ずっとキレイだった月: 4
根木がトイレで泣いている間、カナは仏頂面で頬杖をつきながらホームルームを受けていた。
(何よ。自分も仁木をいじめてたくせに)
心の中で悪態をつきながら、根木へのいじめについて考える。
(まあとりあえず、今日は何もしない方が良いわね。来週くらいまで放っておきましょ)
根木が反抗したからではない。むしろカナとしては今すぐにでもしめたいところだった。そうしないのは、仲間達が彼女の捨て台詞に怯んでいると思っているからだった。
カナの仲間たちは、彼女と違って根木に対する嫌悪はそこまでない。ただカナに次の標的にされるのが怖いから同調しているというのは、とうに気づいている。臆病者の彼女達は今頃、もし根木が教師にちくって大事になったらどうしようかと思っているに違いない。
(そんなのを怖がるくらいなら、最初からいじめなければ良いのに)
机を指で叩きながら、呆れと憐憫のため息を吐いた。カナは仁木をいじめ始めた時から、彼女達と違って信念を持っていたのだ。
「可哀想な人間が嫌い」。それだけの事で、今まで二人をいじめてきた。
カナには二歳下の妹がいる。その妹は幼い時から病弱で、親はずっと彼女の心配ばかりしていた。自然とカナは放任される事が多くなり、幼少期から「お姉ちゃんなんだから」の一言で済まされない程の孤独と承認欲求不満を抱えて生きてきた。
だが、それはカナにとってそれ程苦痛ではなかった。誕生日に親がいないのも、運動会に親が来ないのも、彼女にとっては当たり前だったから。
一番悔しかったのは、そこまで親に尽くして貰っている妹にその意識がない事だった。夜熱を出しては親に泣きつき喚く。面会に毎日行って貰っていたくせに、退院したら「辛かった」、「寂しかった」と泣いて帰ってくる事も多かった。
(私だって、辛かったわよ)
嫌な事を思い出してしまったと舌打ちする。
可哀想な人を見ると、まるで自分の悲しみが否定されるように感じる。その思いから、彼女はいじめを始めたのだ。
(私だって、寂しかったわよ)
要するに、彼女もまた、孤独を抱えて生きる一人の女子にすぎなかったのだ。
〜※〜
「……どうしたの、根木さん」
アパートの前で座っていた私に、仁木君が声をかける。
「ごめんね、仁木君」
そう言う私に、「何が?」、と訝しげに尋ねてくる。
「聞きたいことがあるの。ここじゃなくて、もっとゆっくり話せるところで」
断られると思っていたけれど、彼はあっさり「いいよ」、と言ってくれた。
「じゃあ、上がってく?」
〜※〜
散らかってるけど、と案内されてリビングの椅子に座った私はすぐになんで引っ越してしまうのか尋ねた。
仁木くんがああ、と納得がいったように頷いた。
「学校まで遠いから」
ふうん、と気のない返事をしたあと、沈黙がリビングに広がっていく。
「え、それだけ⁉︎ 絶対なんかあると思ったんだけど」
そう。本当はもっと聞きたいことがある。
遠くに行く前に教えて欲しかった。
あの
勿論他に話したいこともある。学校がどんな感じかとか、連絡先とかも。でも今すぐに知りたいことは、やっぱりこれだった。
「実はさ……」
高校に入ってからのことを話すと、仁木くんは最後までしっかり聞いてくれた。
「だから、どうやってあの環境を耐えたのか知りたいの」
仁木くんはしばらく考えていた。目をつむっりあごをさすって、ハッと目を開いた彼の答えは「忘れた」だった。
「ぶっちゃけ今がほんとに楽しくてさ、特に部活の奴らすごいいい奴らだし。二年以上前のことなんて覚えてないや」
拍子抜けする答えだったのに、妙に私は納得していた。そっか、と言おうとした時、仁木くんが「あ、でも」と口を開く。
「ポスターは貼ってたな」
「なんの?」
「冥王星」
はっとした。
「あ、知ってる?」
「うん、たまたまニュースで見た」
「探したんじゃなくて?」
「どういうこと?」
仁木君は恥ずかしそうにに目をそらして、「まあそれが普通か」とはにかみながら言う。
「ポスター、たぶんまだ部屋にとってある気がする。見てく?」
はにかむ彼の言葉にうなずく。
〜※〜
「あった、これこれ」
そう言って彼が見せてくれたポスターは、所々色のはげた、年季が伝わってくるものだった。ポスターの隅には、何回もテープで止めたような跡があった。
それでもそこには、惑星から外されたことを忘れてしまうほどに尊大な冥王星の姿が黒い宇宙の背景にくっきりと描かれていた。
「……」
「いいでしょこれ。親父が出張に行った時お土産にNASAで買ってきてもらったんだ」
うれしそうに仁木くんは続ける。
「これ見てるとさ、なんか色々どうでも良くならない?」
「そんなもんかな」
そんなもんかな、って……と苦笑しながら彼は嬉しそうに言う。
「惑星ですら仲間外れにされるんだからさ。人間が仲間外れにされるのなんて仕方がない事なんだって思わない?」
そして仁木くんは思い出した、とあの頃についてぽつりと教えてくれた。
「縋ってたんだ。ずっと」
「冥王星に?」
「そう。自分は何も悪いことしてないのに段々周りから離れて行っちゃうっていうのがさ、なんか似てるなーなんて思っちゃったりして……。いじ……めがあった時も、ちょっとだけだけど……気が楽に……なった」
そこまで言って、彼は「ごめん」と目を擦った。声が掠れていた。そこでようやく、 仁木君が虚勢を張っていたことに気が付いた。
本当は忘れられてなんかいないんだ。仁木君の心の中に残ったどす黒い泥の塊は、どれだけきれいな水が入ってきても溶けきらずに底にこべりついているんだ。
「ごめんね」
改めて、私は謝った。ただ自分の心を軽くしたいための、最悪の謝罪をした。
「だから、謝んないでよ」
仁木君はまだ涙をこらえていた。長いまつげを湿らせて、ただ困ったように笑っていた。
「もうあの頃が……、どうにかなるわけじゃないんだからさ」
彼にそんなことをいわせてしまったことが、とにかくいたたまれなかった。窓から見える、空の向こうに沈んでいく太陽の光を反射する高層ビル群が幻想的で、それが私たちを感傷的にさせた。
「仁木くんが私と話してくれるのは、私を上にいる人だと思っているから?」
返事はない。なくてもいい。
「だとしたらそれは違うよ。私はただのヤな奴だよ。本当に上にいる人たちっていうのは、カナたちのことをいうんだよ」
「あんなカスどものどこが」
そう言って自嘲気味に笑う仁木くんは、一瞬全く知らない誰かに見えた。
え、急にどうしたの?と驚く私に、彼は言葉を吐き出し続ける。
「俺、あいつらのことずっとそう思ってたんだ。太陽が見えないくらい遠くで周りの星に威張ってる、ちょっと大きい星屑みたいなさ」
「そんなことないよ」と食い気味に言った。驚いたような彼の顔で我に返って、それでも少しずつ言葉にしていく。
「……カナたちが星屑なら、私は何になるの?」
再び起こる短い沈黙。それを破る彼の一言。
「──月かな。太陽にはなれないかもだけど、暗いときに照らしてくれる」
今度は私が驚く番だった。自分たちが恥ずかしいことを言っている自覚はあったけど、まさかそんなことをいわれるとは思ってもみなかった。
唖然とする私に気づくことなく、仁木君が弱々しくつぶやく。
「でもそっか……、やっぱりみんな、なにかに縋ってるんだ」
「……そんな実感ないけど」
「なくてもさ」
弱々しくも断定的な口調で、はっきりと彼は続けた。
「たぶん人って困ってる時、みんな自分より大きくて、共感できる何かにすがるもんなんだよ」
「そんなもんかな」
「そんなもんだよ」
仁木くんは全ての毒を吐き終えたように元の笑顔に戻った。
「それよりも、平井さんたちまだやってるんだね」
平井はカナの名字だ。
「早く気づかないかな。意味ないって。」
よく分からなかったけれど、目の奥に悲しみの黒を感じた。
帰り際、玄関で靴を履いていると仁木くんが「これあげるよ」と何かを放ってきた。それは仁木くんがかけているのと同じタイプの眼鏡だった。
「え、いいのこれ?」
「自作だから度が合うかわかんないけど」
「作ったの⁈」
「いいからかけてみてよ」
眼鏡は驚くほど私の視力に合っていた。何よりメガネの柄はベッコウ柄でシャープで、ついさっきまでつけていたものとは比べものにならないほどにオシャレだった。
「おお、いいじゃん」
そう言われ、スマホのインカメで自分の顔を確認した。あのキラキラしていた頃の私と目が合う。それが他でもない自分なんだと少しおいて気づいて、思わず少し泣いてしまった。
「なんで仁木君はこんなによくしてくれるの?」
ハンカチをくれようとしていた彼の手が空中で静止する。彼はそりゃあ、とあっさりとした表情で、こともなげに言った。
「月が綺麗だからさ」
その言葉に私の心臓は跳ね上がって、顔が耳まで赤くなってしまった。呆然と仁木くんを見つめていると、彼の顔も段々赤くなっていった。
それに気づいて、慌てて顔を背ける。まだ呼吸が落ち着かない。
高揚する気分をそのままに、普段入れっぱなしにしている靴ベロを出して勢いよくドアを開ける。
「ありがとう。じゃあね」
「ん、気をつけて」
最後に見た彼の顔は、今まで見たどの顔よりもスッキリとしていた。そしてそれは多分、私も同じだっただろう。
アパートを出る。夕焼けと夜の藍色が混じった綿あめの空を、風が身軽に吹き抜けていった。その風を一身に受けて、私は深く深呼吸した。
すううぅぅぅぅぅぅ……
はああぁぁぁぁぁぁ……
──よし!
両頬を軽く叩いて、家へと走りだす。
(もう、負けない)
強く地面を踏みしめる。
(もう、逃げない)
顔を上に向けながら、強く思った。
──ここからは私の時間だ、と。
月が出てきた。今夜は満月だ。これからも。
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