第3話 電子レンジ
倉庫であの“顔”を見てから、私は店内の照明すらどこか恐ろしく感じるようになっていた。
誰にも話せなかった。話せばきっと、「疲れてるんだよ」とか「気にしすぎ」とか言われて終わるだろうし、何より私自身、あれが現実だったとは言いきれなかった。
けれど、あの笑っていたような白い“顔”は、確かに私を見ていた。
その翌日。私はレジ裏のサービスカウンターで、返品受付の補助に入ることになった。
カウンターには、ぽつんと一台の電子レンジが置かれていた。型は少し古く、白い本体に焼け跡がある。添えられた伝票には、こう書かれていた。
> 不具合内容:時間が正しく表示されず、勝手に動き出す。気味が悪い。
伝票の筆跡はきれいだったけれど、最後の「気味が悪い」の一文だけが、妙にぐちゃっとしていた。書き殴るような筆圧。書いた本人の表情まで想像できてしまいそうで、ぞっとした。
「直子さん、このレンジ、点検室まで運んでもらっていい?」
声をかけてきたのは、先輩の柏木さん。二十代後半で、口数は少ないがやさしい雰囲気の人だ。
私は返事をして、台車にレンジを乗せた。
点検室はバックヤードの奥、修理依頼や動作チェックをする小部屋で、常に誰かがなにかを分解している。空気はこもっていて、ラジオのような音がかすかに流れていた。
私は電子レンジを検査台に置いた。
中に何かがこびりついている。焦げたご飯粒のようなもの。でも、違う。もっと細かく、ざらざらしていて、ところどころ赤黒い染みが混ざっている。
庫内を軽く拭こうとしたとき、パネルが光った。
コンセントは抜けていたはずなのに、「00:00」の数字が点滅している。
その次の瞬間、電子レンジの扉が、カチ、と音を立てて開いた。
誰も触っていないのに。
「……っ」
私は反射的に後ろへ下がった。中から煙が出てくるわけでも、異音がするわけでもない。ただ、扉が開き、時間が点滅している。それだけ。
だが、扉の内側に、小さなものが張りついていた。
カメラ。
いや、違う。よく見ると、内側の反射面に、私のいない場所が映っていた。
電子レンジの中から見える景色——それは、倉庫の奥の通路だった。
昨日、私が台車を押して歩いた場所。古い冷蔵庫が並ぶ、その通路。
……そこに、何かが立っていた。
白くて、丸い顔。笑っていたような、あれ。
立っている。動かない。カメラもないはずなのに、なぜその映像が?
私は一歩、また一歩と後ずさり、検査台から離れた。
「どうしたの?」
柏木さんの声に、心臓が跳ねた。私は勢いよく振り返る。
「い、いえ……なんでもないです。ただ、ちょっと……」
彼女はレンジをちらりと見て、軽く眉をひそめた。
「……あのレンジね。あれ、前も来たことあるんだよ。たぶん、同じ個体」
「え?」
「一度、返品で処分されたはず。でもいつの間にか、倉庫に戻っててさ。在庫管理のミスかと思ったけど……」
彼女はそこで口を濁した。
「……気のせいかもね。疲れてるのかもしれない」
その言い方が、妙にぎこちなかった。
もしかして、柏木さんも見たんだろうか。あの映像を。あの“顔”を。
電子レンジの扉は、まだ開いたままだった。庫内の映り込みは、ただの影と光の加減のはずなのに、なぜかそこだけが異様にくっきりしていた。
私はその日、いつも以上に疲れて帰った。
寝る前、アパートの台所で、自分の電子レンジを見たとき、ぞっとして背中が凍りついた。
暗闇の中、扉の反射に——私の部屋にはないはずの“倉庫の棚”が、かすかに映っているような気がした。
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