第2話 倉庫の奥から聞こえる
初日から違和感はあったけれど、それでも私は「きっと慣れれば大丈夫」と自分に言い聞かせていた。
職場なんて、多少のクセがあって当然。無言の上司や古い設備、ちょっと変な空気……それくらいで怖がっていたら、社会ではやっていけない。
そう思っていたのに。
その日の午後、私は倉庫に案内された。
「商品戻し。伝票にある番号を棚に戻すだけ。台車、これ使って」
声をかけてきたのは、さっきのジャンパーの男——店長の神原(かんばら)さんだった。名乗りもなく、名札も見えにくくて、あとから他の社員が呼ぶのを聞いて知った。
倉庫は店舗の裏手にあった。通路の途中にあるドアを開けると、急に空気が変わる。外よりも暗く、湿っていて、妙なカビ臭さが漂っていた。
広さは体育館ほど。棚がびっしり並び、段ボールや発泡スチロールが雑然と積み上げられていた。
床はやけに冷たく、足音が響いた。まるで、人の気配を反射する鏡みたいな場所だった。
台車に乗せられた商品は、返品になった炊飯器、空気清浄機、古いカセットコンポ。新品も混じっているけれど、ほとんどがどこか不調らしい。
伝票を見ながら棚の番号を探す。作業は単純。だけど——。
「こんにちは」
その声が、また聞こえた。
ひときわ高い金属音が跳ねたあと、私の後ろの方で、ふわっと軽い声がした。
子どものような、それでいてどこか作ったような口調。
振り返る。誰もいない。天井の裸電球が、遠くで微かに揺れていた。
「……こんにちは?」
思わず声を出してみる。でも、返事はない。
空気清浄機のパネルが一瞬だけ光ったように見えたが、それもすぐ消えた。
気のせいだ、と思った。いや、そう思いたかった。
だって霊感なんて、私は一度も感じたことがないし、そういうのはテレビの中だけの話だと思っていたから。
台車を引きながら、棚の奥へ進んでいく。ひときわ古い冷蔵庫が並ぶエリア。ひとつの扉に、「故障中 電源入れるな」という紙が貼られていた。
そのときだった。
ガチャン。
耳元で何かが落ちたような音。反射的に振り返る。
台車の上にあったカセットコンポが、床に転がっていた。
コードが切れているのに、スピーカーから「——んちは」みたいな音が漏れた。
私は息を呑んだ。手は汗ばんでいた。誰もいないのに、なぜ動いた? 音がした?
慌てて近づき、スピーカーに耳を寄せる。
「こ……ん……に……ち……は……」
確かに、そう聞こえた。
でも、機械の調子が悪くなったときの、途切れた音声。どこかで録音されたものが壊れかけているだけ。
私は震える手でコンポを台車に戻した。声を出すな、変に驚くな。
こういうときは冷静に、落ち着いて、報告する。それが社会人というもの——
そのとき、棚の隙間から覗いていた“何か”と目が合った。
一瞬だった。
白くて丸い、笑っているような“顔”が、棚の影からこちらを覗いていた。
声も、動きもなかった。ただ、そこに“いた”。
瞬きをしたあと、もう一度見たときには、何もなかった。
私は台車を押す手を止め、何も言わずに倉庫を出た。報告もせず、確認もせず。
逃げるように廊下を歩き、バックヤードの明かりの下に立った。
鼓動が速かった。理由もないのに、涙が出そうになった。
誰も私を見ていないのに、何かがずっと、私のことを“見ていた”気がしてならなかった。
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