第4話 ぎこちなくつめた距離
恋愛って、こんなに簡単に、始まるものだったっけ。
朝、目が覚めた瞬間から胸がざわざわしていた。なんてことのないカーテンの隙間から差し込む光、スマホの通知、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーター──どれを見ても、昨日のあの夜の続きを思い出してしまう。
和田さんの、目を逸らすようなあの顔。 「俺なんて」って言ったあの声。そして、黙って聞いてくれたこと。
……言葉にすれば、自分でも驚くほどたやすかったのに、今はもう、何からどうすればいいのか、まったく分からない。まるで、ずっと手のひらにあったはずの地図を、急に失ってしまったような感覚だった。
昨日までは、ただの尊敬だったはずなのに。 でも、今は違う。胸の奥で、確かに何かが温かい熱を帯びて、脈打っている。
少し早めに家を出て、新宿校に着いたのは開校の30分前。誰もいない講師室でパソコンを立ち上げながら、思い出していた。初めて和田さんに指導されたときのこと。
「現代文ってのはね、感情に流されるな。言葉の順番と、論理を信じるんだ」
そのときは、ただ「かっこいい」と思っただけだった。でも今は、その冷静さの奥に、どれだけの孤独が隠れていたかを、少しだけ知ってしまった。あの声の響きも、言葉の選び方も、今となっては全てが違う意味を持って胸に迫る。
私の言葉は、ちゃんと届いたんだろうか。 あれから和田さんは、何を考えているんだろう。 嫌だったら、今日からよそよそしくされるのかな。……それはさすがに、耐えられない。想像するだけで、心臓がきゅっと締め付けられる。
けれど、逃げるのはもっと嫌だった。あんなにまっすぐ伝えたのに、自分がびびって後退るなんて、それこそ卑怯だ。あの夜、彼の瞳の奥に見えた、ほんの微かな揺らぎを、私は決して見逃さなかった。あれが、きっと希望なのだ。
──和田さんを、特別にしたい。
それが、今の私の気持ち。 だったら、言葉にして終わりじゃない。ちゃんと見て、感じて、拾って、伝えていかなきゃいけない。あの人が自分を「誰の特別にもなれない」なんて二度と言わないように。
そう決めたはずだったのに。
「……あ、天野、おはよう」
後ろから聞こえた、いつも通りの声。その穏やかさに、ほんの少しだけ安堵した自分がいた。通り過ぎていこうとした和田さんを、私は反射的に呼び止めていた。
「おはようございます、あの……っ、昨日は、ありがとうございました」
言った瞬間、顔が熱くなる。どうして「ありがとうございました」なんて言っちゃったんだろう。こんな仰々しい距離感で話したいんじゃないのに。せっかく近づきたいのに、また壁を作ってしまったみたいだ。
息を詰めるように彼の次の言葉を待つ。 でも、和田さんは立ち止まって、ほんの少しだけ、笑った気がした。その表情は、どこか吹っ切れたような、しかし少しだけ戸惑いを残したような、複雑なものに見えた。
「うん。こちらこそ」
それだけで、胸の奥がじわっとあたたかくなる。彼の声が、私の中の不安をそっと撫でるように響いた。
変わったんだ。私の中で何かが。昨日を境に、完全に。この熱い鼓動も、高鳴る期待も、全部が新しい。
いつもと同じように講師室で授業準備をしながら、私はときどき、斜め前のデスクに座る和田さんを盗み見る。打ち込む手つき。たまに眉間にシワを寄せる横顔。静かに流れる空気の中で、彼の一挙手一投足が、どうして今までこんなに魅力的に見えなかったんだろう。まるで、世界に新しい色が塗り足されたみたいだ。
恋って、こういうことなんだ。
自分にこんな感情が眠っていたなんて、知らなかった。あんなに大勢の人と出会ってきたのに。あんなに必死に生きてきたのに、私はずっと気づかずに通り過ぎてきた。まるで、人生のピースが一つ、ようやくはまったような感覚。
和田さんの指先も、声も、表情も。いまや私にとっては、ぜんぶ、愛しい。その存在すべてが、私の心を引きつけてやまない。
午前の授業が終わったあと、昼休みに廊下でばったり和田さんに出くわした。いつも通りの導線。なのに、胸の鼓動だけが明らかに違っている。彼の姿を視界に捉えただけで、指先が痺れるような感覚に襲われた。
「午後の授業、どっちですか?」
「ああ、301。小論の添削」
その言葉を聞いて、私は一歩、また一歩と、迷うように近づいた。踏み出す足が、震えないように、しっかりと地面を踏みしめる。
「……よかったら、空き時間に私の指導案、見てもらえませんか。自分じゃ客観的に見えなくて」
それは本音。だけど、昨日までの私なら絶対言わなかった。だって、怖かったから。近づいて、気づかれて、突き放されるのが。でも今は──伝えるって決めた。彼の隣にいたい。少しでも長く、同じ時間を共有したい。喉の奥がきゅっと締まるような、張り裂けそうな期待が胸いっぱいに広がった。
和田さんは、少し驚いた顔をしたあと、「うん」と頷いた。その頷きが、私にとってどれほどの勇気と喜びをもたらしたか、彼は知らないだろう。
その頷きに、私は自分の中に芽生えたこの気持ちを、ちゃんと育てていこうと誓う。焦らず、少しずつ、大切に。
恋に戸惑っている。でも、怖がってはいない。 不器用でも、少しずつ。 私が見てきた和田さんの「すごさ」を、言葉にして伝えていく。 ひとつも、拾いこぼすことなく。 この人を、「特別にしたい」って想いを、誇りを持って。
だから私はまた、勇気を出して言った。
「……前に言ってた、“この記述は評価されにくい”って基準、もう一回教えていただけますか?」
驚くように目を丸くした和田さんが、「なんで急に?」と笑った。その声には、少しだけ楽しそうな響きが混じっていた。
私は笑ってごまかす。本当は、ただ和田さんの声を、近くで聞きたかっただけ。彼の隣にいる、この瞬間が欲しかった。彼の目の奥に、ほんの少しだけ戸惑いが浮かんでいるのが見えた気がしたけれど、それすらも愛おしい。
話しかけたのは、ほんの数分の立ち話だったのに、それだけで午後の空気が変わって見えた。午前中のざわつきが、すこしだけ輪郭を持ち始める。これは戸惑いじゃない。たぶん、始まりだ。私にとって、新しい世界の扉が開いた音だ。
ちゃんと知りたい。ちゃんと話したい。
ただの好意じゃない。私はもう、「和田さんを特別にしたい」って気持ちを、誤魔化せなくなってしまいました。この衝動は、もう止められない。
だったらもう、後ろを向く理由なんて、どこにもない。
昼過ぎ、講師室の一番奥の机で、私はプリントの束を片手に悩んでいた。
添削指導案──。普段なら自分で詰めてしまう部分なのに、今日はどうしても、和田さんの目を通してもらいたくて仕方なかった。少しでも長く、正当な理由で会話ができるから、というのは正直、ずるい気持ちだ。彼の声が聞きたい。彼と同じ空間にいたい。そんな私の中の欲望が、止めどなく溢れてくる。
「見せて。どれ?」
後ろからかけられた声に振り返ると、いつの間にか和田さんが立っていた。自然に隣の椅子を引いて、座る。私の心臓はまた、さっきと同じように忙しく動き出す。彼の吐息すらも、肌で感じられるような距離。指先が、ほんの少しだけ震えていた。
「ここなんですけど……この生徒、字面はちゃんとしてるんですけど、深掘りが浅くて。言葉が“綺麗”にまとまりすぎてる気がして」
「──うん、わかる。でもこういう子って、“大崩れしない”のが長所だからね。荒削りな発想をどう引き出すか、がカギかな」
そんなふうに即座に返してくれるところが、ずっとすごいと思ってきた。いや、いまはもう、それだけじゃ済まない。この人の言葉が、どんなふうに生まれて、どんなふうに届いていくのか、もっと知りたい。もっと聞いていたい。この声が、私だけのために響く日を、願ってしまう。
「……そういうの、全部覚えておきたくなっちゃいますね」
ぽつりとこぼした私の言葉に、和田さんが少しだけ首をかしげた。
「え?」
「和田さんが普段考えてることとか、指導の視点とか。すごく勉強になりますし、全部ちゃんと覚えておきたくなるんです」
そう言って、自分の声がほんの少し震えていたことに気づきました。緊張? それもある。でも、それだけじゃない。心のどこかで、これはきっと「好き」のはじまりなんだと、自分自身が知っている。隠しきれない感情が、声に乗って漏れてしまったようだった。彼がどんな表情をするのか、怖くて、でも知りたくて、じっと彼を見つめ続けた。
和田さんは黙って、ほんの一瞬だけ私を見たあと、少し視線を伏せてから、小さく息を吐いた。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、少し救われる」
その「救われる」の一言に、また胸がいっぱいになった。私の言葉が、この人の中で何かを動かせたなら、それだけで。彼の心に、ほんの少しでも光を灯せたなら、私はどんなに幸せだろう。
まだ距離はある。年齢も、立場も、気持ちの速度も。でも、だからこそ私は、焦らない。ひとつずつ、届けていく。
和田さんが気づかないふりをしてきた、自分の良さを。 誰にも言われてこなかったすごさを。 私は、絶対に見逃さない。彼のすべてを、私が一番近くで見て、伝えていきたい。
そのあとも少しの間、隣同士で添削を見ながら話す時間が続いた。雑談を交わすわけでもないのに、不思議と静かな空気が心地よい。今までも、こういう時間が居心地のいい人だと思ってた。その上で尊敬もしてた。──でもいまは、違う意味で、ずっとここにいたくなる。この時間が、永遠に続けばいいのに、と願うほどに。
夕方の授業が近づく頃。
ふと、彼がこちらを見た気がして、心臓が跳ね上がった。私は咄嗟に視線を逸らしたが、すぐに意を決して、もう一度彼の顔を見た。
「あ、すみません……。なんか今日、浮かれて、完全に距離感間違えちゃって。気をつけます」
言ったそばから、自分の声がほんの少し震えていたのがわかった。けれど和田さんはそんな私をまっすぐ見て、ふっと息をこぼすように笑った。
「……はは。そんなまっすぐに来て、まっすぐなまま謝ることってあるんだ。……ちょっと照れくさいな」
「すみません……なんか、あとから恥ずかしくなっちゃって」
「いや、いいよ。……そういうとこ、天野っぽいなって思っただけ」
「“っぽい”って?」
「真面目で、一生懸命で。ちょっと不器用だけど、誤魔化さないとこ」
「……それって、褒めてますか?」
「もちろん。俺、そういうの、けっこう好きだよ」
一瞬、心臓が跳ねた。 “好きだよ” なんて言葉を、こんな穏やかに言える人なんだ、この人は。その言葉が、まるで電流のように全身を駆け巡る。私は笑ってごまかすしかなかった。視線を逸らしながら、なんとか平静を装う。彼の「好き」が、講師としての評価なのか、それとも別の意味があるのか。期待と不安が入り混じる。胸が高鳴りすぎて、呼吸が浅くなるのを感じた。
「……じゃあ、次からもまっすぐでいきますね。覚悟していてください」
「うん、覚悟しとく」
ふたりだけの、小さな約束みたいだった。 その言葉が、じんわりと心に染み渡る。それだけで、午後の空気がほんの少し、柔らかくなった気がした。この、たった数分の会話が、私にとってどれほど大きな意味を持つか、彼には想像もできないだろう。
恋を知ったばかりの私は、たぶんまだ不器用で、重たいかもしれない。 でも、ほんの少しずつでいいから、この人の中に私を残していけたら──。
和田さんが特別じゃないと思い込んできた時間のぶんだけ、私はこの人の心に、ちゃんと積み重ねていきたい。私が彼を特別だと信じているように、彼自身にも、その真実を伝え続けたい。
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