第3話 戸惑いの熱

天野のことを、そんなふうに考えたことなど、一度もなかった。いや、そんな烏滸がましいことを、自分自身が考えられるはずがなかったのだ。


最初に彼女を担当したのは、天野が大学一年でアルバイトとしてこの新宿校に入ってきた年の春だった。講師室で初めて挨拶を受けた時、「しっかりした子だな」と率直に思ったのを覚えている。明るいけれど出しゃばらない。礼儀正しいけれど、その奥に揺るぎない芯がある。真面目すぎて、時に空回りしてしまいそうな危うさすら、彼女の場合はなぜか愛嬌に見えた。


すぐに「これは、放っておいても上に来るな」と直感した。


指導案を出させれば、まだ現場を知らないなりに、そのロジックはしっかり通っていたし、私のフィードバックを素直に受け止めて、必ず次に活かしてきた。授業を見学させれば、生徒の反応を必死に追って、小さな変化も見逃すまいとメモを取っていた。何より、生徒一人ひとりに向き合う目が真剣だった。たった一年で彼女が特別講座を任されるようになったのは、むしろ当然の帰結だったと言えるだろう。


天野がまっすぐに、眩しいほどに上へ登っていく分だけ、俺は、自分の足元に伸びる影を嫌というほど直視させられるようだった。


いつだったか、夏の暑い日に、講師控室から聞こえるアルバイト講師たちの雑談。彼らが「夏休みは稼ぎ時」と笑い合う中で、ふと天野がぽつりと呟いた言葉が、俺の胸に深く刻み込まれている。


「……なんかさ。何十人もの生徒の人生背負ってるって、改めて思ったら……責任、重いよなって」


そして、こうも続けたのだ。「……その責任に対して見れば、むしろあの金額でもつりあってない気がする」と。さらには「一日中ずっと授業してるのに、どのコマでも誰一人、気を抜いてる子なんていなくてさ。全員が真剣に、必死に聞いてくれてて……それ見てるともう……たまんないんだよね」と。


その時の彼女の、手元のペットボトルをくるくる回しながら照れたように笑う顔と、真剣な眼差しが、今でも鮮明に思い出される。多くの講師が「稼ぎ」としか見ていない夏期講習を、彼女は生徒の「人生」と捉え、その責任の重さに真剣に向き合っていた。その純粋さに、俺は言葉にできない衝撃を受け、同時に、深い共感を覚えた。


(──俺も、生徒の未来に嘘はつきたくない。授業には真摯でありたい)


自分の根底にある、講師としての矜持。それを、彼女はまだ若く、経験も浅いながら、すでに持ち合わせている。いや、俺以上に、純粋な形で持っているのかもしれない。あの瞬間から、天野は俺の中で、単なる「よくできる後輩」ではなく、特別な光を放つ存在として認識されるようになった。だが、その光は眩しすぎて、俺は決して近づこうとはしなかった。


──誰の特別にもなれない。


今日の休憩室で、そう口にしたのは、紛れもない俺の本音だ。これまでの人生、人から嫌われることは滅多になかったけれど、その分、誰かに深く好かれたり、特別な存在として認識されたりすることも、ほとんどなかった。


みんなが口を揃えて「いい人だよね」と言ってくれる。でも、いつもそれだけで終わる。飲み会では、輪の中心には入れず、常に聞き役。就職活動も散々だった。自分なりに本気で向き合い、面接で自分の想いやできることを伝えたつもりだった。だが、結局、どこも俺を選ばなかった。


きっと俺のことなんて、どこにでもいるような、代わりがいくらでもきく存在だと思われていたのだろう。そんな自己認識が、俺の根底には深く根付いていた。


だから俺は、他に就職先が決まらないまま、この塾に居ついた。ここしか、自分の居場所がない気がして。


生徒には真摯でいたい。授業には嘘をつきたくない。それは、講師としての最低限の矜持だった。でも、それ以外の、個人的な人間関係においては、自分が誰かの記憶に、特別な形でちゃんと残れる自信なんて、これっぽっちもなかった。


だからこそ今日の、天野のあの言葉は、これまで俺が積み上げてきた薄い均衡を、音もなく崩壊させるような破壊力を持って、心臓の真ん中に怖いくらいに深く突き刺さった。


「私にとって、和田さんはずっと特別でした」


思わず、彼女の目から、その言葉から、逃れるように目を逸らした。どう返せばいいのか、皆目検討もつかなかった。


お前の中で、俺は、そんなに大きな存在だったのか?ただ、教えていただけのつもりだった。期待に応えようと、真面目に向き合ったつもりだった。でも、それは全部、生徒のためで、後輩の育成の一環で──そんな風に、言い訳をするように自分に言い聞かせ、この強烈な感情から目を背けようとしていた。


だけど、天野は、今、はっきりと俺に言ってくれた。誰でもない、「俺」を特別にしたい、と。その言葉は、俺の冷え切った心を、不意に温めるような熱を帯びていた。


「いきなりだし、私なんて4つも年下の大学生だし、全然対等でもないし、そんなふうに見れないかもしれないけど。でも、考えてみてほしいんです。私のことをそういうふうに見て、これから一緒に歩んでいくことも」


……なあ、天野。ずるいよ、そんなの。


俺は、ずっと、お前みたいなまっすぐな人間が眩しかった。常に上ばかりを見て、弛まぬ努力を続け、誰かの未来に希望を与えるような、そんな眩い講師に、俺なんかを特別だって言われる日が来るなんて、夢にも思っていなかった。


心が、追いつかない。あまりにも突然で、あまりにも大きすぎる言葉に、俺の感情は処理しきれないパニック状態だった。


でも、確かに、今、胸の奥で何かが静かに、けれど力強く、動き出しているのを感じる。


──ああ、これは「嬉しい」って気持ちだ。


これは、ただ照れているわけじゃない。自分には過ぎる言葉をもらったときの、人間としての純粋な戸惑いだ。この感情に名前をつけるなら、それは「畏怖」に近いのかもしれない。


でも、もしそれでも、そんな風に真っ直ぐに言ってくれるなら──


俺は、少しだけ、本当にほんの少しだけ、信じてみたいと思ってしまった。


テーブルの上のグラスに目を落としながら、俺は小さく、長く息を吐いた。その吐息は、長年溜め込んできた、誰にも言えなかった孤独を、ようやく吐き出すようだった。

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