第三話 誕生、『Liminal』!
その日は、梅雨の晴れ間だった。どこか白く霞んだ空の下、事務所の会議室には不釣り合いなほど張り詰めた空気が流れていた。
革靴の音が、カツン、カツンと床に響く。葛西智はドアを押し開けると、すでに中にいた三人の少女に目を向けた。
午前中のレッスンを終えた昼休憩の後。小さな丸テーブルを囲むように、三人の少女が並んで座っていた。
壁にかけられた時計の秒針が、不安を刻むようにチクチクと音を立てている。
七海、梓、紗良。
あの『眼鏡』のレッスンから、まだ二日しか経っていないというのに、彼女たちの立ち姿には微かながらも変化があった。
目線がわずかに上を向いている。
無意識に肩を張っていたものが、少しだけ落ち着いている。ほんの、僅かだが。
「揃ってるな」
短く声をかけながら、葛西は会議室の長机の先頭に腰を下ろす。資料や紙の束はない。ただテーブルの中央に置かれたA3の画用紙数枚と、赤や青のマジックペンが無造作に転がっていた。
「今日はお前達三人で、ユニット名を決めてもらう」
思っていたよりも静かな声でその言葉が発せられた瞬間、三人の視線がぴたりと中央に集まった。
『ユニット名を決める』。
葛西は、両腕を組んだまま立っていた。
彼の後ろから射すブラインド越しの光が、彼の眼鏡のレンズを白く反射させている。
「午後の課題は、先ずこれをやってもらう」
葛西は言った。
「今の時点でユニットとしての活動は正式決定していない。だが、名もないまま育てるのは、俺の気が済まない。旗を掲げたければ、自分達で名乗れ。それだけの話だ」
あの日のレッスン後、何かが少し変わった三人だった。
けれど、いざ名前を決めるとなると、それはまた別のハードルだった。
「名前……」
七海がサングラス越しに目を丸くし、困惑の色を浮かべながら口を開いた。
「私達が、ですか?」
梓も続いて問う。
黒髪を耳にかけながら、眼鏡の奥で鋭く葛西を見つめる。
「そうだ」
葛西は腕を組んだまま、彼女たちを順番に見渡した。
七海が、サングラスの奥の目を葛西に向ける。
「プロデューサーが決める訳じゃないんだ?」
「誰かに決められた名前じゃ、誇りにもならない。お前達自身が考るんだ」
「そんなこと言われても……正直、急かも」
梓が長い黒髪を指でくるりと巻きながら、ぼそっと呟く。
「ま、まあ、名前ぐらいなら……なんとかなる、んじゃないかな」
そして七海も心細げに頷いた。
「でも、やらなきゃいけないなら、やるしかないでしょ」
紗良が淡々と、冷たい目で言った。前髪の下から覗く右目が、今日も鋭い。
「わたし、センスないし……」
七海は肩をすくめ、困ったように笑った。
「いいじゃない、試しに好きな言葉とか出してみたら」
梓がペンを一本手に取り、さらさらと紙に書き始める。
「ふぅん……」
そして梓も、これを『やらなければならない仕事』と理解したのか、すでにテーブルの紙にいくつかの単語を書き始めていた。
丸眼鏡の奥で、目が活きている。
「名前を持つって事は、『誰』として世に出るかを自分で決めるという事だ。名乗るからには責任も生まれる。もうお前達は、ただの候補生じゃない。──旗を掲げる立場だ」
重い沈黙が訪れた。葛西はその沈黙を崩そうとはせず、ただ淡々と続けた。
「今日中に決めてくれ。それが午後の課題だ」
そう言って葛西は、我関せずとでも言う様にソファへ腰掛け、録画していた午前中のレッスンの様子を確認し始めた。
※ ※ ※
空気がさらに張り詰める。けれど、それは決して悪いものではなかった。
少なくとも、以前のように沈黙に押し潰されるようなことは、もうなかった。
「……とりあえず、好きな言葉でも挙げてみる?」
七海が苦笑しながら、サングラスを上にずらし、目元を見せる。
「そうね。書くだけ書いてみよう」
梓がうなずき、手にマジックを取ってさらさらと紙に書いた。
先ずは梓が、紙に書いた単語の一つを公開した──
『Prominence』
「……ぷ、プロ……せ?」
英単語の意味が分からなかったのか、七海が目をぱちくりさせる。
「プロミネンス。太陽の表面に現れる炎の柱の事。英語で『突出』とか『目立つ存在』って意味もあるよ」
少し得意げに、梓は丸眼鏡をクイッと押し上げた。
「悪くはないけど……ちょっと強すぎない?」
七海が首をかしげる。
「むぅ、弱いよりはマシじゃない?」
梓の声に、わずかに棘が含まれた。
「強すぎる名前は、期待値を上げるだけ。中身が伴ってなかったら嘲笑されるわよ」
紗良が冷ややかに切り返す。
「……じゃあ、紗良は何か案あるの?」
梓の問いに、紗良もまた紙に書いた単語を公開した。
「『Silhouette』──影。仮面っていうなら、仮面の裏にある
「お、重っ……」
七海が小さく呟いた。
「逆にいいんじゃない? そういうのも」
梓が苦笑しながらも、一応メモには加える。
「他には?」
「えっと……『Frontier』とかどう?」
七海が少し考えてから提案する。
声は小さくとも、その目は真っすぐだった。
「『
「未開拓地、か。確かにコンセプトにはなるけど、語感が強すぎるわね」
紗良はモノクル越しに視線を落とし、冷静に言葉を並べた。
「横文字じゃなくて、漢字系は?」
「な、なら『無色』とか? 色がないって、どんな色にも染まれるってことで」
「ちょっと待って、それ絶対グッズ売れないよ」
梓が呆れたように笑った。
「じゃあ『瞬間』は? 一瞬の輝きとか」
代わりの案を出してみるが、
「それだと儚すぎてすぐ消えそう」
紗良がそれを否定する。
「消えそうなのは紗良の感性じゃない?」
「な、なによそれ!」
梓の言葉に、紗良がピクリと眉を動かす。
「……それは言い方が悪いよ、梓ちゃん」
七海が割って入る。空気が、徐々に緊張を帯びていく。
「少し静かにしてくれる? 無駄に言い合っても名前は決まらないわ」
「無駄って言わないでよ。わたし、ちゃんと考えてるもん!」
「『ちゃん』付けの時点で思考が幼いのよ」
「う゛っ……」
「さすがにそれは言いすぎじゃない?」
口調は平静だが、少しだけ声音が鋭い。
「論理的に間違ってることは否定されるべきでしょ?」
その瞬間、空気がピリリと張り詰めた。
「ちょ、ちょっと、落ち着こうよ……!」
七海の声も届かず、梓と紗良は静かに睨み合う。
怒鳴り合いこそしないが、言葉は刃のように鋭くなっていた。
空気が、険しくなる。
葛西は一言も発さず、横目でじっと様子を見ていた。
あえて口を出さない。ぶつかるならぶつかればいい。
それもまた、チームになるために必要な過程だ。
やがて、静寂が訪れる。
そんな中──
七海がぽつりと、ぽつりと口を開いた。
「そ、それじゃあ……『リミナル』って、どうかな?」
二人が彼女の方を見る。
「『Liminal』。英語で、『境界にある』って意味、だったかな。誰かに聞いたことがあるの。昼と夜の間とか、大人と子どもの間とか、どっちにも属さない時間、空間、存在……」
二人が彼女の方を見る。七海はサングラスを外し、テーブルにそっと置いた。
あまり目を合わせようとはしないが、それでも真剣だった。
「わたし達って、今まさにその間にいる気がして。アイドルになりきれてないけど、夢に向かってる途中。仮面かぶって、誰かになろうとしてるけど、まだなれてない。……でもそれって、今しかない状態じゃない?」
静かだった。いつもなら何かしら返してくる紗良も、梓も、今回は何も言わなかった。
最初に口を開いたのは梓だった。
「悪くない。むしろ、すごくいい。境界……か。仮面をつけている私たちに似合ってる」
紗良も口を閉じたまま、目を伏せ──
「今の自分を言い当てられた気がする」
かすかに笑った。
「否定はしないわ。それ、仮面よりも『今の自分』に近いと思う」
七海は少し照れたように笑った。
葛西が目を細めた。
これは、誰かの押し付けではない。
三人の意志で選ばれた、初めての『錦の御旗』だった。
「……じゃあ、ユニット名、決まり?」
「『Liminal』──か」
梓が、さらさらとそれを紙に書いた。
白紙の中央に、たった一語だけのグループ名。
まだ色も、形も、決まっていない。けれど彼女達の『今』が詰まった言葉だった。
その瞬間、少し空気が和らぐ。
「ごめんね、さっき……」
「……私も。言いすぎた」
七海と紗良が、小さく言葉を交わし──
「でも、これからでしょ。私たち、始まったばっかりなんだから」
梓が、眼鏡の奥で柔らかく笑った。
「ふふっ」
「うん……!」
ようやく、三人の間に、言葉にならない笑いが生まれた。
葛西はそれを見届けてから、ようやく立ち上がる。
「決まったならそれでいい。今日からお前達は『Liminal』だ」
その背中は、いつも通りの冷静さを保ったまま。
けれど、彼の胸の奥では、静かに何かが灯っていた。
「ねえ、まだ時間あるよね?」
ユニット名が決まり、空気が和らいだあとで、七海がふいに顔を上げた。
「この後、他の予定って、特に入ってなかったよね?」
「うん……たしか空いてたはず」
梓がスケジュールアプリを確認しながら答える。
「だったら……この後もレッスン、やってみようよ」
七海はテーブルに両手をついて、ぐっと身を乗り出す。
「え、もう?」
梓が驚いたように眉を上げる。
「さっきまで名前決めて言い合ってたくせに、切り替え早いわね」
紗良が肩をすくめるが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「……でも、悪くないかも」
梓も静かに頷く。
「このまま終わるよりは、何かした方が『動いてる』って気がする」
「分かったわ。無駄な時間を過ごすより、よほど建設的だし、ね」
自然と立ち上がる三人。
名前が決まった瞬間、彼女たちの間にあった境界は、ほんの少しだけ融けたのだろう。
「スタジオC、空いているはずだ。俺が予約を入れておく」
それだけを言って葛西が会議室を出ると、背後から「ありがとうございます!」という声が重なって響いてきた。
新しい名前、『Liminal』。
それは、まだ見ぬ自分たちを呼ぶ、最初の言葉になった。
※ ※ ※
階段を下りる足取りは、少しだけ軽かった。革靴の音が、静かな事務所の廊下に一定のリズムで響く。
──Liminal。
彼女たちがその言葉を選んだとき、ふと胸の奥がざらりと揺れた。
境界という意味に、あの頃の記憶が重なったのだ。
かつての彼が知るアイドル。『Mio♪』。
彼女もまた、「今じゃないどこか」に立とうとしていた。
芸能界に半身を置きながら、もう半分はいつも葛西にだけ見せる素の顔を抱えていた。
舞台袖で怯えていたときも、カメラの前で微笑んだときも、どちらも彼女だった。
(あの頃の『答え合わせ』を、きっとまだ……)
そんな思考を途中で振り払い、彼は社長室のドアをノックした。
「どうぞ」
重く、ゆっくりとした声が返ってくる。
扉を開けると、西園寺秀嗣が窓際で煙草をくゆらせていた。昔ながらのガラス灰皿の上に、火のついたままの煙草が細く揺れている。
「ご報告を」
葛西は姿勢を正し、敬語に切り替える。
「ユニット名が決まりました。『Liminal』とのことです」
「ほぅ。Liminalか」
西園寺は煙を吐きながら、意味深に目を細めた。
「儂も初めてこの言葉を聞いた時は、若い頃の境目を思い出したものじゃよ。……あの子達が、選んだのか?」
「ええ。自分の押しつけじゃありません。意見はぶつかり合いましたが、それもまた前進だと」
「ふむ。……葛西、お前はどう思った? あの三人を見て」
問いは、いつも唐突に来る。
葛西は少しだけ考え、答えた。
「『自発』という言葉を、久しぶりに信じてもいいかもしれないと思いました」
「ほう……」
西園寺は微笑んだ。短いようで長い沈黙の後、再び口を開く。
「お前の『Mio♪』は、今日の彼女達のようだったか?」
その一言に、葛西の肩がわずかに揺れる。
「彼女は、もっと儚かった。けれど、強くなろうとしていました」
「ふむ。それで──今のLiminal達は?」
「……強さを、探そうとしている。今はまだそれでいいと思っています」
「よろしい。ならば任せよう。願わくば、あの子達
が『誰かのMio♪』になれたらいいな」
煙草の火が、ぱちりと落ちた。
葛西は会釈し、静かに部屋を後にする。
階段を上がっていく足音が、だんだんと小さくなっていった。
ちらりと覗いたスタジオの中では、梓がストレッチを始めていた。七海はそれを真似しながらも、サングラスをつけたまま笑っている。紗良は少し離れた位置でバレエの基本姿勢を取りながら、二人の動きを観察していた。
彼女たちはまだ知らない。
今日、この日──ようやく本当に、物語が始まったのだということを。
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