第7話尊敬は片思いだった
はじまりは、「好き」だなんて、そんな軽い言葉じゃなかった気がする。目の前の彼女、架純に対しては、ただただ尊敬の念があった。
その真摯な仕事ぶり、生徒への情熱、そして底知れない知性。すべてに圧倒され、気がつけば、いつの間にか俺の視線は、ただ彼女を目で追うようになっていたのだ。
その感情を、俺自身が恋だと認めるまでに、ずいぶん時間がかかったように思う。生徒と違って、大人というものは何でも明確な理由を求めたがるものだ。年齢差、立場、職場──考えようと思えば、この気持ちを諦める理由はいくらでもあった。
けれど、あの夜、目の前で真っ直ぐな目をして「待たせて欲しい」と言われたとき、俺はもう何も言い返すことができなかった。その言葉が、俺の心の最後のブレーキを外した。そして、ようやく自分の感情に、素直になったのだ。
付き合ってからというもの、どこか不思議な感覚が続いている。仕事中は相変わらず「天野」と呼び、当たり前のように距離を取って、お互い他の講師や生徒たちと同じように接している。
それなのに、その声が廊下で聞こえるだけで、俺の意識は一瞬でそっちに向くのだから、まだ不思議な感覚としか言いようがない。ふと彼女の横顔を見ては、心の臓が不意打ちを食らったかのように跳ね上がり、思わず目を逸らすときさえある。
──これが誰かと「付き合う」ってことなんだな、と内心で呟く。やはり俺はあいつに惚れている。人として、講師として、そして一人の男として、深く、深く。
ある日のことだった。土日の朝、急な体調不良により講師の一人が出られなくなり、時間の差し替えが必要になったとき、講師室には言いようのない微妙な空気が流れた。そんな中で何の迷いもなくそう言ったのは、架純だった。
「……私、入れます。14時からの枠、空いてるので」
普段の倍以上の授業数をこなしている週だったのに、疲れの色一つ見せずにスケジュールを確認し、ただ「やります」と答えるその姿に、俺の心の奥がじんとした。どんな状況でも、妥協しない。その揺るぎない姿勢が、たまらなく眩しかった。
あいつは、“代わりに入る”ということを決して軽く見ない。急な補講であっても、事前の授業と同じ熱量で生徒に向き合おうとするのだ。授業前、ふと横を見たら、板書案を何パターンも組み立てて、構成の流れを緻密に見直していた。そのストイックさに、また一つ心を掴まれる。
「その枠、復習ベースでいくの?」
俺が問いかけると、彼女はすぐに、澱みない口調で答えた。
「いえ、あえて前倒しです。復習で終わっちゃうと“代講感”が残ってしまうので」
──その発想に、またしても感心させられた。俺だったらどうしていただろう。代講というのは、つい「損失を減らす対応」になりがちだ。
けれど、あいつにとっては違う。“誰かの代わり”じゃなくて、“生徒の未来に責任を持つ講師”としてそこに立とうとする。それを、年齢も、キャリアも、何もかも超えて、まっすぐやってのけるのだ。彼女のその「生徒への誠実さ」こそが、俺が彼女を深く尊敬する最大の理由だった。
あいつが生徒に好かれる理由なんて、見れば分かる。授業のテンポ、声の張り、例示の的確さ。──でも、それ以上に、授業の中で一人ひとりを本気で見ようとしていることが、生徒たちに伝わっているのだろう。
指名する生徒の表情、言葉の選び方、ちょっとした言い直しまで、全部、あいつは拾っている。そのうえで、「ここがいいね」ときちんと褒め、「こうしたらもっと良くなるね」とちゃんと伸ばす。
自信を失いかけている生徒には、あえて穏やかな語調で話し、勢いだけで突っ走る子には、静かに論理を見直す時間を与える。俺は、そういう細部にまで宿る彼女の真摯な眼差しに、何度も胸を打たれてきたのだ。
付き合う前から分かっていたつもりだった。だが、いざ“彼女”になってからの方が、なおさら痛感する。──この人、ほんとに、すごい。 俺が知っている「すごい」の基準を、彼女は常に塗り替えていく。
ふたりきりで過ごす時間も好きだ。他愛のないLINEのやり取りも、塾からの帰り道での何気ない会話も、時折見せる年相応の弱さも、すべてが愛おしい。しかし、俺の心を一番深く動かすのは、やはり講師として板書に立つあの人を見るときだ。熱量と知性の間で、たしかに「生徒の未来を動かしている」その瞬間。その背中を、ずっと追いかけたいと、強く思う。
俺も講師だ。生徒の成績や志望校のことで頭を悩ませているし、指導案の精度にも気を配っているつもりだ。けれど、架純はもっと先を見ている。
目の前の授業だけじゃなくて、その先の“生徒の人生”に向けて、一つ一つの言葉を選んでいるのだ。あいつの作る設問には、そういう視点がある。模試の記述問題ひとつとっても、あいつの問いは、生徒の思考の「奥」にまで踏み込んでくる。
(この記述を通して、生徒は何に向き合わされるんだろう)
──そこまで考えて設問を設計している講師は、正直、ほとんどいない。彼女の仕事に対する本気の向き合い方が、俺の視野を常に広げてくれる。
ある日の夜、講師室の隅で、彼女と二人、記述模試の採点基準について話し合っていた。解答例と比べて、生徒の自由記述がどれだけ主旨に沿っているか、いつもなら自分で判断する場面だったが、つい彼女の意見を聞きたくなったのだ。
「これ、どう思う?」
見せた答案に、彼女は少しだけ眉を寄せて考える。その横顔は、真剣そのものだ。
「結論の切り出しが“独自性”に偏ってますよね。でも、最後の展開はちゃんと問題文に寄せてます。そういう“戻し方”って評価に値すると思います」
その言葉に、内心驚いた。俺もその答案には迷っていたのだ。だが、自分では言語化できなかった“戻し方”という観点。そうか、そういう見方があるんだな──と、思わされた。
たった一言で視界が開けるような、そういう瞬間を、俺は何度もこの人からもらってきた。年下だとか、講師歴が浅いとか、そんなことはまったく意味を持たなかった。ただ、優秀な、努力家の、そして人間として心から信頼できる人。 それが、彼女だったのだ。
「……天野、さ。やっぱ、すごいよな」
無意識に漏らした言葉に、彼女がきょとんとした顔でこちらを見た。その視線に、少しだけ戸惑う。
「え?」
「いや、いまの。答案の見方。俺、そこまで整理できてなかったから」
「えっ……でも、和田さんが見せてくれた記述の基準が、すごく分かりやすかったから、ですよ?」
照れたように笑って、少し頬を赤くしている。そのまっすぐな返しに、なぜか胸がきゅっと締めつけられる。たぶん──嬉しかったんだと思う。ちゃんと、講師としての自分も、彼女の中で意味を持っていることが。彼女はいつも、俺の存在を肯定してくれる。
架純も俺を慕ってくれているのはわかっていた。だが、俺が彼女に向けるような、こんなにも重く深い憧憬までは、さすがに向けられていた覚えはなかった。だから、尊敬は片思いのようなものだったのだ。だがいまは、ちゃんと両想いになれた気がする。
彼女の一言一言が、ただ“好きな人の声”というだけじゃなく、“信頼できる同僚”としても、心に深く刺さる。講師として認め合えている、その安心感と、寄りかかりすぎない心地良い距離感が、ものすごく心地いい。
「架純」って呼びたい。心の中で。そして、「すごいよ」って、本当は何度でも伝えたい。でも、それを言葉にするたび、俺自身ももっと講師として高めなければという向上心が湧き上がるのだ。
これは、ただ恋をしている、なんて一言で済む感情じゃない。あいつの隣に立つこと自体が、俺にとっては挑戦であり、覚悟なのだ。単なる「好き」じゃない。
この人と、共に生きていきたいと、心の底から強く思う。大学の同級生がとっくに企業に入っていった今でも変わらず、自分はこの場所で講師を続けている。何かを諦めてここにいるんじゃない。ようやく、誰かと「仕事の話をしながら未来を語れる」という、真に特別な関係に、辿り着いた気がしている。
ふと、彼女がプリントを綴じながら言った。
「来月の推薦対策、日曜枠ちょっと枠空いてますよね。詰め込みすぎかもだけど、時間あれば和田さんにも少し相談したいです」
「空けるよ。天野のためなら、時間くらい、いくらでも」
自然に、そう答えていた。その一言が、彼女の手を止めさせる。俺の言葉に、彼女の頬が僅かに赤らむのが見えた。
「……いま、そういうの、反則です」
恥ずかしそうに、でもちょっと嬉しそうに、笑う彼女の横顔を見て、心の中にじんわりと何かが満ちていった。──この人の努力が報われてほしい。そして、その傍に、自分がいられたらいい。ただそれだけを、強く願った。
“好き” という言葉の意味が、日ごとに深くなっていく。最初は彼女の誠実さや情熱に惹かれていた。だが今は、それだけじゃない。尊敬と恋が複雑に溶けあっていくこの感覚に、俺は確かに救われている。 この気持ちは、もらったから返すんじゃない。自然と、返したくなる。ただそれだけのことだった。
今日もまた、講師室の隣の席で、静かに生徒の答案に目を通す彼女を見ながら、俺は、少しだけ姿勢を正した。彼女の存在が、俺をより良い自分へと駆り立てる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます