右足から、恋をした
浅野じゅんぺい
右足から、恋をした
決まりごとが、好きだった。
たとえば、目薬は右目から差すこと。
靴下も靴も、必ず右から履くこと。
トイレットペーパーは、ダブルじゃないと落ち着かないし、
使った食器は、なるべくすぐに洗いたい。
それは、子どもの頃から変わらなかった。
「几帳面だね」と言われることもあったし、
「神経質っぽい」とからかわれたこともある。
でも、気にならなかった。
むしろ、誇らしかった。
僕だけの、小さなルール。
誰にも迷惑をかけない、小さな静けさの積み重ね。
それを守ることで、自分という舟がまっすぐ浮かんでいられるような気がした。
彼女が、あの部屋に来るまでは。
*
玄関に、小さなスニーカーが並びはじめたのは、ちょうど半年ほど前。
まだ時々、リビングに座る彼女の姿を、夢みたいに感じる。
名前は、あかね。
くしゃっと笑って、風みたいにしゃべる人だ。
「トイレットペーパーはさ、シングルのほうが長持ちするよ」
「食器は夜にまとめて洗えば、効率いいって」
そう言って、冗談みたいに笑った。
目薬をどちらの目から差すかなんて──考えたこともないらしい。
でもそれが、あかねだった。
風通しのいい生き方で、僕の“きっちりとした”世界を、そっと揺らした。
その揺れが、心地よかった。
*
「ねえ、なんで右足から履くの? おまじない?」
ある朝、並んで靴を履いていたときのこと。
あかねが、しゃがんで僕の足元を見ながら言った。
僕は少しだけ考えて、それから言った。
「おまじない……みたいなもの、かな」
右から差す目薬は、「今日もだいじょうぶ」という合図。
右足から履く靴は、「迷わず進め」のしるし。
言葉にしてしまうと、ちょっとだけ照れくさい。
でも、あかねはうんうんと頷いて、
「そういうの、いいね」って言ってくれた。
彼女のそういうところが、僕は好きだった。
*
「じゃあさ、左から履いたらどうなるの?」
ある日、いたずらっぽく笑いながら、
あかねが僕にスニーカーを差し出した。
わざと、左のほうを。
僕は一瞬戸惑ってから、おそるおそる左足を入れてみた。
足元がふわりとぐらついたけど、それだけだった。
右足もちゃんと追いついてきたとき、
ふたりして思わず、笑い合った。
心のなかの“決まり”が、少しだけほどけた瞬間だった。
*
駅までの道を、左足から履いたスニーカーで歩く。
いつもより、地面の感触を確かめながら。
歩ける。ちゃんと、前に進める。
だけど、たぶん──明日は右足から履くと思う。
それを察したように、あかねがふふっと笑って、
「わざとらし〜」なんて言う。
その声には、どこか安心したような響きがあった。
彼女は、自分のリズムを大切にしながら、
僕の細やかさも、そっと抱きしめてくれる。
それが、たまらなく嬉しかった。
*
夜、ベッドのなかで、あかねがぽつりと言った。
「からかっても、怒んないでね?」
「怒らないよ」
「じゃあさ、今度、目薬さすとこ見せて。気になってきた」
「え、なんで?」
「だって……そういうの、いいじゃん。なんか」
“そういうの”の意味は、うまく言えなかったけれど、
あかねの声の温度に、胸の奥がやわらかくなった。
僕は、ふふっと笑って、静かな天井を見上げた。
*
右足から履くスニーカーも、右目から差す目薬も、
かつてはひとりきりで守っていた、小さな習慣だった。
けれど、いまは違う。
それは、誰かと笑い合うための、扉のひとつになった。
彼女は、僕に“ゆるさ”を教えてくれた。
僕は、彼女に“ていねいさ”を渡せたらいい。
今日、彼女がこの部屋にいる。
そのことが、世界を少しだけ優しくしてくれる気がする。
そして明日からまた、
ふたりで少しずつ、新しい「決まりごと」を増やしていくんだと思う。
肩を並べて、右足からでも、左足からでも。
*
──恋はきっと、そんなふうに始まっていく。
右足から、恋をした 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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