右足から、恋をした

浅野じゅんぺい

右足から、恋をした

決まりごとが、好きだった。


たとえば、目薬は右目から差すこと。

靴下も靴も、必ず右から履くこと。

トイレットペーパーは、ダブルじゃないと落ち着かないし、

使った食器は、なるべくすぐに洗いたい。


それは、子どもの頃から変わらなかった。

「几帳面だね」と言われることもあったし、

「神経質っぽい」とからかわれたこともある。


でも、気にならなかった。

むしろ、誇らしかった。


僕だけの、小さなルール。

誰にも迷惑をかけない、小さな静けさの積み重ね。

それを守ることで、自分という舟がまっすぐ浮かんでいられるような気がした。


彼女が、あの部屋に来るまでは。



玄関に、小さなスニーカーが並びはじめたのは、ちょうど半年ほど前。

まだ時々、リビングに座る彼女の姿を、夢みたいに感じる。


名前は、あかね。

くしゃっと笑って、風みたいにしゃべる人だ。


「トイレットペーパーはさ、シングルのほうが長持ちするよ」

「食器は夜にまとめて洗えば、効率いいって」

そう言って、冗談みたいに笑った。


目薬をどちらの目から差すかなんて──考えたこともないらしい。

でもそれが、あかねだった。


風通しのいい生き方で、僕の“きっちりとした”世界を、そっと揺らした。


その揺れが、心地よかった。



「ねえ、なんで右足から履くの? おまじない?」


ある朝、並んで靴を履いていたときのこと。

あかねが、しゃがんで僕の足元を見ながら言った。


僕は少しだけ考えて、それから言った。


「おまじない……みたいなもの、かな」


右から差す目薬は、「今日もだいじょうぶ」という合図。

右足から履く靴は、「迷わず進め」のしるし。


言葉にしてしまうと、ちょっとだけ照れくさい。

でも、あかねはうんうんと頷いて、


「そういうの、いいね」って言ってくれた。


彼女のそういうところが、僕は好きだった。



「じゃあさ、左から履いたらどうなるの?」


ある日、いたずらっぽく笑いながら、

あかねが僕にスニーカーを差し出した。

わざと、左のほうを。


僕は一瞬戸惑ってから、おそるおそる左足を入れてみた。

足元がふわりとぐらついたけど、それだけだった。


右足もちゃんと追いついてきたとき、

ふたりして思わず、笑い合った。


心のなかの“決まり”が、少しだけほどけた瞬間だった。



駅までの道を、左足から履いたスニーカーで歩く。

いつもより、地面の感触を確かめながら。


歩ける。ちゃんと、前に進める。

だけど、たぶん──明日は右足から履くと思う。


それを察したように、あかねがふふっと笑って、

「わざとらし〜」なんて言う。


その声には、どこか安心したような響きがあった。


彼女は、自分のリズムを大切にしながら、

僕の細やかさも、そっと抱きしめてくれる。


それが、たまらなく嬉しかった。



夜、ベッドのなかで、あかねがぽつりと言った。


「からかっても、怒んないでね?」


「怒らないよ」


「じゃあさ、今度、目薬さすとこ見せて。気になってきた」


「え、なんで?」


「だって……そういうの、いいじゃん。なんか」


“そういうの”の意味は、うまく言えなかったけれど、

あかねの声の温度に、胸の奥がやわらかくなった。


僕は、ふふっと笑って、静かな天井を見上げた。



右足から履くスニーカーも、右目から差す目薬も、

かつてはひとりきりで守っていた、小さな習慣だった。


けれど、いまは違う。

それは、誰かと笑い合うための、扉のひとつになった。


彼女は、僕に“ゆるさ”を教えてくれた。

僕は、彼女に“ていねいさ”を渡せたらいい。


今日、彼女がこの部屋にいる。

そのことが、世界を少しだけ優しくしてくれる気がする。


そして明日からまた、

ふたりで少しずつ、新しい「決まりごと」を増やしていくんだと思う。

肩を並べて、右足からでも、左足からでも。



──恋はきっと、そんなふうに始まっていく。






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右足から、恋をした 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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