第4話 “未入居の家”を手放す理由

第4話 “未入居の家”を手放す理由


「売却相談のお客様です。対応お願いできますか?」


受付から声をかけられたのは、売買営業部の課長、村上誠一(むらかみ せいいち)、43歳。

穏やかな口調と冷静な判断力が持ち味のベテラン営業マンで、社内外の信頼も厚い。


資料を手に応接ブースへ向かうと、そこには30代前半くらいの女性が静かに座っていた。白のワンピースに薄手のカーディガン、指先には何も飾られていない。


「お待たせしました。村上と申します。本日は、どのようなご相談でしょうか?」


「……家を売りたいんです。買ってから、一度も住んだことがないんですが」



名前は遠藤沙織(えんどう さおり)。3年前に新築で購入したマンションの1室。

だが、鍵は開けられることなく、ずっと空き部屋のままだという。


「なぜお住まいにならなかったのか、お伺いしても?」


沙織は少し迷ったようだったが、ゆっくりと語り出した。


「……結婚する予定だったんです。ふたりで選んだ家でした。けれど、結婚式の1ヶ月前に彼が事故で……」


言葉を切ったその目元に、うっすらと光がにじんでいた。


「そのまま住むことが、できなくなりました。でも……そろそろ手放してもいいかなって。そう思えるようになったので」


村上は黙って頷いた。売買は数字や条件だけではない、そういう“事情”と向き合う仕事だということを、彼はよく知っていた。



数日後、内見を希望する購入希望者が現れた。若い夫婦で、第一子の出産を控えているという。


「この部屋、何かあったんですか?」


妻が少し気にするように尋ねたとき、村上は静かに答えた。


「新築購入後、一度も人が住んでいないお部屋です。ただ、もともとはとても大切に選ばれた家なんです」


「……なんだか、空気がすごく優しいですね」


夫の言葉に、村上はほっとしたように頷いた。



契約が決まった日、村上は沙織に報告の電話を入れた。


「おかげさまで、いいご縁に恵まれました。とても丁寧なご夫婦です。部屋のことを、気に入ってくださっています」


「……そうですか。よかった」


「もしよければ、最後に一度、部屋をご覧になりますか?」


少しの沈黙のあと、沙織はやわらかく答えた。


「いえ、大丈夫です。もう、きちんと前に進めた気がするので」



その電話を切ったあと、村上はひとつ深呼吸をした。


数字にならない価値を、誰かが引き継いでいく。そういう瞬間に立ち会えることが、この仕事の醍醐味なのかもしれない。



さて次回、第5話は、どんなお客様とのエピソードがあるのでしょうか?更新まで楽しみにしていてください。


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