第四話 百合ってあげてもいいかな
禍々しい夢を見ていた。誰かに責められていたような気がする。夜中に何度も起きては寝てを繰り返した。何度目かの目覚めで、朝の五時を回っていたので、そのまま起きることにした。
月曜日だ。気持ちを切り替えて、大学に行かないと。
ユリッターや創作は、わたしの生活に深く関係してはいるけど、日常生活と切り離すことはできるはず。
カーテンを開けると、真っ青の空が広がっていた。わたしの心の重さとは無関係に。
朝食を取って、いつも通りの生活を再開することにした。……つもりだった。
異変が起こったのは、駅に向かうために歩いていたときだ。
後ろを歩いている人のことが、やたらと気になった。脈拍が上がる。漠然とした不安が襲ってくる。
――何だろう、この感じ。後ろの人がどうかしたのだろうか。
確認のため振り返ると、不思議そうな顔をしたサラリーマンがいてわたしと目が合った。気まずかったので、「すいません」と言って道の端に寄って立ち止まった。
わたしは息を整え、人がいなくなるまで待ってからあまり気にしないようにして歩くのを再開した。
駅の改札を抜けて、ホームに出た。電車を待つ人がいる。最寄駅はそれほど大きくないが、通勤、通学の時間にはそれなりに混み合う。
また、心臓がドクンと脈打つ。
冷や汗が出て来た。妙なイメージが、わたしの脳を支配している。
ホームの向かいにいる人が向けるスマホが、カメラを通してわたしに突き刺さる光線を飛ばしてくる。
知らない人たちの目線が、冷たい手のひらのようにわたしの全身を撫でていく。
後ろで談笑している声が、わたしへの呪いの言葉に聞こえる。
吐き気が我慢できなくなり、トイレに駆け込んだ。個室の中で嘔吐すると、朝食に食べたばかりのパンが出てきた。そのまま、壁にもたれて少し経つと、脈拍は落ち着いてきた。人のいないところにいると安心する。ここなら、誰かに撮られることはない。
でも、電車の中では? 大学の構内では? 不特定多数の誰かがいる。わたしを見て、撮って、アップロードする人がいるかもしれない。
理性ではそんなことないと分かっていても、想像しただけで心臓は勝手に不安で脈打つ。
わたしは大学を休むことにした。人の視線から逃れるように、全速力で駅から家まで走って帰った。走り過ぎでまた気持ち悪くなってしまったので、顔面蒼白で扉を開けるとお母さんがびっくりして飛んできた。わたしは「しんどいから」と伝えて、また部屋でベッドに潜り込んだ。外の世界から遮断されると、また少しずつ呼吸が落ち着いてきた。スマホは正直見たくなかったが、
しばらく布団でじっとしていると、麻衣から電話が来た。
「
とても大丈夫とは言えないけど、心配かけるのは憚られたので誤魔化した。
「うん、ちょっと疲れただけ。明日は大学行けると思う……たぶん」
「そう、それなら良かった。……ユリッターの話になっちゃうけど、いい? 動画、消えてるよ。アカウントごと。自分で消したのか、運営が消したのかは分からないけど。騒いでる人も減ってきてるし、時間が解決してくれると思う」
「そうなんだ、ありがとう教えてくれて」
電話を切ると、体から力が抜けるようだった。
「はあ~~っ」
深く息を吐いた。無意識に、ずっと緊張の糸が張り詰めていたんだろう。ユリッターから動画が消えたということを知って、安堵している。
恐る恐るユリッターを開いてみる。ユリノキ(悠乃さん)のブルームが真っ先に表示された。
『無断でアップロードされていた、私の映った動画が削除されているのを確認しました。これ以上何か起こらない限り、本件について言及を避けます。ご迷惑とご心配をおかけして、申し訳ありません。』
昨晩、悠乃さんに粘着していたアカウントたちは、飽きたのか諦めたのか、もう何か言ってくることは無くなったようだ。悠乃さんも無事そうで、一安心した。
……でも、わたしはまだ心にしこりが残っている。本棚にある百合漫画に手をかけた瞬間、あの書き込みが脳裏をよぎった。
『当事者からするとすごく迷惑。』
わたしは今まで、辛いときや苦しいとき、百合作品に助けられていた。大袈裟かもしれないけど、百合が生き甲斐だった。でも今のわたしは、無邪気に百合を楽しんでいいのだろうか。そんな権利が、あるんだろうか。
拡散したのは自分じゃないとはいえ、当事者を踏みにじるようなことをしてしまった、自分なんかに――。
わたしのユリッターのアカウントは、まだ非公開のままだ。もう少し落ち着いて創作を再開したら、公開に戻そうと思っている。とにかく、いつも通りの生活に戻るのを先決にしたい。
――そうだ、次のイベント用の原稿に取り掛かろう。
前回のリリフェスは途中で離脱してしまったが、新刊は割と好評だった。続きの構想もあるので、描き始めようと思った。
わたしは、本棚からその同人誌を手に取って、開いてみた。
『当事者からするとすごく迷惑。』
――まただ。あの書き込みが頭に侵食してきた。わたしが創作で百合を描くことも、誰かを傷つける表現になるんじゃないか。そんな不安と戸惑いが、心を支配する。今まで平気で創作していた自分を、恨めしくすら思う。
結局、この日以降も原稿に手をつけることはできず、大学二年生の前期が終わろうとしていた。わたしは、まだ答えを出せないでいる。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
「最近、描いてる?」
大学近くのファミレス。
期末試験が終わり、
わたしは、俯いてジェノベーゼパスタをいじくり回した。
「……進んでない。ずっと、描く気が起こらない」
麻衣はそれ以上何も聞かず、「そっか」とだけ呟いてアイスティーを一口飲んだ。
「私は知ってるよ。
麻衣の言葉に、少し救われる。それでも。
「……うん。もちろん、わたしもそんなつもりで描いたことはないよ。でもつもりがなくても、結果的に暴力的だったり、人を傷つけたりしてしまうかもしれない。わたしは、今はそれが怖い」
「そうだね。それは茜音が、表現することについて真面目に考えてるってことだと思う。悪いことじゃないよ」
「ありがとう……。でもね、今は好きだった作品も素直に楽しめないし、楽しめないことが『創作の可能性を信じれてない』っていうことのような気がして、辛いんだ……」
「茜音……」
わたしが黙ると、麻衣も黙ってしまった。こんなこと言われても、どう声をかけていいか分からないだろう。困らせてしまっている自分に、さらに自己嫌悪した。
「ごめん。わたし帰るね」
この場の空気にわたしのほうが耐えられなくなり、椅子を引いて立ち上がった。
「……あのさ」
麻衣が、覚悟を決めて絞り出すように言った。
「
わたしは、その名前が出てくるとは思っていなかったので咄嗟に反応できなかった。
「……悠乃さん?」
「実は、ユリッターで悠乃さんから連絡があったんだ。茜音は鍵にしちゃってるから連絡取れないでしょ? 茜音がどうしてるか心配して、私に聞いてきたよ」
わたしと悠乃さんのアカウントは、もともと相互フォロー関係でない上に、わたしが非公開にしてしまったので連絡できない状態になっていた。
「悠乃さん、か……」
そもそも、あの騒動の原因のほとんどはわたしにある。そのことをちゃんと謝る必要もあるんだった。
わたしは、帰ると悠乃さんのアカウントに
『突然ですが、またお会いできませんでしょうか。この前のこと、ちゃんと謝りたいです。勝手な申し出ですみません。』
すると、その日のうちに返信が来た。
『連絡ありがとうございます。あかねさんは悪くないので、謝る必要なんてありませんよ。それより、大丈夫ですか?』
涙が、溢れてきた。迷惑をかけたのはわたしなのに、心配してくれる悠乃さん。
わたしは、翌日に悠乃さんのゼミ室にお邪魔させてもらう約束をした。
その夜は、久しぶりに悪夢を見ずに眠ることができた。
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