第一章 変容と怒り

第一話 刻まれなかった名

 火継ぎの祠に、朝の光は届かない。

 厚く積まれた岩と焼け焦げた石板のあいだに、ひとりの女が身を屈めていた。


 エネア。

 彼女は小さな布の包みを静かに抱え、祠の奥にひそかに掘られた岩の裂け目へと手を伸ばす。

 中にあるのは、誰にも見せてはならない、焦げ跡のついた一枚の石板。

 言葉にならぬ言葉。火で消されたはずの記録。


「……アリウスには、見せられない」


 囁くように、そう言った。

 その声は、まるで何かを悼むような、どこかで別れを告げるような響きをしていた。


 けれどそれは、自分自身に向けた“言い聞かせ”にも聞こえた。

 どこか迷いを滲ませながら、彼女は石板を岩の隙間に隠した。


 アリウスの顔がふと、脳裏をよぎる。

 もし、あの子がこれを見たら、どう思うだろう。


「……いや」


 つぶやいて、頭を振った。

 考えるだけ無駄だ。


 見せてはいけないものだから、隠した。それだけのこと。

 それでも足取りがほんの一瞬だけ、ためらったように見えた。


 そして、火の灯りを見つめながら小さく深呼吸をする。

 まるで、その行為そのものに意味を込めるように。


 ノルトのへり――

 王の国の南端、河と風が交わる土地に築かれた、ひとつの村。


 家々は粘土と石を積み上げて作られ、屋根の上には乾燥した芒が敷かれている。

 井戸の水は冷たく、空気には土と草のにおいが混じっている。


 神の名は既に忘れられたが、人々は祈りを捨てなかった。


 広場の中央、火を囲んで村人たちが集う。


「今日はえらく風が強いな」

「いや、きっといい火になるさ」


 ざわめく声の中に、ひときわ浮いている少年の姿があった。

 肩まで伸びた淡い金褐色の髪、素足に腰布を巻きつけただけの簡素な身なり。

 その上から、火除けの模様が縫い込まれた粗布のショールがかかっている。


 ──アリウス。

 村の少年たちの中では、誰よりも“この火”に目を奪われていた。


 火継ぎの儀は、年に一度の祭。

 だが彼にとっては、ただの祭ではなかった。


 燃え上がる火を前に、彼はじっと立ち尽くしていた。

 その表情に、憧れにも似た強い願いが宿っている。

 けれどそれが何なのか、自分でもまだ言葉にできない。


 焔の向こうに、エネアの姿があった。

 肩を出した一枚布の儀礼服を、腰の帯で無造作に巻きとめている。

 生まれつき青みがかった白い肌は、炎の光を吸い込みながら淡く揺れていた。

 眉のあたりで切り揃えられた前髪と、編み込まれた後ろ髪は、儀式用に小さな花飾りで結われていた。

 けれど、飾りよりも彼女の瞳のほうが印象的だった。

 黒曜のような暗い青。

 どこか、すべてを見透かすような眼差しをしていた。


(姉さん……)


 彼女は村の誰よりも強く、誰よりも静かだった。

 夜明けの祠で見せた顔を、アリウスはまだ知らない。

 だからこそ、彼はあの背中に、何かを重ねようとしていた。


 火が落ち、村は静寂に包まれた。


 星明りの下、アリウスとエネアは家に戻る道を並んで歩いていた。

 話すべき言葉はあったのに、口を開けば壊れてしまうような気がして、どちらも黙ったままだった。


 夜風がショールを揺らす。

 ふと、エネアの横顔が月光に照らされた。


 どこか遠くを見つめているその横顔は、いつもと変わらない。

 強くて、まっすぐで……。


 アリウスは思った。

 姉は男ではない。戦に出る兵でもない。

 けれど、その背中は、村の誰よりも逞しかった。


 自分も、ああなれるのだろうか。

 少年の胸の内には、憧れと、それを追いかける不安が静かにあった。


「……ねえ、アリウス」


 小さな声だった。けれど、それは確かに夜を震わせる音だった。


「今日の火は、ちょっと違って見えなかった?」


「……うん。なんか、重たかった」


「そう。重たかった、よね」


 そこで言葉は途切れた。

 エネアは微笑んだけれど、その笑みはどこか“置き去り”にされたように感じた。


 二人が戻った家の中には、干し草の香りと穀物の匂いが満ちていた。

 アリウスが横になり、目を閉じようとしたとき──


 ザザ……ッ。

 かすかな地鳴りのような音が、耳に入った。


 最初は風かと思った。だが違った。

 地面が低く鳴っている。蹄。複数。

 それに混じって、革の擦れる音。金属の鈍い響き。


(誰かが、来ている──?)


 アリウスは跳ね起きた。

 家の隅に置いていた細工用のナイフを手に取り、外をうかがう。


「アリウス?」

 布団から顔を出したエネアが、寝ぼけた声で呼びかける。


「……外に、何かいる」


 目が慣れてきた夜闇の中で、アリウスは音の正体を探る。

 そして、確かに見た。


 家の外、通りの向こう──

 炎を携えた者たちの影が、じわじわと村の中心へと向かってくる。


 騎馬の姿。光る槍の穂先。

 そして、先頭を歩く者の甲冑には、王の刻印があった。


 エネアもその光景を目にした。

 寝巻のまま立ち上がり、アリウスの肩を掴む。


「……どういうこと?」


「わからない。でも、普通じゃない」


 火矢が一本、夜空を裂いた。


 続くようにして、複数の火矢が宙を舞い、家々へと放たれていく。

 乾いた藁屋根は瞬く間に燃え上がり、村の夜が赤く染まった。


 ──そして始まる。

 怒号、悲鳴、破壊の音。

 祝祭の火の名残は、容赦なく塗り潰されていく。


 アリウスの胸に走ったのは、怒りでも恐怖でもなかった。

 ただ、ひとつの疑問だった。


(なぜ、こんな夜に……?)


 エネアが手を引いた。

 その手は震えていた。


「逃げなきゃ……アリウス、早く!」


 でも、その時にはもう、遅かった。


 門の向こうから、青銅の刃を携えた兵がひとりまたひとり、まっすぐにこちらへ向かっていた──。

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