第二話 火の音と、声の断絶

 聞いたことのない音だった。


 寝静まった村に、ゆるやかに、しかし確かに迫る重低音。

 大地を打つ馬の蹄、金属の擦れるような硬質な響き──

 それらは、夢の続きのような夜の静けさを、じわじわと侵食していった。


「……誰か、来るぞ……?」


 どこかの家から、誰かが呟いた。

 土のにおいに混じって、乾いた獣の匂いと焔の気配があった。

 そして、不自然なほど静かだった。虫の音も風も、ひとつもない。


 火番をしていた老人が立ち上がり、戸を開ける。

 続いて他の家々からも人が現れ、寝間着のまま月明かりに顔を晒した。


 誰かが家の戸を少しだけ開けた。


「……火事か?」「何の音だ?」


 寝巻のままの老女が震える手で祈りの印を結ぶ。

 母親が赤子を布ごと抱き寄せて、家の隅へとしゃがみ込む。


 しかし、誰もが直感していた。

 これはただ事ではない。


「神よ……どうか、どうか……」


 祈りの声すら、足音と金属の響きにかき消されていった。


 アリウスは焚き火のそばから立ち上がり、エネアとともに外へ出る。

 草木の陰から見える通りの先、砂塵の向こうに影が揺れていた。


 ──それは、兵だった。


 銅と青銅の鱗甲を身にまとい、湾曲した鎌剣を腰に、複合弓を背に。

 彼らは獣の面を模した兜を被り、無言で村を見下ろしていた。

 中でも、馬上のひときわ大きな影が、目を細めて口を開く。


「王の命により、この村は焔に処される。

 民すべて──ここにて滅せよ」

「……すべては王の意志である」


 兵の長は無感情に続けた。


「逆らえば王命に背く反逆者とみなされる。貴様らだけではない、縁あるすべての    者が裁かれる」


 それは“正義”ではなく、ただの通達。

 けれどその言葉は、村人たちの口をつぐませるには、十分だった。


 その声と同時に、空を裂く火矢。

 空気が鳴り、刹那にして屋根を貫いた。


 燃え広がる乾いた茅。

「何を──」「逃げろッ!!」

 誰かが叫び、悲鳴が次々と広がった。


 家々は炎に包まれ、闇が赤く染まる。

 兵たちは馬で突進し、目についた村人を容赦なく切り伏せていく。


 女が、子どもが、赤子が──叫びと煙が渦を巻き、どこがどこかもわからない。


 アリウスは地面に蹲っていた小さな子どもを見つけ、火の中へ身を躍らせる。

 伸ばした腕に重み。抱き上げたその瞬間、背後から風を裂く音。


「ッ──どけ!」


 剣の斬撃が背中を掠め、アリウスの皮膚を裂いた。

 それでも、子どもをかばったまま走る。

 だが──その直後、子どもが突然重さを失った。


「……え?」


 振り返った先。矢が、子どもの胸に突き刺さっていた。

 背に感じた熱も、風も、全てが遠ざかる。

 崩れ落ちる小さな体。落ちた瞳がこちらを向いていた。


「……ッ!」


 アリウスが硬直するより先に、兵が目の前に現れた。


「終いだな、坊主」


 鎌剣を構える兵。その背後で誰かが叫ぶ。


「アリウス!」


 ──エネアの声だった。

 彼女はアリウスの方へ走ってくる。

 だが、二人の兵がその身体を羽交い締めにし、地面に押し倒す。


「離せッ!」


 もがくエネア。

 その脚が兵の膝を蹴り──バランスを崩した兵が思わず手にしていた剣を振るった。


 ──そして、刃が、彼女の首筋を裂いた。


「……!」


 アリウスの世界が止まる。


 そして次の瞬間、別の兵の鎌剣が彼の首元を斬り裂いた。


 地に転がったはずの意識は、何故かまだ、あった。


 目だけが動く。

 焦げた空。焼け落ちる家。

 血に染まった姉の姿──


 その周りに、兵たちが集まっていた。


「おい、お前……殺したな」

「……暴れたんだよ。だがまだ使えるだろうが」

「死んだばかりなら、問題ねぇ。あったけぇうちに……唾つけときゃ、入る」


 アリウスの視界が、怒りに染まった。


「……殺してやる」


「「食ってやるッ!!」」


 声が重なる。

 それはアリウスの声。けれど彼自身ではない。

 喉を裂いて叫んだはずのない音が、口をついて出た。


 黒銀の糸が、彼の胴体の断面から――湧き出るように伸びた。


 その一本一本が神経のように動き、アリウスの首へと向かっていく。


 兵の一人が思わず声を漏らした。


「なんだ……あれ……?」


 伸びた糸が骨を縫い、筋を繋ぎ、肉を織る。皮膚のようなものが再び張られ、アリウスの体が“戻っていく”。


「首が……首がくっついた……!?」


 恐怖と混乱が兵たちの顔を走る。


 だが、それはまだ序章にすぎなかった。


 アリウスの身体――いや、異形と化したそれは、今なお変化を続けていた。


 肉が、裂けるようにして外へと広がる。黒銀の筋繊維がうねりながら外気に晒され、蒸気のように熱を放つ。骨格はわずかにねじれ、筋肉が増幅し、体格は元の倍近くまで膨れ上がっていく。


 “皮膚”はない。あるのは、剥き出しの繊維だけ。


 その姿は、生きた筋肉そのものだった。


「……ッ、なんだ、あれは……あんなの、人間じゃねぇ……!」


 一人の兵が後ずさる。


 それでも、異形のアリウスは前へと進んだ。


 ごう、と息を吐くたびに、黒銀の繊維が脈動し、火の粉が弾かれて宙を舞う。


 その腕が――動いた。


 エネアを押さえつけていた兵のひとりを、無造作に掴む。


「ッ、やめろッ――!」


 叫び声は、無意味だった。


 アリウスの指が、兵の頭を鷲掴みにする。


 そのまま、頭蓋を潰すようにして、口を開いた。


 黒銀の牙のような繊維が内側からせり出す。


 咀嚼――ではない。“破砕”だ。


 骨が砕け、眼球が潰れ、喉が引き裂かれる。


 噛み千切られた頭部から、血と脳漿のうしょうが地に滴り落ちる。


 どこかで誰かが、悲鳴に似た声を漏らした。


「……あの姿……王が言ってた、あれじゃないか……」

「カダム様が言っていた“神の呪い”……!」


 恐怖と混乱が伝染し、足をもつれさせて逃げる兵も現れ始めた。

 だが背後では、まだ咀嚼が続いていた。


 その瞬間だった。


 異形の身体の表層に、変化が走る。


 黒銀の繊維が凝集し、滑らかに――だが、有機的な“装甲”のように変質していく。


 胴の中心から外へ、肩から手甲へ、ふたたび背中へと。


 まるで喰らった兵の“鎧”を模しているかのような、殻が形成され始めていた。


「あれ……身体が……変わっていく……!?」


 兵のひとりが呟いた。


「……何を、見てるんだ……俺たちは……」


 震える声。


 誰も、踏み出せなかった。


 異形のアリウスは、ゆっくりと顔を上げた。


 その口が、ふたたび動く。


「貴様ら全員――喰ってやる!!」


 その声が夜を裂いた瞬間、兵たちの理性は音を立てて崩れ去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る