第二話 ふたりは百合キュア
月曜日の二コマ目。わたしと
しかし、わたしにはのんびりしている暇はないのだ。
先日の土曜日、死ぬ思いで入稿した同人誌は次の日曜日の百合系総合イベント【リリィズフェスティバル】通称リリフェスで頒布するものだ。それまでに頒布する同人誌の一覧「お品書き」や「ポスター」の用意もしないといけないし、周るスペースの目星をつけたり、挨拶に持っていく同人名刺も作らないといけない。……なんだけど。
「はぁ……」
どうにも作業が手につかない。タブレットの上でペンを握ったまま、私はただ画面を見ていた。
麻衣が、ドリンクを飲みながらわたしの様子を心配してくれる。
「大丈夫?
「いや、大丈夫だよ……ちょっと疲れてるかも」
「気分転換にこれ、読んでみる?」
麻衣がバッグから出したのは、見覚えのある紙の束だった。
「これって……
「茜音が帰った後、悠乃さんが渡してくれたの。百合に関する研究なんて、珍しいよね。私、論文なんて初めて読んだけど面白かったよ」
とはいえ、あまり気が進まなかった。わたしがモヤモヤを抱えているのは、その悠乃さんが原因であることは分かっているからだ。
「……土曜日のこと、気にしてるの?」
「う……うん。ああ~~もう、わたし何やってんだろ!」
「まさかキスで相手の口を封じるなんて論破のやり方があるとはねえ」
「ちょっと、怒るよ。あれは麻衣のせいでもあるんだからね」
「ごめんごめん……でも、事故でしょ?」
「事故以外の何なのさ!?」
わたしの抗議に、麻衣は苦笑した。
「あれから悠乃さんと話した?」
「いや……昨日ユリッターで見かけて、思わずブロックしちゃったんだよね……」
「あらまあ。ちょっとくらい話しておいた方がいいんじゃない? 一応、掴みかかったり叫んだりしたことは反省はしてるんでしょ?」
「うん……でもなぁ。今は、リリフェスの準備を終わらせなきゃ」
わたしは、悠乃さんの論文をバッグに入れて「お品書き」の作成を再開した。
「ねえ、そういえばファミレスの支払い、私が立て替えておいた分ちょうだいよ」
わたしは、平謝りしてちゃんと支払ったのだった……。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
何とか自分を奮い立たせ、ギリギリでイベントの準備を終わらせた。最低限ポスターとお品書きは用意できたが、名刺やスペースのチェックまでする時間がなかった。わたしは、当日開場三十分前に着いてスペースの準備を始めた。
机の下に印刷を依頼した同人誌の箱があったので、まずは中身を確認。よし、大丈夫そうだ。今日はどれだけ売れるだろうか。ワクワクする。机の上に載っている様々な広告を取り除き、あとで物色するためバッグに入れる。持参したアルコールティッシュで机を拭き、お気に入りの敷き布をかけた。まだ来ていない隣のスペースにはみ出さないように、注意しないと。ポスタースタンドを机に置き、昨晩印刷してきたA3サイズのポスターをかける。同人イベントにサークル参加するのは四回目だけど、だいぶ様になってきたと思う。
周囲を見渡すと、スペースの準備をする人たちのざわめきが聞こえてくる。キャリーカートのキャスターが転がる音。慌ただしく動き回るスタッフ。壁サークルの大きなポスターと大量の同人誌。異様に凝った飾り付けをしているスペース。本だけでなく、小物やアクセサリー、CDを頒布するサークルもいる。
ああ……この空気。同人イベントに来たなー、と実感する。
会場の雰囲気に浸っていると、隣のスペースの人がやってきたようで、後ろからわたしに話しかけてきた。
「こんにちは。今日はお隣ですね」
「あ、どうもです! よろし……く……」
振り向いたわたしが、さっと血の気が引いて声を詰まらせたのは、その相手が……。
「よろしく、アカネさん」
悠乃さんだったからだ。まさかこんなところで出くわすとは……。
「ウソ……どうして!?」
「どうしてじゃないですよ。サークル配置図見てないんですか?」
まったく見てなかった。自分の準備でいっぱいいっぱいだった。ワクワクで膨らんでいた心が、出端を挫かれてしぼんでいくのが分かる。隣が悠乃さんだったなんて。どんな顔をして接すればいいんだろう。あんなことがあった後なのに……。
「ともかく、よろしく。そんな顔しないでください。別に邪魔しようなんて思ってないですから」
そう言って悠乃さんは、いつも通りの無表情で淡々とスペースの準備を始めた。わたしはずっとモヤモヤを抱えてるのに、悠乃さんはどうしてそんなに冷静でいられるんだろう。
イベントが開始した。場内アナウンスと共に、参加者の拍手。そして、一般参加者が会場になだれ込んでくる足音。【リリフェス】は国内で三本の指に入る百合系総合イベントである。だからこそわたしも、必死で新刊をこさえて参加したかったのだ。
ユリッターのつながりで、わたしのスペースに来てくれる人がいる。何人かと挨拶を交わし、談笑したりお土産を交換したりした。そんなやりとりをしている内に、わたしも落ち着きを取り戻せてきた。いつまでも悠乃さんにかかずらってる場合じゃない。
しばらくして
「私が売り子やっとくから、茜音、自分で行ってきたら?」
「ありがとう。でも、うちのスペースに来てくれる人とは直接会いたいから……」
「そっか、じゃあ行ってくんね」
悠乃さんのスペースは、わたし以上に繁盛していた。この前も付き添いで来ていた
昼が近くなり、双方の客足が落ち着いてきた。すると、悠乃さんは頒布している研究本を手渡してきた。
「……よかったら、読んでみてください」
わたしは無言で受け取った。読もうかどうか迷っていると、悠乃さんは席を立ち、机をまわり込んでわたしのスペースの前に来た。
「新刊と、既刊を全部一冊ずつください」
わたしは唖然として、しばらく反応できなかった。わたしの本を買ってくれるのか。相変わらず、感情の読めない様子で見つめてくる。
「あ……は、はい。ありがとうございます。えっと、合計で……」
同人誌を手渡すと、悠乃さんはぺこりとお辞儀をして自分の席――わたしの隣に戻った。隣なんだから横から「ください」と言えばいいものを、わたしのスペースの前に来て買ったのだ。律儀な性格なんだろう。しかし、このままじゃバランスが悪い。
「わたしも払います。払わせてください」
そう言って、さっき受け取った研究本の代金を半ば無理やり渡した。一瞬驚いたようだったが、受け取った悠乃さんの口の端が少し上がったような気がした。
わたしたちは、お互いの本を読んだ。悠乃さんの本は、この前の論文よりも読みやすくスルッと頭に入ってきた。悔しいけど、確かにしっかりとまとまっている。それに、書かれている、とある文章が気になった。
『ここでは「手をつなぎたい」「キスをしたい」といった身体的接触への欲求を根拠に恋愛感情と判断した。しかし筆者は、恋愛感情が必ずしもそのような欲求を伴うものだとは考えていない。あくまで本作品におけるキャラクターの感情について、そのように解釈したという点に留意されたい。』
ここまで考えて書いているということに、わたしはショックを受けた。この前、『適当に扱っている』なんて言ってしまったが、そんなことは決してない。悠乃さんは、誠実に向き合って分析しているんだ。……わたしなんかよりも、ずっと。
「意外ですね」
わたしの同人誌を読んでいた悠乃さんが、突然口を開いた。振り向くと、彼女と目が合った。
「……何がですか?」
「アカネさんは、恋愛中心の物語を描くのかと思っていました。でもこの作品は、メインのストーリーは魔法少女モノで敵と戦いながら、その中の要素として少女同士の恋愛が出てきます」
確かに今回の新刊は、オリジナルの魔法少女モノだ。二次創作もやってきたけど、最近は一次創作メインで活動している。
「百合には恋愛が必須である、という主義から、恋愛主軸の物語を描くのだと思い込んでいました」
「実は……わたし、【プリピュア】シリーズが好きなんです」
「なるほど。この作品はプリピュアを下敷きにしてるんですね。女児向けのアニメですが、戦う女の子同士の絆が百合的解釈としても人気があるシリーズですよね」
「……その中のある話で、女の子から女の子への強い感情が描かれました。作中ではあくまで友情として表現されています。それを恋愛的に解釈したものがわたしの百合の原点であり、創作の原動力です。悠乃さんの言う、『恋愛ではない百合』がわたしの原点であることは間違いありません」
「……」
「笑っちゃいますよね。どうしてそんなわたしが、恋愛百合を語れるのか」
悠乃さんは首を傾げた。
「そんなことはありません。原点がどうであれ、アカネさんが恋愛百合を大切に思っていることは事実なんですよね? 製作側の意図はともかく、アカネさんがその描写に恋愛的な解釈を見出したというのはおかしいことではありません」
悠乃さんはそう言ってくれるが、わたしは劣等感を感じていた。……そうだ、これは劣等感だ。百合を対象に研究し、論文まで書くほどに詳しく読み込んでいる悠乃さんに対する感情。自分が矮小に思えて、心が乱される。結果、きつい言葉で当たってしまう。
「結局、わたしは原作を無視して、勝手な解釈で二次創作したり、その当てつけで創作してるだけなんです。悠乃さんみたいに原作の描写を深く読み込んでいる研究者とは違うんです」
「そんなこと言わないでください。私は、アカネさんの百合に対する考えをもっと聞きたいんです」
「もういいって!」
わたしは思わず立ち上がって叫んでしまった。
「あなたはすごいですよ。こんなにしっかりした研究をして、論文まで書いて。それでいいじゃないですか。どうしてわたしを論破しようとするんですか。そうやって人の浅はかさを晒しものにして、楽しいですか!?」
止まらなかった。こんなこと言っても、さらに自分が惨めになることは分かっている。
悠乃さんの向こう側にいる奈緒さんが、心配そうに悠乃さんを見たが、悠乃さんは制して立ち上がった。
「私は、あなたがそこまで夢中になれることに興味があります。論破したいわけじゃない。自分だけが正しいと思ってるわけじゃない。だからこそ色々な意見を話して欲しい」
「やめてよ、放っておいて! どうせわたしなんか、あなたには敵わないんだから!」
叫びながら悠乃さんの肩を掴む。顔が近づく。腕に力が入りすぎるが、もう止まらない。
やけになったわたしは、妙な考えが頭に浮かんだ。また、キスしてやろうか。あのときは事故だったけど、キスの後は悠乃さんは黙ってしまった。麻衣はふざけて「キスで論破」なんて言ってたけど、意外と的を射ているかもしれない。
――もう、どうにでもなれ。
わたしは、肩を抑えつけたまま悠乃さんの唇に唇を押し当てた。悠乃さんの目が、驚きで見開いた。柔らかい感触と共に、頬に息がかかる。甘い香りが鼻腔を突き抜けた。
ざわっ……。
わたしたちの口論を聞きつけてか、いつの間にか人が集まってきていたようだ。悠乃さんとわたしのいる机を中心に輪を作っていたイベント参加者が、キスを見て声を上げた。
――しまった、こんなに大勢の人前でしてしまうなんて。
完全に誤算だった。いや、そもそも冷静な判断力を欠いていた。キスで黙らせるなんて、何を考えているのか。
俯いて静かになってしまった悠乃さんが、再び顔を上げた。少し紅潮し息が上がっているが、この前ほどの動揺はないみたいだ。
「……そんなことで誤魔化せませんよ」
悠乃さんがふっと笑った気がした。両手を伸ばしてわたしの頭を抑え、低い身長から突き上げるような形で顔を近づけて……。
「お返しです」
わたしの唇に、唇を重ねてきた。
その瞬間、頭がかっと熱くなり意識が遠のいた。そこから先は覚えていない。
わたしはそのまま気を失ってしまい、会場の医務室で目覚めたのはイベント終了間際だった。
付き添ってくれていた麻衣が心配する言葉をかけてくれたが、わたしの心はそれどころじゃなかった。
どうしてだろう。悠乃さんのことになると、わたしは正常な判断ができない。頭の中が、グチャグチャにかき乱されてしまう――。
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