい、武官ごときが。私の研究の邪魔をしないでいただけます?あなたには、この古代魔法数式の美しさが万分の一も理解できまい」
ヴェノムは「ぐっ…」と悔しそうに言葉を詰まらせ、なす術もなく立ち尽くしている。
その日の夕方。僕の部屋の扉が、おそるおそるノックされた。
そこに立っていたのは、すっかりやつれた姿のヴェノムだった。彼はもはや中間管理職を通り越し、月末の資金繰りに悩む町工場の社長のような悲壮感を漂わせている。
「勇者殿…いえ、天野川殿…。どうか、お力をお貸しいただけないでしょうか…」
彼は泣きそうな声で訴えた。ルナミリアのアカハラのせいで、軍の士気はダダ下がり、うつ状態で戦線を離脱する兵士が続出していること。魔王様は「メンタルヘルス休暇」で不在なこと。そして、このままではプライドを傷つけられたルナミリアが、戦闘規定を無視して王都にまで攻め込みかねないこと。
「そうなれば、我々が築き上げた『ルールに基づく戦争』という秩序が崩壊し、無用な血が流れることになります!そうなる前に、どうか、中立な第三者委員として、我々の問題を仲裁していただけないでしょうか!」
「冗談じゃない! なんで俺が敵の会社の人事問題まで解決しなきゃならないんだ!」
僕が全力で拒否すると、「お待ちください」とマキナが割って入った。
「本案件を受注した場合のメリットを提示します。第一に、魔王軍のコンプライアンス統括室長に対し、極めて大きな『貸し』を作ることができます。これは今後の交渉において強力なカードとなり得ます。第二に、敵軍の内部構造と問題点を合法的に探る、絶好の機会です」
さらにマキナは続ける。
「ルナミリアの暴走を放置した場合、規定を無視した戦闘が勃発するリスクは92%。我々の目的が『安定した環境での債務返済と、その後の隠居生活』であるならば、ここで介入し、リスクを管理下に置くのが最も合理的です」
完璧なロジックに、僕はぐうの音も出ない。
「…わかったよ! 受けてやる! ただし、僕のコンサル料は高いからな! まずは、アカハラ被害者全員からのヒアリング調査からだ!」
こうして僕は、なぜか敵軍の「アカハラ問題対策委員長」という、新たな役職に就任することになってしまった。僕の隠居生活は、一体どこへ向かっているのだろうか。
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