黒いドア

二ノ前はじめ@ninomaehajime

黒いドア

 通学路にドアが散りばめられていた。

 真っ黒に塗り潰された、長方形のドアである。児童をかたどった標識が立つ道路の周辺に数え切れないほど存在し、地面やブロック塀、マンションの外壁などを這いずっていた。本来は戸口に設置されるべきドアが、位置や向きなど規則性を無視して、真横や足元に見られた。

 一緒に登校する学童がくどうはランドセルをはずませながら、一切異変に気づいた様子はない。自分もそれにならい、ただし黒いドアを避けながら学校へ行った。

 初めは家の中だった。今にして思えば、何も知らなかったあのときが一番危険だったかもしれない。

 夜中にもよおし、一緒に寝ていた親の寝室から抜け出してお手洗いに行った。用を足し、フローリングの冷たい感触を足の裏に感じながら、両親の元へ戻ろうとした。違和感に眼球を引っ張られて、後ろを振り向いた。

 薄暗い廊下の向こうに玄関があり、静寂をたたえている。廊下かられる形で、二階へと上がる階段が続いていた。その側面には収納もなく、ただ白い壁があるだけだった。

 そこには黒く塗り潰されたドアがあった。

 ちょうど子供がくぐれそうな高さで、ドアノブもない。黒い模様ではなく戸口だと認識したのは、向こう側があると確信したからだった。未熟な好奇心で、そのドアの前に立った。

 耳を澄ます。ドアの反対側から、何かが爪を立てて引っいている。まるでこちらを誘っている気がした。ごく自然な仕草でドアの表面を叩こうとした。そのとき自分の名を呼ぶ母親の声が聞こえた。幼い息子がいないことに気づいたのだろう。

 意識がそちらに向き、返事をして戻っていく。ふと途中で振り返った。階段脇のドアが少し開いており、何者かの手が覗いていた。そのどす黒い指の節々ふしぶしは、ねじれていた。

 その日以降、どこにでも黒いドアが現われた。壁に直立していれば正常な方で、横倒しになったり、ときには地面や屋内の天井に出現した。明らかにおかしい光景に誰も言及せず、両親に訴えても子供の戯言ざれごとだと受け取られるだけだった。

 静かで孤独な戦いだった。早い段階からそのドアに触れてはならないことを理解していた。視界に映ってもつとめて無視をし、奇妙な戸口は時と場所を選ばず自分を誘った。

 国語の授業だった。教壇に立った担任が黒板にチョークを立てる音が小気味良く響く。同級生の朗読とともに眠気を誘った。頬杖をついて、漫然とノートに鉛筆の先を走らせていた。黒板から視線を落としたとき、肌が粟立あわだった。

 白いノートの片隅に、自らの手で黒い長方形を描いていた。落書きにも関わらず、黒いドアが軋みながら開こうとしており、勢い良くノートを閉じた。教室中にその音が響き、クラスの皆から注目された。担任から注意を受けた。

「授業中は静かにしなさい」

 その手に握られていた白いチョークが、黒板に不可解な長方形を描いていた。そのドアが小刻みに開閉し、笑い声を上げた。

 己にしか見えない現象は、少しずつ、確実に心を疲弊ひへいさせていった。誰にも相談できず、無視することしかできない。自分の部屋で就寝しゅうしんしようとしたとき、天井に黒いドアが張りついていた。その隙間から何かが覗いており、布団を頭からかぶった。一晩中、こちらを凝視する視線に耐えた。

 あの戸口は、けして急がなかった。謎めいた制約でもあるのか、こちらから開けようとしなければ無害だった。ただ根気強く、日常を侵食していった。

 むしろ黒いドアをくぐって向こうへ行ってしまえば、楽になるかもしれない。気の迷いが生じて、頭から振り払った。

 あのドアの先からは、けして戻ってこれない。



 クラスで頭のおかしい女が噂になっていた。

 自分の子供が行方不明になり、精神に異常をきたしたという。街中の至るところに出没し、壁に体当たりをしたり団太だんだを踏んでいた。子供ならではの安直なあだ名で「ぶつかり女」だとか「地団太女」と呼ばれていた。

 下校の際、その変人に遭遇した。己の影が伸びており、不自然な長方形が夕暮れの中に角ばった闇を作っている。通学路で髪を振り乱した女の人の影が動き回っていた。

「ぶつかり女だ」

 同じく帰宅途中の学童たちがささやき合い、距離を取って女を避けていく。彼女は子供たちの態度には目もくれなかった。ただ肩から塀にぶつかり、一人で影踏み鬼でもするかのように点々と地面を踏んでいる。

 ランドセルを担いだまま、その様子を眺めていた。目から知らず涙がこぼれていた。

 女の人がその身でぶつかっているのは、通学路に散らばった黒いドアだった。その戸口が隙間を覗かせると、靴の裏で踏んだり、肩で強引に閉じた。そういった行為を、何度も繰り返した。

 ああ、あの人にも見えているんだ。

 涙を拭い、歩き出した。他の児童たちと同じく距離を取ったりはせず、彼女の真横を通り過ぎた。やはり女性はがむしゃらに黒いドアを閉じている。

 傍目はためからは奇行を繰り返す彼女に、話しかける勇気はまだない。

 ただ自分は一人ではない。そう思うだけで、此方こちら側に踏みとどまれる気がした。

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