第5話溢れてしまった思い
和田さんに言葉を向けて以来、私の内には小さな、けれど確かな光が灯ったように感じていた。それは、これまで押し込めていた熱い感情が、少しずつその輪郭を現し始めた証だった。
最初はただ、彼のことをもっと知りたいという、純粋な渇望に突き動かされていた。指導案の添削、授業内容の相談、模試の設問についての意見……話しかけるための理由なら、いくらでも見つけることができた。彼に話しかける瞬間、心臓はいつも早鐘のように打ち、喉は乾いたけれど、それでも彼の声を聞きたかった。彼の言葉を浴びるたびに、私の心は喜びで満たされていった。
そんな些細なやり取りのひとつひとつが、私の中では息をするのと同じくらい、なくてはならないものになっていた。
「この生徒、答案の構成はしっかりしてるけど、どうしても“安全策”に走っちゃってて」
私の言葉に、彼はいつもの穏やかな眼差しで、生徒の答案を丁寧に指でなぞっている。その指先の動きさえ、私の目に焼き付いて離れない。彼の思考の流れを追いかけるように、私もまた答案に視線を落とす。
「なるほど。たとえば“問われている本質”を一文で言語化させてみたら、見えるかもね」
彼の言葉は、いつも核心を突いていて、私の思考の霧を晴らしてくれる。その知的な響きが、私の尊敬の念をさらに深くする。ああ、やっぱりこの人はすごい、と、何度心の中で呟いたか分からない。
「……なるほど、確かに」
話しながら、私の視線は何度も彼の横顔へと吸い寄せられていた。完璧な弧を描く黒縁メガネ、知性を湛えた穏やかな瞳、時折見せる思案顔のわずかなしかめ面。そのすべてが、私の心を捉えて離さない。彼の存在は、私にとって抗えない引力を持つ、宇宙の星のようだった。もう、どこにも逃げ場なんてなかった。知れば知るほど、彼の魅力という名の深みに、足を踏み入れていくのを感じていた。
それでも、生徒の前ではプロの仮面を被り続けた。それは、私に残された最後の理性だったのかもしれない。
個別対応中、休み時間、廊下のすれ違い──どれも、表面的にはただの講師同士のやり取りに見えるように、細心の注意を払っていた。生徒たちは未来を左右する大切な時期にいる。私の個人的な感情が、彼らの不安を煽るようなことは、絶対に避けたかった。彼らの真剣な眼差しに応えることこそが、今の私の最優先事項だった。
なのに、ある日。
「ねえ、天野先生って、最近和田先生と仲良くない?」
授業終わり、散らかったプリントを丁寧に重ねていると、屈託のない笑顔の生徒が、ふとそんなことを言った。何気ない、本当にただの、子供の疑問。
だけど、その無邪気な一言は、私の心臓を鋭いナイフで突き刺したように痛かった。
「え、和田先生?……うーん、そうかな?仲良くなれてるなら嬉しいね」
努めて平静を装った声は、思ったよりもしっかり出てくれた。内心の動揺を悟られないよう、微笑みを貼り付け、視線の端で、他の生徒たちがまだ興味深そうにこちらを見ているのが分かる。彼らの視線は、まるで私の心を暴こうとするかのように、鋭く突き刺さる。
──気づかれてる。
生徒の前で特別な態度を取った覚えはない。いつも通り、他の講師と変わらないように接してきたつもりだった。それなのに彼らは敏感に何かを感じ取っている。子供たちの純粋な瞳は、大人が隠そうとしても、些細な心の揺れ動きを見抜いてしまうのだ。
私は、どれだけ顔に出していたんだろう。和田さんと話す時の、あの抑えきれない喜びを。彼の存在を感じるだけで、心臓が高鳴るあの感覚を。きっと無意識のうちに、隠しきれない熱を周囲に放っていたのだ。周囲の目や、講師という立場なんて、彼のことを考えるだけで、頭の中から吹き飛んでしまっていた。恋という名の熱に浮かされ、私はプロとしての自覚すら危うくしていたのだ。
──こんな形で、私の秘めた想いが明るみに出るなんて、考えたくもなかった。
どんどん冷静さを失っていく自分に、足元から崩れていくような恐怖を感じた。このままでは、大切なものをすべて失ってしまうかもしれない。そんな焦燥感が、私を深く蝕んでいった。
その日の夜、人気のない講師室の奥で、偶然にも和田さんと二人きりになったとき、私は抑えきれない衝動に駆られ、震える声で問いかけていた。
「……最近、生徒に聞かれちゃって。和田さんと仲良くない?って」
彼は驚いたように目を見開いた。彼の琥珀色の瞳に、私の動揺が映っているのが分かった。
「別に、そんな──」
彼は何か弁解しようとしたけれど、私は焦る気持ちを抑えきれず、言葉を重ねた。
「私、浮かれてたんだと思います。……ごめんなさい。和田さん、めんどくさい立場なのに」
私の視線から逃れるように、彼の目が揺れた気がした。沈黙が、重い鉛のように、私たちの間に沈んでいく。耐えきれなくなった私は、息を詰まらせながら続けた。
「でも、今の状態が難しいって言うなら……私は卒業まで待つことだってできます」
それは、私にとって生涯を左右するほどの、重い決意だった。ただ自分の気持ちを押しつけるだけじゃなくて、彼の立場や状況を真剣に考慮したい。和田さんにとって少しでも負担になるなら、この日に日に増えてはどうしようもなく溢れてくる想いを、一旦心の奥底に封印する覚悟をしなくてはならない。彼を想うがゆえの、苦しい選択だった。 だけど、それでも──
「……負担じゃないなら、それも、考えてほしいです。私もう……どうしても、和田さんじゃないと嫌なんです」
静まり返った室内に、私の切実な願いだけが、まるで夜空に消えていく星屑のように、儚く消えていった。心臓が張り裂けそうだった。彼の口からどんな言葉が紡ぎ出されるのか、怖くて、でも知りたくて、息を潜めて待った。
そして、彼はゆっくりと息をひとつ吐いて、覚悟を決めたような強い眼差しで、こちらを見た。
「……天野」
その深く、低い声音に、これまでとは違う、確かな変化を感じた。彼の内面に渦巻いていたであろう戸惑いや迷いが、まるで一本の太い糸のように、強く、そして明確に結ばれたような気がした。
「……そこまで言わせて、またお前の気持ちに甘えるみたいなこと、俺にはできない」
その言葉が、まるで冷水を浴びせられたように、私の心を凍らせた。
(……やっぱり、ダメだったんだ)
期待で膨らんでいた胸が、一瞬でしぼんでいく。私の顔から血の気が引いていくのを感じた。そもそも、私なんかが彼を特別にしたいなんて思うこと自体、あまりにもおこがましかったのかもしれない。胃の奥がきゅっと締め付けられ、目の前が霞む。こんなにも覚悟を決めて伝えたのに、やはり届かないのだろうか。
「まだ、俺が同じ“好き”を持ててるかっていうと、正直、自信はない。でも……真剣に向き合いたいとは思ってる。嬉しいって思ってるのも、嘘じゃない。お前のことを魅力的だって思ってるのも、全部、本心だ」
けれども続けられたそれは、私がずっと心の奥底で待ち望んでいた、彼の真実の言葉だった。彼の飾らない言葉一つひとつが、私の凍りついていた心をゆっくりと溶かしていく。
「だから、待たなくていい。……これから、一緒に始めていこう」
あまりにも優しくて、誠実で、そして何よりも真っ直ぐな、彼の言葉。私の心は、温かい光で満たされていくようだった。
気づけば私の瞳からは、堪えきれないほどの熱い涙が溢れていた。それは、悲しみではなく、安堵と、そして何よりも大きな喜びの涙だった。
自分から勇気を出して踏み出したこの気持ちが、ちゃんと彼に届いた。そして、そこに温かい応えがあって、未来へと繋がる、希望に満ちた扉が開かれた。講師という立場も、私の抱える不安も、彼の心の傷も、すべてを理解した上で、それでも、私たち二人の未来を「始める」という選択をしてくれた人が、今、確かに目の前にいる。
私は、声にならないほどの小さな声で、けれど全身全霊の想いを込めて頷いた。
「……はい」
それだけで、胸の奥から、熱く、激しい感情の奔流が堰を切ったように溢れ出してきた。それは、言葉では表現できないほどの、深い感動と幸福感だった。
ここから始まる関係が、たとえ不器用で、ゆっくりとした歩みだとしても、私はきっと大切に、大切に育てていける──そんな揺るぎない確信が、今の私の胸には確かに宿っていた。彼となら、どんな困難も乗り越えていける。そう、心から信じることができた。
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