第五話 私の推しは百合令嬢
――えっと、入っていいんだよね?
今まで他の大学の敷地になんて入ったことがないので、勝手が分からず緊張している。だって、高校とかだったら入っちゃダメなわけで。
他の学生に紛れて、ここの学生のふりをして門をくぐった。怪しまれませんように。いや、こんなこと考えてるほうが怪しいかも。
部屋の形は奥に長い長方形で、両側の本棚には本がぎっしりと並べてある。奥には窓と、ホワイトボード。部屋の中央にある会議机の両側に何脚か椅子が置いてあり、左側の一番奥に悠乃さんが座ってノートパソコンと本を開いていた。部屋には彼女一人のようだ。悠乃さんはわたしの顔を見ると、いつになく顔をほころばせて立ち上がった。
「
小走りで駆け寄り、わたしの手を握った。少し冷たい、滑らかな肌触りに一瞬ドキッとした。
「来てくれてありがとう。あれ以来、どうしてるか気になってたんだけど、大丈夫でしたか?」
「いえ、こちらこそすみません連絡してなくて。大丈夫……かどうかはよく分かりません」
「……紅茶、飲めますか? ここ座っててください」
「すいません、いただきます。あ、こちらどうぞ……」
持ってきた手土産のお菓子を渡すと、「じゃあそれも出しちゃいましょうか」と箱から出してくれた。部屋の入口側にはシンクや戸棚があり、悠乃さんはそこからカップやティーバッグを出して電気ケトルでお湯を沸かした。わたしは悠乃さんに案内された、対面の席に着きながら聞いた。
「ゼミ室ってこんな感じなんですね。わたしは自分の大学のゼミ室も行ったことないので」
「配属されるまでは、ゼミとか縁ないですよね。大学によっても違うと思いますけど」
「今日は一人で研究してたんですか?」
「そうですね。前期の講義も終わって、今はほとんど来る人もいないです」
「すごいですね。そんなに研究頑張れるなんて」
「私にとっては趣味の延長みたいなものですから。……茜音さんも、同じじゃないですか?」
「え? いや、わたしは研究とか勉強は全然……」
「創作ですよ。夢中になったら、何時間でも取り掛かれちゃうでしょう」
「……!」
わたしは言葉を詰まらせた。まさに今、直面している問題だった。
「今日相談したかったのは、そのことなんです」
わたしは、例の炎上騒ぎのときの『当事者としてはすごく迷惑』という書き込みのことを悠乃さんに話した。
「……わたし、自分の創作が誰かを傷つけることになってしまうのが怖いんです。これは百合に限った話じゃない。どんな創作にも起こり得ると思ってます。それなら創作なんかやめればいいって言われるかもしれませんが、世の中に出てるたくさんの作品、それが悪いことだとは思ってません」
「……」
悠乃さんは黙って、俯いたわたしの顔を見守ってくれている。いつもの、研究者然とした鋭い目つき。でも、冷たさは感じない。
そして自分のバッグから何か取り出した。わたしの描いた同人誌だ。
「茜音さんの同人誌を、全部読みました。私が興味深いと思ったのはこのシーンです」
そう言ってページを開いてわたしに見せた。
魔法少女のミライが、仲間であるリカコのことを好きだということを、別の仲間のキョウカに相談するシーン。
キョウカ「その『好き』って……友達としてじゃないの?」
ミライ「ううん……。私は、リカコと恋人になりたい。友達のままじゃ嫌なの!」
「茜音さんの百合創作では、恋愛感情にもとづいていることが明示されています。これは、クィアベイティングを忌避してのものではないですか?」
「え……?」
クィアベイティング。クィア、今回の場合は同性愛を仄めかし、エサにして世間の注目を集めるという、マイノリティを踏み台にするような手法のことだ。
「もしそうだとすると、茜音さんは誠実に創作しているといえます。進んで同性愛を搾取する創作をするような人ではありません」
ふわりと、心の中に温かいものが流れ込んだような気がした。麻衣も同じことを言ってくれた。それが、悠乃さんにも伝わっていた。――わたしの創作を通して。
「そう言ってもらえて、嬉しいです。でも、進んでじゃないとしても人を傷つけてしまうことはありますよね……」
悠乃さんは、ふっと優しい目になった。
「表現活動がある種の暴力性を帯びていることに無自覚な人もいますが、茜音さんは違います。そうやって悩んで、どうしたらいいか考え続けることが大切だというのが私の考えです。私のしている研究活動だって、創作ではありませんが表現の一種です。同様に、暴力性があることは否定できません。だからこそ、細心の注意を払っているつもりです。それも十分ではなく、実際この前は茜音さんから批判を受けてしまいましたね」
こんなに一生懸命、真面目に研究に取り組んでいる悠乃さんでさえ、完璧な対応はできないんだ。
「わたしも――本当は創作したい。でも、この前の炎上騒動のけじめはつけたいと思います。何かアイデアはないでしょうか」
悠乃さんは顎に手を当てて少し考えてから、指を立てた。
「じゃあ、二人でちゃんと説明しましょう。『百合営業』なんかじゃないって。私たちは本気なんだって」
……百合営業じゃなく、本気? 百合営業は、百合を装って人の目を引く行動。それが本気ってことは……。
「そ、それって、わたしと悠乃さんが本気の百合関係になるってこと……!?」
「え?」
一瞬の沈黙。悠乃さんはハッとして、
「ち、違います! そうじゃなくて、私たちが『百合』に対して本気だってことを示すんです!」
「あ……! そっか、そうですよね! いやー、そうですよね」
わたしが焦りを誤魔化していると、悠乃さんも急にお菓子の個包装を開けて、
「あ、これ美味しそうですね!」
などとわざとらしく話題を変えた。わたしが笑うと、悠乃さんの入れてくれた紅茶がほんのり甘く香った。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
「では茜音さん、私たちの本気をどうやって表明しましょうか」
お菓子を食べたり世間話程度の百合語りなどをして一息ついた後、悠乃さんは切り出した。わたしは入れ直してもらった紅茶のカップを手に取り、目を落とした。
「……創作者なら、創作で表現するべき――というのは、わたしはあまり支持していません。創作はあくまでも創作。わたしは創作者である前に表現者です。目的が伝えることなら、誤解なく伝わりやすい方法を取るべきと思います」
「なるほど。私もそう思います」
「悠乃さんに……協力してもらいたいです。もちろん無理にとは言いませんが」
悠乃さんが続きを促す。わたしは息を吸って言った。
「発端となった、百合の定義論争。あれを二人で語り合うところを動画にして、公開したいです。そうしたらわたしたちが本気で語っていることを、みんなにも理解してもらえるのではないかと思います」
悠乃さんは、少し目を見開いてから、もう一度細めた。
「面白いですね。いいと思います。……しかし、どうしてその方法にしようと思ったんですか?」
「わたしは最初……悠乃さんが、百合作品を研究として見ているだけで、対象の作品をリスペクトしてない失礼な人だと思っていたんです」
「ふふ、随分な言われようですね」
悠乃さんは軽く苦笑した。怒っているわけではない。
「す、すみません……。でも会って言い合いをしたとき、悠乃さんの目を見たらハッキリ分かりました。この人は真面目に、本気で取り組んでいるって。こういうのって、伝わるんだと思ったんです」
「そうだったんですね……」
少し間が空いた。しばらく無言だったけど、気まずさはなかった。悠乃さんの理解を深めていくにつれて、わたしはもっと知りたくなった。
「悠乃さんは、どうして百合を研究しているんですか?」
「……話せば長くなりますよ」
「聞きたいです」
すると悠乃さんは、紅茶を一口入れてから呼吸を整えた。
「私、小さいときから喜怒哀楽を表現するのが苦手で、『お前は感情がないのか?』と言われることも多かったんです。でも本を読むのは昔から好きで、絵本や図鑑から、教本、小説、辞書、家にあるものは何でも読みました」
何か、すごく想像できる。今の悠乃さんをそのまま小さくした感じの女の子が、静かに本を読んでいる様子。
「小学生のときに図書室で出会ったのが、小説の『ユリみて』でした。この作品はメインのストーリーに恋愛が絡むことはほとんどありませんが、少女たち同士の信頼関係や絆、憧れ、嫉妬……そんな感情が肯定的に描かれているのを読んで、私自身も感情を揺さぶられるのを感じました。今までに読んだどの本とも違う感覚。『ユリみて』は何周読んだか分かりません。そこから百合作品に、もちろんそのときは百合という言葉も知りませんでしたが、興味を持ったんです。男女の恋愛ものには興味が湧きませんでした。周りには趣味の合う人はいなくて、私は一層創作作品にのめり込みました。それは私自身の感情を分析することにもつながると思ったんです」
そこまで話して、悠乃さんは紅茶を一口飲んだ。続けていいかを確認するようにわたしの目を見たので、頷いてあげた。悠乃さんは少し目を伏せた。
「……中学のとき、女の子に告白されました。違うクラスだったけど、一緒に図書委員になった子。一番仲の良い友達でした。正直なところ、その子のことを恋愛対象として見たことはなかったし、私には恋愛経験自体がありませんでした。でも私は、深く考えずに付き合うことにしたんです。断ってその子を傷つけたくなかったというのもありますし、一緒にいるのが心地良い関係なのは本当でしたから」
淡々と語る悠乃さんだったけど、少し声が震え始めたような気がした。
「手を繋いだり、二人で遊びに行ったりするのは楽しかったです。でもある日、彼女に聞かれたんです。『悠乃ちゃんは私のことどう思ってるの?』って。……私、答えられなかった。私はその子を好きだったし、大切に思っていましたが、たぶん恋愛感情はなかったと思います。そのまま、自然消滅のような感じで疎遠になっていきました。そのとき、恋愛感情じゃなかったとしても、彼女に対する想いを言葉にできていたらと……今でも思い出すと胸がざわざわします。きっかけとしては、それが百合を研究する理由になると思います」
悠乃さんに、そんな過去があったんだ。語ってくれた内容を深く噛み締めて、それから少し心の痛みを感じた。
「……話してくれて、ありがとうございます。悠乃さんのこと、少し理解できてきた気がします」
悠乃さんは少しだけ微笑み、
「いえ。私の方こそ、聞いてくれてありがとうございます。話したことで、自分の中でも整理できました。やっぱり私は、百合が好きだし、百合に救われてきたということを実感しました」
「わたしも同じです。辛いとき、苦しいときに、奮い立たせてくれた百合作品のこと。大切にしたいという思いには自信を持っています」
お互いに、目を見合わせて笑った。そして、悠乃さんはノートを開き、ペンを握った。
「じゃあ、動画をどうするか考えていきましょうか。さっきの話も踏まえて、私たち二人が百合に対してどう思っているかを」
「はい。本気で語って、しっかり伝えましょう」
「ただし」悠乃さんがペンの後ろ側を自分の唇に当てた。
「キスで誤魔化すのは禁止ですよ?」
「ちょっ……! そんなことしないから!」
慌てて否定すると、悠乃さんは楽しそうに紅茶をすすった。その柔らかな微笑みを見て、悠乃さんの新しい一面を見れた気がして、胸の奥が温かくなった。
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