day4「口ずさむ」

無限の猿とマザーグース

 佑太は子供の頃から、よくマザーグースを口ずさんでいた。

 ジャック・スプラットにピーター・ホワイト、シンプル・サイモン。

 幼稚園で一緒になって以来、馴染みのない外国人の名前を毎日のように聞かされたものだ。

 佑太は最初、自分が口ずさんでいる歌の意味がわかっていなかった。何せ、原語のマザーグースなのだ。生まれも育ちも埼玉の彼に、英語を解する能力など備わっているはずなどない。

「んー、よくわかんない。でも、なぜか口を突いて出るんだ」

 そんなことをよく言っていた。彼が自分の歌について知ることになるのは、小学校に上がってからのことだ。たまたま、担任の先生がマザーグースに馴染みがあったのだ。先生は興味深そうに、佑太の歌を聞き、そして、その意味をひとつひとつ教えてくれた。

 肉の脂身と赤みを奥さんと交換し合うジャック・スプラット。鼻が曲がっているため真っすぐ歩けないピーター・ホワイト。ザルで水を掬おうとするシンプル・サイモン。

 いずれもナンセンス極まる内容で、佑太もわたしもすぐには信じることができなかった。先生に担がれているのではないかと疑った。しかし、よくよく考えると、嘘にしては歌の内容は支離滅裂に過ぎ、かえって本当らしく思えてきた。

 図書室にマザーグースを扱った本があるというので、二人で見に行ったものだ。実際に、先生が教えてくれた歌詞が活字となって印刷されているのを見て、わたしたちははじめて信じることができた。佑太は異国の童謡マザーグースをなぜか口ずさむことができるのだと。

 無限の猿定理というものがある。試行回数さえ無限なら、猿はいずれタイプライターでシェイクスピアの名作とそっくり同じ内容をタイプするだろう、というたとえ話だ。

 佑太が無限の猿である可能性について、わたしたちは考えることとなった。つまり、佑太はたまたまマザーグースと同じ歌詞の歌を自ら考え出したのか、それとも何かしらの形でその歌に触れることがあったのか、と。

 佑太の歌は、彼の家族にも心当たりがないものだった。つまり、彼に歌を教えた者がいたとして、それは家族ではない。しかし、幼い子供が家族以外の誰かと接触を持つことがあるだろうか。それも、異国の言語の歌を諳んじるほど頻繁に。

 では、テレビやラジオから学んだのだろうか。いや、そうだとしても、彼の家族に心当たりがないのはおかしい。

 二人で、そんな議論を交わしたものだった。

 けっきょく答えがわからないまま、わたしたちは年を重ね、そして次第に疎遠になっていった。高校は別になり、お互い、東京の違う学校に進学することになった。

 佑太が口ずさんでいた歌は、すっかりわたしの頭にも焼き付いてしまった。彼と疎遠になっても、気づけばナンセンスな英語の歌詞を口ずさんでいる自分がいる。そのせいで何度も、友達や恋人を驚かせたものだった。

「もしかしたら、夢なのかもしれない」いつか、佑太が言っていた。「たまに夢を見るんだ。起きたらほとんど忘れてしまうけど、俺は窓辺の揺り籠に横たえられていて、たまに、青い瞳のばあさんが覗き込むんだ。クレアとかステラとか、そんな名前が似合いそうなばあさんだ。俺に外国人の知り合いがいるとしたら、あのクレアだかステラだかのばあさんくらいしかいない」

 そのクレアだかステラだかのおばさんが彼にマザーグースを教えたのかもしれない――それこそ夢みたいな話だ。

「だよな」佑太は認めた。「でも、そうじゃなきゃ本当に何なんだろうな」

 きっと、一生わからないままだろう。彼が無限の猿なのか、それとも、何か超常的な力によって異国の文化に触れることができるのか。

「不思議だよな。世の中、本当に不思議なことがあるもんだ」

 神田の古書店で偶然再会したとき、佑太は言ったものだった。それからも折に触れて「不思議だよな」と口癖のように言うのを、わたしはすぐ隣で聞くことになった。

「パパ、お歌」

 娘が求めると、佑太はいつもマザーグースを歌ってみせる。ジャック・スプラットにピーター・ホワイト、シンプル・サイモン。ネイティブさながらの流暢な英語で、ナンセンス極まる歌詞を口ずさむ。

 娘も不思議とマザーグースを気に入ったようだった。意味なんてわからないだろうに、ことあるごとに「お歌」と要求する。

 佑太はたいていは機嫌よく歌ってやるが、たまに疲れているときなどははぐらかすようにこんな歌を歌う。

 Three wise men of Gotham,

(ゴッサム村の三人の賢者が)

 They went to sea in a bowl,

(お椀で海に繰り出した)

 And if the bowl had been stronger

(そのお椀がもっと頑丈であったなら)

 My song had been longer.

(この歌ももっと長くなっただろうに)

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