第6話まだ仮初だけど

恋人になれたこと。その事実が、私の心のすべてを埋め尽くし、ただただ嬉しくてたまらなかった。まるで世界が昨日までとは違う色を纏ったように、目に映るものすべてが輝いて見えた。


好きな人が、私のまっすぐな気持ちに真剣に向き合うと約束してくれて、「恋人」という、特別すぎる関係でそばにいてくれる。それだけで、日々の些細な出来事さえも、かけがえのない宝物のようにキラキラと輝き出し、どんな小さなことにも喜びを感じ、会える時間があるというだけで、心が満たされていった。


塾で会ってもそれまでと同じように言葉を交わしているだけのはずなのに、私の中ではその一つ一つがすべて特別な意味を持っていた。


たとえば、廊下ですれ違いざまに「よろしく」と一言交わすだけでも、「ああ、今日も彼の顔が見られて嬉しい」と、胸の奥がきゅんとする。恋って不思議な魔法。たった数秒の視線や声のやり取りが、私の一日を明るく照らす光になるのだから。


でも同時に、社会人の和田さんとは時間の使い方も、背負う責任の重さも違うことも理解していた。土日は特別講座が多く、簡単には休めないと聞いていたから、最初のデートは私の方が合わせることにした。彼に負担をかけたくなかった。


「大学、3年ですけど単位ほとんど取りきっちゃってるので……よかったら平日でも、時間合わせられますよ。土日は確か休みにくいですよね?」


私の提案に、彼は少しだけ目を丸くしたあと、くすぐったそうに柔らかく笑ってくれた。


「そっか。じゃあ一緒に過ごせるね。ありがとう。助かるよ」


その声が、耳の奥で何度も反響する。いつもの塾での、厳しくも穏やかな先輩講師の顔とはまた少し違う、年相応の優しい笑顔。そのギャップに、私は心の中でこっそり頬を緩ませ、この顔を見られるのは私だけの特権なのだと、胸が熱くなった。


そうして迎えた平日、午後から一緒に外へ出かけることになった。待ち合わせ場所に現れた和田さんは、いつものスーツ姿ではなく、ラフなチェックのシャツに淡いグレーのチノパンツ姿で──その新鮮さに、私の心臓は跳ね上がった。


塾で見る姿しか知らなかったから、まるで別人のようで、それでいて、より身近に感じられた。昼下がり、静かな駅近のカフェで並んでご飯を食べた。窓際の席から差し込む、ぽかぽかした陽射しが心地よく、私の向かいで、サラダを前にメニューと格闘している和田さんが、なんだかちょっとだけ年下に見えて、思わず「ふふ」と声が漏れてしまった。彼が慌てて顔を上げたので、慌ててごまかしたが、そんな些細なやり取りさえも、愛おしくてたまらなかった。


彼と過ごす時間は、不思議なくらいあっという間で、それでも心は穏やかに満たされていた。


食後のコーヒーを飲み終え、私たちは近くの映画館へと向かった。選んだのは、彼が「最近気になってたんだ」と言っていた、少し地味ながらも心温まるヒューマンドラマ。薄暗い館内で、隣に座る彼の存在を肌で感じながら、物語に没頭した。


時折、彼が静かに笑う息遣いが聞こえてきて、それだけで胸がいっぱいになり、彼の感情の動きが私にも伝わってくるようで、映画の内容以上に、隣の温かさに心を奪われていた。


映画が終わると、まだ少し明るい夕方の街を二人でぶらぶらと歩いた。駅前の大きな書店に立ち寄ると、彼は慣れた様子で文庫本のコーナーへ向かい、私はその隣で、雑誌や新刊の棚を眺めた。


「天野は普段、どんな本読むの?」


ふいに隣から声をかけられ、振り返ると、彼が手に取った小説を優しい目で見ていた。


「んー、小説も読みますけど、最近は経済系の本が多いですね。あとは、たまに哲学書とか」


答えると、彼は少し驚いた顔をしたあと、楽しそうに笑った。


「さすがだな。なんか、天野の読む本って、いつも面白そうだ」


そんな風に、私が普段隠しているような一面に興味を持ってくれることが、まるで特別な宝物を見つけてもらったように嬉しかった。


次に立ち寄ったのは、小さな雑貨屋さんだった。店内には、手作りのアクセサリーや、可愛らしい文房具が所狭しと並んでいる。彼がペン立てを手に取って「これ、塾のデスクにいいかも」と呟いた時、「あ、彼もここで働く私と同じように、日々の小さなものを選んでいるんだ」と、ふっと共通の現実があることに気づいて、胸が温かくなった。私が色とりどりのマスキングテープを眺めていると、彼がそっと隣に並んだ。


「こういうの、好きそうだなと思って」


そう言って、少しだけはにかむように微笑んだ。その言葉と表情が、私の心臓を直撃し、私がどんなものを好きか、彼が気にかけてくれていたこと、そしてそれをストレートに伝えてくれたことが、たまらなく愛おしかった。


「はい、大好きです!」


思わず、満面の笑みで答えると、彼もまた、私の言葉に安堵したように、ふっと笑ってくれた。


別に特別なことをしたわけじゃない。豪華な食事をしたわけでも、派手なイベントがあったわけでもない。だけど、和田さんと過ごす時間の一瞬一瞬が、まるでスローモーションのように愛おしく、心の奥に刻まれていった。


塾での和田さんは、生徒たちに信頼され、頼られる存在。私にとっても、ずっと眩しい憧れだった。しかし今は、私の隣を、ゆっくりと同じペースで歩いてくれる。


何か面白い物を見つけては「これ天野が好きそう」と、まるで子供のように目を輝かせながら笑ってくれる人。少しぶっきらぼうな口調の中に、不器用な優しさが滲む。そんな姿は、塾では決して見ることのできない、彼だけの、私だけの特別な一面で、恋人になったからこそ知ることができたのだと思うと、胸がきゅっと締め付けられた。


私、今、世界で一番幸せな女の子かもしれない。そんな柄にもないセリフが、心の奥から自然と湧き上がってしまうくらい、私は浮かれていた。


恋人として誰かと過ごすのは、人生で初めての経験だった。どう接するのが正解なのか、なにをしたら「彼女らしい」のかも分からない。


勉強は人に誇れる私でも、恋愛に関しては全くの初心者だ。大人で、物知りな和田さんに、ちゃんと釣り合ってるのか、時々ちょっと不安にもなるけれど……それ以上に、すべてが楽しくて、嬉しくて。今日の思い出は、色鮮やかな宝石みたいに、私の心の中でずっと光り続けていた。


昼下がりの穏やかな余韻がまだ胸に残っているまま、夕暮れ時の街を二人で歩く。


歩幅を合わせて歩く彼の隣で、私は静かに鼓動の高鳴りを感じていた。このまま時間が止まってしまえばいいのに。そんなことを思いながら、私は勇気を出して、何気ないフリをして彼に問いかけた。


「和田さん──いえ、あの……知り合いの前では呼ばないようにするので、私たち二人の時だけ、名前で呼ばせてもらえませんか?」


隣を歩いていた彼が、少し驚いたようにこちらを見たあと、くすぐったそうに、けれどとても嬉しそうに笑った。その顔は、夕陽に照らされて、いつもよりも輝いて見えた。


「……うん。じゃあそうしよっか。架純って、呼ばせてもらうね」


彼の口から自分の名前が呼ばれた瞬間、ふっと呼吸が止まるくらい、とてつもなく嬉しく、体中の細胞が喜びに震えているようだった。


「………樹さん」


呼んでみた声は、思っていた以上に震えていた。けれど、もう止めることなんてできなかった。私の声に、彼は柔らかく目を細めて頷いた。


「ふふ、はい。なあに?」


彼の優しい「なあに?」が、まるで魔法の言葉のように、私の心を温かく包み込み、もう隠すことなんてできないこの溢れる気持ちを、今、この瞬間に伝えたかった。


「……好きです」


私のまっすぐな告白に、彼の目が少し見開いて、そして、心からあたたかく笑った。


「ありがとう。……俺も早く、同じ気持ち返したいな」


彼の言葉に胸がじんわり温かくなるけれど、私の気持ちは焦ってなんかいなかった。ただ、どうしようもなく好きで、溢れる想いを言葉にしただけだった。


「和田さん……私、焦ってるわけじゃないんです。ただ……どうしようもなく好きで、伝えたくて……」


声が震えそうになりながらも、私はまっすぐに彼の瞳を見つめて言葉を紡いだ。彼の目に、私のすべてが映っているような気がした。


「だから、和田さんにプレッシャーを与えてしまってたら、ごめんなさい。そんなつもりは全然なくて……ただ、私の気持ちを、純粋に伝えたいだけなんです」


言葉を選びながら、不安に少しだけ俯く。私の言葉が、彼にとって重荷になっていないか、心配でたまらなかった。

彼の目が一瞬揺れて、優しく呼ばれた。


「……架純」


その声が、私の胸をそっと撫でる。


「なんでおれなんかをそんなに好いてくれてるのかは本当に分からない。でも、架純の気持ちはちゃんと伝わってるよ」


彼の言葉は、彼の自己肯定感の低さをまた見せてくれたけれど、同時に私の気持ちを確かに受け止めてくれた証だった。その真摯さに、胸が締めつけられる。


「待たせてごめん。でも……絶対に同じだけのもの返せる自信はある」


彼の真剣な瞳に見つめられ、私は胸の奥から込み上げる感情に声を震わせた。この人が、私と同じくらい真剣に、この関係を考えてくれている。それだけで、私の不安は雪のように溶けていった。


「……それを聞けて、本当に嬉しい。 私、和田さんのペースで、ゆっくりでいいから、一緒に歩んでいきたい」


私の言葉に、彼はゆっくりと微笑みながら、そっと手を差し伸べた。その手は、まるで未来へ誘う道標のようだった。


「これから、たくさん話して、たくさん知り合っていこう」


私はその手を迷わず取って、小さく頷いた。彼の指が、私の指にそっと絡まる。手の温かさが伝わり、言葉にできない安心感と幸福感が胸いっぱいに広がった。これはもう、「仮初」なんかじゃない。彼の隣に、ちゃんと私がいる。そう、強く感じることができた。

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