第二話 初めての変化

「アイドルは記号だ。ステージ上のお前達は、観客が見たい存在を演じなければならない。だが、本当の自分を出す事と、嘘をつく事は違う。仮面をかけて初めて、自分の輪郭が見えてくる事もある」


都会の駅前。人混みの中で、葛西智はゆっくりと歩幅を合わせながら、視線を前に向けていた。

三人も自然と彼の後ろを追う。

勿論、先頭を歩くのは葛西。

二番目に紗良。

後ろを七海と梓が並んで、ひそひそと囁き合っている。

「眼鏡って……それで何がどうなるんだろうね、梓ちゃん……」

先程の葛西の言葉に懐疑的な感情を抱いているのか、七海は眉を顰めていた。

人見知りしているのか、梓の掌をずっと握りながら彼女の後を追っている。

「わたし達、本当に変われるのかなぁ……」

「まだ、分かりません……」

そう返すのは、相変わらず無表情の梓。

「でも、プロデューサーさんのあの目は、とても真剣でした」

七海よりも歳下である筈の梓が、彼女の手を引っ張りながらプロデューサーを追いかけていた。

言語化できないながらも『何か』を感じた梓は、そのまま彼の背中を真っ直ぐに見つめた。

(眼鏡……かぁ)

紗良は無言だが、目だけは冷静に街並みを捉えている。


やがて葛西は一軒の眼鏡専門店の前で足を止めた。

店先にはたくさんのフレームが並んでおり、『Welcome to Vision』という柔らかな文字がガラスに映る。


「ここでお前達それぞれの『仮面』を選べ。何でもいい。だが一つだけ条件がある」

紗良は眉を上げた。

「条件、ですか?」

「ああ。度は入れなくていい。現在の視力が良いと言うなら、度が入ったものを無理にかけると視力が悪化してしまう。ただ『視線』を変える為の道具を選ぶんだ。良いな」

店に入ると、店員が丁寧なお辞儀で迎えてくれた。

「いらっしゃいませ!」

棚には大小さまざまなフレームが並んでおり、その中にはモノクルの様なキザなものまで見え隠れしている。『品揃え』は、ある意味良さそうな店だった。


※ ※ ※


まずは七海。

葛西の隣に立ち、いくつかの眼鏡を手に取る。

(伊達眼鏡って事だよね。こんなの着けたってわたしは……)

自信を失った彼女はまだ震えている。

視力も良く、特に目の障害もない七海にとって、眼鏡を選ぶと言う事は初めての体験であった。

フレームの色。レンズの形。試着出来るものを何パターンか選んでみてもしっくりと来る物は無い。

「ステージ上では『人前で喋る自分』にスイッチするだろう? 恥ずかしいというなら、そのスイッチを入れればいい」

(そう言われても……ん?)

ふと、七海の視線が手短にあった鏡に向かう。

反射した鏡が映し出したのは、他とは違う燻んだ色のレンズが付いたものだった。

七海は吸い込まれる様に、その『眼鏡』の方に近付く。


「ぷ、プロデューサー。眼鏡屋さんにも、サングラスって、置いてあるんですね」

「少し違う。これは色覚を補正する眼鏡だ」

七海が目にしたもの。それは色覚障害を持つ者がその補正をする為の眼鏡だった。

患者の目に合わせて、赤や青っぽい色、それこそサングラスの様に茶色い色合いのレンズが用意されているらしい。

「だが、サングラスか。着けてみるといい。本物はこちらにある」

「は、はいっ」

七海は一つのミラーコートのサングラスを選んで、試着する。

「……あれ」

鏡越しに、自分とは別の『自分』になったように見えた。

試しに店内を見回してみる。

ほんの少しだけ燻んだ視界。

だが、いつもとは何か違って見えた。

(わたし今、サングラス着けてるんだよね……)

七海の目に広がる店内の光景。

葛西。店員。客の群れ。

理屈は分からないが、『気にならなく』なっていたのだ。

「どうだ」

プロデューサーが尋ねる。

「なんか、新しい世界に来たみたいですっ。自分が自分じゃない、みたいな」

「それでいい。元の自分を守る為の、盾として使うと良い」

七海もまた、変化を感じ取っていた。


※ ※ ※


次は梓。

ずらりと並んだフレームを見ながら、淡々と話す。

「見た目より『誰かになりきる』為の物ってことですよね?」

「そうだ。演じる為の装置として使ってみろ」

元々梓は演劇……演じる事に興味があった身だった。

一度ステージに立ってしまえば、歌もダンスも『演技』となる。

彼女の原点を探る葛西の提案により、梓は控えめに細縁の丸眼鏡を選び、そっと顔にかけた。

華奢なシルエット。だが、どこか個性の強さを感じさせる。

「どうだ」

その顔に、彼女の別人格が宿った気がした。

雰囲気が、がらりと変わる。

「……これが、演じる『私』のための装置、ですか」

「そうだ。表現は内から出すものだが、時に外からのスイッチも必要だ。それは武器にも、防具にもなる。『演技のための目』として使ってみろ」

梓は眼鏡のブリッジをそっと指先で押し、顔を引き締めた。

その仕草に、明確な意志が宿っていた。

「天峰梓という、同姓同名の他人の演技をするんだ。眼鏡をかけている間だけ、その人間の歴史を一から作ってみるといい」

葛西の言葉を受け、梓は少しだけ目を伏せ、そして開く。

「プロデューサーさんっ」

スイッチ。

そこにいる彼女は、既に天峰梓ではなかった。

自然な笑顔を振り撒く、眼鏡の似合う黒髪の少女。そう、『』に変わったのだ。

「如何ですか? 私……変われていますか?」

「……ああ」

葛西の目に映るその表情は、曇りのない晴天を連想させた。


※ ※ ※


最後に、紗良。

彼女は無言で棚の一番奥から取り出した、アンティーク調のモノクルをじっと見つめていた。

シンプルな金属縁。レンズ部分はやや小ぶりで、古いヨーロッパの工芸品のような気品がある。

「祖父が、昔こういうのをつけていたんです。『真理を見るための装置』だと、本人は言っていました」

紗良は、どこか照れたような目で葛西を見る。

彼女の祖父は、クラシック界では有名な人物だったらしい。理屈と美を徹底的に追求した人でもあった。

仕事中は常に片眼にモノクルをかけ『ズレた視点を排除する』ために律していたのだ。

「私は、その考え方が全てだと教わりました。まるで余計なものを削ぎ落として、刃物を研ぎ澄ませる様に」

しかし葛西は静かに言った。


「お前の祖父の視点を借りてみろ。ただ、本当にズレているものが見えたなら、切り捨てるのではなく、矯正してやればいい」


紗良はゆっくりうなずき、一度だけモノクルを持ち上げた。

勿論度は入っていない。それでも、祖父の願い──真理を見る訓練が、彼女の内面を動かし始めた。

「どうだ」

「……今は、少しだけ、いける気がします」

彼女はゆっくりとモノクルを左目に当て、紐を耳の後ろで結んだ。

その瞬間、冷徹さとは違う一種の気高さと集中力が彼女の表情を縁取った。


※ ※ ※


空気は、往路よりもいくらか柔らかくなっていた。

眼鏡をかけた三人は、再び葛西に導かれてレッスン場へ戻った。

七海はサングラスを外さずに足取り軽く歩いている。

オドオドとした雰囲気が無くなり、あの頼りなかった背筋は、ほんの少し伸びていた。

梓の無表情が、かすかに『芝居がかった』柔らかさを帯び始めた。

決して饒舌になった訳では無いが、その沈黙には、『考えている沈黙』の色があった。


紗良はモノクルを指で調整しながら、何かを考えているようだった。

レンズ越しに、街の景色を観察していたが、それはきっと『他人の価値観』を測る視線でもあった。

紗良は普段の冷淡さの奥から──しかし確かに、「観察者」ではなく「演者」になりつつある何かを感じとれた。


そして葛西は無言で三人を見つめていた。

揺れる表情、小さな変化。そのすべてが『開始の合図』に似ていた。


「……変われる。お前達なら」


葛西がぼそりと呟いたが、三人は気づかなかった。


※ ※ ※


事務所のレッスンスタジオ。

天井には大きなスピーカー、鏡張りの壁。床は真っ白な樹脂材で、靴音が心地よく響く。

軽く体操をする三人を横目に、レッスン担当の女性が葛西へと小声で言った。

「葛西さん。あんまりこんな事言いたくないですけど、この子達は厳しいと思います」

気持ちは分からなくもない。元々彼女達は退所直前の評価だったのだから。

「今回だけで良いんです。この子達の可能性が少しでも見えたなら、また続けてご指導をお願いしたい」

「まぁ、社長さんの指示でもありますから、もう一回だけのつもりで見ますけど」

そのうち、準備を整えた三人が、音楽の開始を待って並ぶ。

サングラス、丸眼鏡、モノクル──三者三様の『仮面』が光を受けてきらりと揺れる。


「音、入れます……始め!」


ビートが走る。テンポの速いダンスチューン。

数日前までなら、このリズムはきっと彼女達を混乱させていただろう。


だが──


最初のステップを踏んだ瞬間、七海の足取りが軽くなる。

肩がすっと落ち、動きが滑らかになった。

『見られている』という恐怖が、サングラス一枚で和らいでいたのだ。

顔の半分が隠れている安心感。

自分の顔を、今は「花守七海」ではなく、誰か『架空の存在』に預けているような気分。

彼女の中で、『演じること』と『逃げること』の境界が、やっと混ざり始めていた。


続いて梓を見やる。今回センターで踊る彼女はいつものように正確で機械的な動き……では、なかった。

細かな表情の変化が、顔に浮かんでいる。

「表情をつけなさい」と言われれば従う、けれどそれは不自然ではなかった。

今は違う。眼鏡があることで、演じる「他者」になれる気がしてきた。

その存在に乗り移る感覚。俯瞰する目と、体の動きが一致しはじめる。


そして紗良。

モノクル越しに、七海の動き。梓の表情。自分の姿。すべてを捉える。

いつもなら「その角度じゃラインが崩れる」「今、拍を落とした」と容赦なく言っていただろう。

けれど今日は、言葉が出なかった。


自分もまだ未熟で、『正しさ』よりも『調和』の方が価値がある瞬間があるのだと、ほんの少し、理解できた気がした。

祖父の言葉が、今になって意味を変えて彼女の耳に届く。


──ズレた視点を切り捨てるな、見極めて残せ。そうでなければ真理は生まれない──


※ ※ ※


曲が終わり、三人は息を弾ませて鏡を見返す。

そこには確かに、仮面を手に入れた者達の影があった。


「み、見違えたわ。あなた達!」

トレーナーがはしゃぐ様に激励し、葛西はそっと拍手をする。

それは『まだ途中だけど、確かに始まった』合図のように聞こえた。

「みんな素敵だったわ。何何? 一体どんな特訓して来たの?」

トレーナーが目を輝かせて言う。

とくに秘策があった訳でもない。

ただ、今までと違う所があるとすれば……

「「「コレ、ですかね」」」

三人は、各々かけた眼鏡を──仮面を指差して言った。

「え、ぇ?」

そこにいたのは候補生ではなく、『仮面を手にした未完成の演者』達だった。

「……悪くない。次からは、演技の中に自分も混ぜていけ」

葛西は短く言ってスタジオを出た。

残された三人は、少しだけ誇らしげに笑い合った。


※ ※ ※


レッスンが終わった後、三人は事務所の控室に戻っていた。

汗を拭き、ドリンクを飲みながら、まだ落ち着かない表情で互いを見合う。

「……ふうっー、ねぇねぇ、今日のわたし達、結構良かったんじゃないかな?」

最初に口を開いたのは七海だった。

サングラスの奥から覗く瞳には、まだ微かな不安が揺れていた。

けれど今までのような怯えではなく、『ちゃんとやれたかな』という前向きな揺れ。

「うん。私もそう思う」

梓が頷き、続ける。

「中々だったんじゃない? 初めてにしては」

梓が控えめに口を開いた。

丸眼鏡を指で押し上げる仕草は、どこか役者らしい誇張が入っていた。

「なんていうか、今まで自分の中に『誰もいない』感じだった。演じる相手も、表現する対象も。だけど眼鏡をつけたら……ちゃんと『何か』になれる気がした。役でも、仮面でも、何でもいいから」


そして紗良は、少しだけ間を置いてから言った。

「予想よりは、スムーズだったわ」

紗良の前評判を、二人は知らない訳ではない。

「それ、褒め言葉ってことでいいの?」

意外な言葉に、七海が聞き返す。

紗良はモノクルを外し、ケースにしまいながら、少し沈黙した後に言った。

「私、他人のミスにばかり目が行ってた。でも今日、七海のステップ、少しだけ自然だった。梓の表情も……きっと観てる人は惹かれる」

七海が目を丸くする。

「紗良ちゃんが……褒めた……?」

「勘違いしないで。まだまだ未熟だし。あ、私もね。でも、この仮面モノクルをつけてから、ほんの少しだけ『ズレ』を肯定できた気がしたの」

七海が笑い、梓も「まあね」と苦笑する。


「でも、正直びっくりした……私、あんなに動けたのなんて、初めて」

そして、先程の動きがまだ自分でも信じられないのか、七海が照れた様に言った。

「サングラスのおかげ?」

「……うん。なんだろうね。あれをかけてると、怖さが半分ぐらい消える気がする。『見られてる』っていうより、『見せてる』って気持ちになるんだよね」

梓は頷いた。

「たぶん私もそう。眼鏡かけてると、誰かになったみたいで、感情つけても平気な気がする。前だったら、わざとらしいとか思ってたけど……今は、『演じてもいい』って思えるかな」


そして紗良。

「私、いつも『正しさ』に執着しすぎてたのかも。今日は、不完全でも、三人で呼吸を合わせられた。それって……悪くなかった」

彼女の口調はまだ冷静だったが、そこにはほんの少しの柔らかさが混じっていた。

他人を責める目が、少しだけ『横に並ぶ目』に変わったような、そんな小さな変化。


「なんかさ、これから……ちょっとだけ楽しみになってきたかも」

七海の呟きに、梓も紗良も黙って頷いた。

三人はまだバラバラで、未熟で、形になっていない──けれど。


たしかに今日、何かが始まった。


※ ※ ※


別室、モニターの前。

昼のレッスンの録画映像が流れている。

社長席に座る壮年の男──西園寺さいおんじ 秀嗣ひでつぐは、腕を組んだまま画面を見つめていた。

後ろで立っているのは葛西。彼もまた、無言。

無音の映像では、サングラスの七海がくるくるとステップを踏み、梓が滑らかに台詞を読み、紗良が正確にテンポを刻みながらダンスを導いていた。

どこかぎこちない。

けれど、確かに『呼吸』が合っている。

ステージに立つ前の少女達が、仮面をかけ、演者になろうとする意志が、そこにあった。


「面白い事をするじゃないか。葛西」


ようやく社長が口を開いた。

「効果はあったようです」

「ふむ……まあ『仮面』の本質ってのは、そういうもんかも知れんな。人間の目は隠すと強くなる。自信が無い奴程、仮面を通して力を得る──そういうところはある」

社長は画面の一時停止ボタンを押した。

そこに映るのは、歌い終えた後、自然と顔を見合わせる三人の少女たちの微笑み。

「そう言えばお前も『仮面』によって復帰出来た身だったな。もうあれから十年経つのか。全く懐かしいもんだ」

「社長。昔話は、程々に」

「……で、どうなんだ葛西。お前の目に映るあの三人は、『芽』か?」

葛西は一瞬、答えを飲み込んだ。

そして、短く──しかし確信を込めて答える。

「芽どころか、これは『種』です。問題は、風と光と……それから、どんな花に育てるか。それが自分の仕事です」

社長は口の端を少しだけ上げた。


「三ヶ月。猶予はそれだけだ。それで花が咲かなければ、引っこ抜くしかない。構わんな?」

「ええ。……それでこそ、『彼女』の意思に応えるというものです」


如月はモニターに目を向けたまま、静かにそう答えた。

そこに映っているのは、まだ未完成の三人。

けれど彼の目には、その奥に、あの頃の『彼女』の笑顔が……

少しだけ重なって見えた。

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