GHOST KADEN

明智吾郎

第1話 入社初日

 入社式なんてなかった。

 配属通知のPDFがメールで届き、「もくもく電気・新波店」への赴任が決まったのは、四月に入ってからのことだった。大学の同期たちは大手企業で研修を受けていたけれど、私は一人、知らない町の知らない店舗に向かっていた。


 新波駅から歩いて二十分。バスは一時間に一本、朝はもう出てしまっていた。住宅もまばらな道をひたすら歩きながら、「これは本当に就職だったのだろうか」と、うっすら考えていた。


 ようやく着いたのは、国道沿いの大きな駐車場の奥。看板には「もくもく電気 新波店」と赤い文字が書かれていた……はずなのに、“もくく電気”になっていた。も、の文字だけが剥げ落ちている。

 それを見た瞬間、背筋に小さな冷気が走った。


 入口のガラス扉は自動じゃなかった。冷たい金属の取っ手を引いて中に入ると、ほんのりホコリの匂いがした。照明はまだ全部ついておらず、天井の蛍光灯が半分だけ点いている。


 「おはようございます……」


 私の声は、空間に吸い込まれていった。誰の気配もない。

 売り場は広いのに、まるで展示物だけが生きているような、静かすぎる空間だった。


 「……あんたが、新人さん?」


 奥の通路から現れたのは、グレーの作業ジャンパーを着た中年の男性だった。背は高いけれど猫背で、顔には笑みも緊張もなく、表情という表情が見当たらなかった。皮膚に仮面を貼りつけたような、硬い無表情。


 「あ、はい。田嶋直子です。本日からお世話に——」


 「はいはい、新人ね」


 私の言葉を途中で切るように、男性は棚から古びた紙ファイルを取り出した。

 表紙に「新人向け作業マニュアル(改訂版)」とある。角は折れ曲がり、ところどころに手書きの訂正がある。


 「とりあえず、バックヤード案内する。ロッカーで荷物置いて、タイムカード押してから。倉庫も見せる」


 声に感情の起伏はなかった。敬語でもなければ、歓迎の色もない。

 ついていくしかなかった。


 バックヤードのドアをくぐると、急に空気が冷えた。

 天井の照明が一部切れていて、ちらちらと瞬いている。足元には清掃用のバケツと濡れたモップが無造作に置かれていた。誰かが掃除したあとなのか、している途中なのかもわからない。


 「控室はあっち。タイムカードはその横。ロッカー、好きなとこ使って」


 そう言って、彼は一言も発さずに廊下を歩き去っていった。

 私は残された廊下に、一人で立ち尽くした。思った以上に古びた建物。職場というより、廃業寸前の倉庫に来たような気分だった。


 打刻機の画面は青白く光り、誰の顔も映っていないのに「ピッ」と音が鳴った。

 入社初日のはずなのに、誰一人として「ようこそ」と言ってくれなかった。


 そのときだった。背後で、かすかに何かの音がした。


 「……こんにちは」


 小さな声だった。子どもみたいな、軽い声。


 反射的に振り向く。

 だが、そこには誰もいなかった。


 廊下はからっぽだった。音も気配もない。あるのは、消えかけた蛍光灯のジジジという音だけ。


 幻聴だったのかもしれない。緊張のせい。慣れない環境のせい。

 だけど私は、その声を、確かに聞いた。


 「……気のせい、だよね」


 そうつぶやいて、私は制服のネームプレートをつけ直した。

 鏡の中の自分は少しだけ震えていた。でも、笑ってみせた。ここからが、社会人としての第一歩なのだから。


 けれど私はまだ知らなかった。

 この“もくもく電気・新波店”という場所では、人間よりも先に、“別の何か”が働いていたことを——。

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