第5話:国語は「センス」ではなく、「パズル」だ
八月という名の長く暑いトンネル。その出口がようやく見え始めた頃、季節はまるで去り行く時間を惜しむかのように、最後の、そして最も激しい熱情を地上に注ぎ込んでいた。
連日降り注ぐ日差しの暴力的なまでの明るさは、視界に入るすべての輪郭を白く飛ばし、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。靴底を通して伝わってくる地熱は、まるで大地そのものが発熱しているかのような錯覚を覚えさせた。吸い込む空気は熱湯のように肺を焼き、肌に張り付くシャツの不快な重みが、現実感を奪っていく。
だが、そんな圧倒的な「夏」の支配下にあっても、ふとした瞬間に訪れる小さな綻びが、季節の変わり目を静かに告げていた。
これまで鼓膜を震わせるほどの音量で鳴り響いていたアブラゼミの油ギッシュな合唱は、いつの間にか鳴りを潜め、夕暮れ時になると、世界は別の音色に支配されるようになった。「カナカナカナ……」というヒグラシの鳴き声だ。その透明で、どこか金属的な響きは、茜色に染まる空気に溶け込み、聞く者の胸に正体不明の焦燥感と郷愁を呼び起こす。
ふと空を見上げれば、天蓋は以前よりも遥かに高く持ち上げられ、鮮やかな青の深みが増している。夏の象徴であった威圧的な入道雲のすぐ隣には、刷毛で掃いたような薄いすじ雲が流れ、秋の気配をその身にまとっていた。
夜の帳が下りると、あれほど寝苦しかった熱帯夜は影を潜め、窓から流れ込む風には、乾いた冷たさが混じり始めていた。それは、汗ばんだ首筋をひんやりと撫で、季節が確実に死と再生のサイクルを回していることを肌で感じさせた。
夏休みが明け、久しぶりに教室という閉鎖空間に戻ると、そこには奇妙な変化があった。
久しぶりに顔を合わせたクラスメイトたちは、一様にこんがりと小麦色に日焼けし、その表情には夏休み前にはなかった、ほんの少しだけ大人びた陰影が刻まれているように見えた。教室の空気には、久しぶりの再会による浮き足立った興奮と、気怠い残暑が入り混じった独特の匂いが充満している。
「よお、健太! お前、夏休み何してたんだ? 全然見かけなかったけど」
背後から、鈴木の大きな手が俺の肩を叩いた。振り返ると、サッカー部の合宿で真っ黒に焦げた鈴木の顔があり、白い歯だけが異様に輝いて見えた。彼の発する熱気と、制汗スプレーのシトラスの香りが鼻を突く。
俺は一瞬、言葉を選び、そして短く答えた。
「……修行だ」
「は? 何の?」
鈴木は眉をひそめ、怪訝な表情で俺の顔を覗き込んだ。その瞳には「こいつ、暑さで頭がやられたのか?」という純粋な懸念が浮かんでいる。無理もない。だが、もし彼が俺の部屋の惨状を目撃すれば、その懸念は戦慄へと変わるに違いない。
この夏、俺の部屋は変貌を遂げた。
四方の壁という壁は、日本史の全時代を網羅した巨大な相関図によって、完全に占拠されていた。模造紙を何枚も貼り合わせ、その上を色とりどりの付箋と、因果関係を示す矢印が埋め尽くしている。マジックインキの揮発性の匂いが染み付いたその部屋は、もはや受験生の勉強部屋というよりは、狂気的な執念で真理を追い求める捜査官の隠れ家か、あるいは新興宗教の祭壇のような、禍々しくも神聖なオーラを放っていた。
先日、洗濯物を取り込みに部屋に入ってきた母親は、壁一面を覆う歴史の濁流を目にした瞬間、息を呑んで立ち尽くした。そして、哀れみと恐怖が入り混じった複雑な眼差しを俺に向け、「もう……好きにしなさい……」と、諦観に満ちた言葉を残し、逃げるように去っていった。
夏休みの全てを費やした「修行」。その成果は、まだ偏差値という数値には現れていない。
だが、俺の内側では、地殻変動のような確かな変化が起きていた。
机に向かうことへの生理的な拒絶反応が消えた。
教科書を開いた時に感じていた、あの「異言語の羅列」を見るような眩暈がしなくなった。
文字が、意味を持った物語として、あるいは解かれるべき知的なパズルとして、有機的に結びついて見え始めたのだ。
それは、誰にも見えない、しかし、俺にとっては革命的とも言える変化だった。
二学期最初の実力テスト。
以前ならば処刑台に向かう囚人のような心境だったはずの日が、今は待ち遠しかった。自分の内側で研ぎ澄まされた刃を、早く試してみたい。生まれて初めて抱くその武者震いのような感情に、俺自身が一番戸惑っていた。
そして、運命のテスト週間が幕を開けた。
初日、英語。
スピーカーから流れるリスニング問題の音声。以前は「呪文」としか思えなかったその音の羅列が、驚くほどクリアに、意味のある音の塊として鼓膜を震わせた。ノイズ混じりの音声の向こう側にいる話者の息遣いすら感じ取れるようだ。「シャドーイング、マジすげえ……」。俺は心の中で、図書館の主である田村さんに深く合掌した。
二日目、数学。
配られた問題用紙に並ぶ、複雑な図形と数式。一瞬、喉の奥が引きつるような緊張が走る。だが、俺は焦らなかった。問題用紙の余白に、シャープペンシルで一つずつ、友達になったばかりの公式たちを書き出していく。芯が紙を走る「カツカツ」という硬質な音が、心地よいリズムを刻む。「大丈夫、お前たちの力、知ってるぜ」。彼らの持つ論理という名の「物語」を脳内で再生しながら、俺は一歩ずつ、正解へと続く論理の階段を上っていった。
三日目、社会。
歴史の問題を見た瞬間、俺の脳裏にインストールされた、あの壁一面の巨大相関図がフルカラーで展開された。まるでホログラムのように視界に浮かぶ矢印たちが、歴史の必然を指し示している。「この出来事の原因は、あれと、あれだな」。記憶の引き出しがスムーズに開き、答えが次々とペン先から溢れ出した。
確かな手応えがあった。
もちろん、全問正解などという奇跡は起きていない。分からない問題に冷や汗をかく場面もあった。
だが、夏休み前の俺のように、ただ呆然と時計の針が進むのを待ち、白紙の答案の前で無力感に打ちひしがれるだけの敗北ではなかった。
俺は、自分の手に入れた武器で、自分の頭で考え、確かに「戦って」いたのだ。その高揚感が、胸を熱くしていた。
だが、そんな俺のささやかな自信と希望を、粉々に打ち砕く最後の番人が、冷酷な笑みを浮かべて待ち構えていた。
その名は、「国語」。
とりわけ、現代文という名の魔物である。
試験開始のチャイムと共に問題用紙をめくると、そこには、どこかの大学教授が書いたらしい、見るからに難解な評論が二ページにわたってびっしりと印刷されていた。文字の密度が、物理的な圧迫感となって眼球を襲う。
テーマは「近代社会における自己疎外とコミュニケーションの変容」。
タイトルだけで、脳の血管が数本切れそうになる。睡魔と頭痛が同時に襲ってくるような文字列だ。
俺は眉間のしわを深め、なんとか文章を読み進めていった。文字の上を目が滑り、意味が頭に入ってこない焦りを必死に抑え込む。
そして、文章の山場を越えたあたりで、俺はその悪魔のような問いに遭遇した。
**問五。**
**『本文中の傍線部③「形容しがたい喪失感が、私の胸を締め付けた」とあるが、この時の筆者の気持ちを、三十字以内で具体的に説明しなさい』**
来た。
出たよ、これ。
最も忌み嫌うべき、「人の気持ちを当てさせる」エスパー能力判定テストだ。
だが、今回ばかりは違った。俺は一瞬ひるんだものの、すぐに口元を引き締めた。
よし、これも修行の成果を見せる時だ。
英語のシャドーイングで、俺は話者の感情をトレースし、同化する術を学んだ。歴史の学習では、数百年前に生きた偉人たちの葛藤や野望を追体験してきた。
つまり、今の俺は、ただの受験生ではない。共感力の塊。全方位型人間パワースポットと化しているのだ。
「よし、俺が筆者になる!」
俺は鉛筆を置き、目を閉じた。深く息を吸い込み、教室の空気を肺いっぱいに満たす。
俺は今、近代社会の冷たいコンクリートジャングルに生きる、孤独な知識人だ……。
行き交う人々は無機質な表情で、スマホの画面に流れる空虚な言葉だけを見つめている……。
誰とも繋がれない孤独。砂を噛むような虚しさ。
ああ、なんという喪失感……。胸が、張り裂けそうだ。
その瞬間、俺の脳髄で何かがスパークした。
詩的なインスピレーションが、天啓のように降り注ぐ。
俺は目を見開き、憑かれたようにペンを走らせた。黒鉛が紙に食い込む感触が、確信を深める。
**『現代社会の無機質な関係性への絶望と、失われた温もりへの郷愁が入り混じった、切ない気持ち。』**
書き終えた瞬間、俺は自分の回答に見惚れた。
どうだ。完璧じゃないか。
たった三十字という制限の中に、これほど深く、繊細で、文学的な心情を凝縮できる人間が、この教室に他にいるだろうか?
俺は、自分の内に眠っていた文才に打ち震えた。もしかしたら、俺の進むべき道は大学などではなく、詩人、あるいは小説家という茨の道なのかもしれない。
数日後。テスト返却の日。
俺は、祈るような気持ちで、震える手で答案の束を受け取った。
まず、英語。
点数はまだ平均点に届かない。だが、夏休み前から実に30点も上がっている。赤い数字が、輝いて見えた。
数学と社会も同様だった。
壊滅的だった偏差値のグラフが、深海から海面を目指して急浮上し、ようやく人間が呼吸できる領域まで達している。
「やった……! やったぞ!」
机の下で、拳を固く握りしめる。努力は裏切らない。その言葉は、単なる綺麗事ではなかったのだ。心臓が早鐘を打ち、喜びで指先が痺れる。
そして、最後に、国語の答案を裏返した。
そこに記されていた偏差値は、『32』。
時間が、止まった。
夏休み前と、何も変わっていない。いや、誤差の範囲で下がってさえいる。
歓喜で沸騰していた血液が、一瞬にして凍りつくのを感じた。
俺は、血の気が引く音を耳の奥で聞きながら、あの問五の解答欄に視線を落とした。
俺が魂を削り、詩人の感性でひねり出した、あの至高の解答。
その上には、担当のタナカ先生による、無慈悲で、かつ芸術的なまでに美しい、巨大な赤いバツ印が描かれていた。赤インクの冷徹な輝きが、俺の網膜を刺す。
そして、その横には、殴り書きのような字で、こう記されていた。
**『君の気持ちは分かった。筆者の気持ちを書け』**
頭を、巨大なハンマーで殴られたような衝撃だった。
俺の気持ち……?
違う、これは、俺が筆者になりきって、憑依レベルで書いた、筆者の気持ちのはずだ……!
視線を彷徨わせると、他の問題も散々だった。
「本文中から二十字で抜き出しなさい」という問題には、自分で考えた素晴らしい要約を書き込み、「筆者の主張と合致しないものを選びなさい」という問題では、あろうことか筆者の主張そのものを堂々と選んでいた。
答案用紙を持つ手が、微かに震える。
俺は、悟ってしまった。
ダメだ。国語だけは、もうどうしようもない。
英語や数学や社会には、明確な「やり方」があった。技術があり、理屈があった。努力を注ぎ込めば、器の水は増えた。
だが、国語は違う。
これは、「センス」だ。
生まれ持った、選ばれし者だけが持つ才能の世界なのだ。
文章を読み、行間に漂う見えない粒子を感じ取る力。それは、俺のような無骨な人間には、DNAレベルで備わっていないのだ。
これまで積み上げてきた自信の塔が、音を立てて崩れ落ちていく。深い絶望感が、足元から這い上がり、首を絞め上げてくる。
それは、最初にE判定を突きつけられた時のショックとは違う、もっと重く、粘着質な、質の悪い絶望だった。
その日の放課後、俺は抜け殻のような足取りで、図書館へと続く道を歩いていた。
校庭の桜並木からは、ハラリ、ハラリと枯れ葉が舞い落ちている。夏の間、あれほど生命力に溢れた濃い緑色を誇っていた葉は、いつの間にか黄色や茶色に朽ち、乾いた音を立てて地面を転がっていた。
見上げれば、空はどこまでも高く、残酷なほどに青く澄み渡っている。いわし雲が、空の広さを強調するようにうっすらと広がり、夕暮れの予感を孕んでいた。
頬を撫でる風は、もう熱を持っていなかった。ひんやりとした秋の空気が、シャツの袖口から入り込み、冷や汗で濡れた肌を冷たく刺激する。
秋だった。
世界は確実に移ろい、前に進んでいるのに、俺の国語力だけが、あの夏の暑さの中に置き去りにされている。
もはや俺にとって唯一の聖域となった図書館。
重い扉を開けると、古紙と床ワックスが混じり合った独特の匂いが鼻孔をくすぐった。
夕暮れのオレンジ色の光が、西側の大きな窓から差し込み、閲覧室の床に長い光の帯を作っている。その光の中で、無数の小さな埃が、黄金色の粒子となってキラキラと舞っていた。
静寂。時折聞こえるページをめくる音。
静かで、穏やかで、そしてどこか物悲しい、秋の図書館の空気がそこにあった。
俺は、いつものカウンターへ向かった。
そこには、文庫本に視線を落とす田村さんの姿があった。俺は、幽霊のような声で彼を呼び、力なく国語の答案を差し出した。
「……田村さん。俺、詩人にはなれないみたいです」
田村さんは本から顔を上げ、俺の死にそうな顔と、赤ペンで血まみれになった答案を交互に見た。そして、答案を受け取ると、俺が渾身の力で書いた問五の解答を、声に出して読み始めた。
「『現代社会の無機質な関係性への絶望と、失われた温もりへの郷愁が入り混じった、切ない気持ち』……ぷっ」
静寂な図書館に、不謹慎な音が響いた。田村さんは、こらえきれずに吹き出していた。
「くくく……こりゃ傑作だ! 素晴らしいな、兄ちゃん! その若さで、これほどのペーソスを表現できるとは! 芥川賞を目指せ。俺が最初のファンになってやる。……ただし、受験は諦めな」
その笑い声は、俺の傷口に塩を塗るように響いた。俺は、涙目で抗議した。
「笑いごとじゃありません……! 俺、もう本当に、国語は才能だって……」
「才能?」
その瞬間、田村さんの表情から笑いが消えた。鋭い眼光が、俺を射抜く。
「兄ちゃん、とんだ勘違いをしてるな。国語ほど、才能のいらない教科はないぞ」
「え……?」
予想外の言葉に、俺は呆然とした。
「国語はな、文学じゃない。法学だと思え」
「法学……? 法律の?」
「そうだ。裁判で、弁護士や検事が『私の勘では、こいつが犯人です!』とか『被告人の目を見て、悲しみを感じました!』なんて言ったら、どうなる? 即刻、法廷から叩き出されるだろ。必要なのは、証拠だ。誰が見ても文句のつけようのない、揺るぎない客観的な証拠だけだ。国語のテストも、それと全く同じだ」
田村さんは、指先で俺の答案を弾いた。
「本文という、唯一の『証拠物件』の中から、答えを見つけ出す。それだけだ。兄ちゃんのポエムは、証拠ゼロの、ただの妄想なんだよ」
田村さんは立ち上がり、いつものホワイトボードの前に俺を連れて行った。キュッ、キュッというマーカーの音が、静かな空間に響く。彼は短い評論の一節を書き出した。
「いいか、国語の文章ってのはな、筆者が読者を迷わせないように、たくさんのヒント、交通標識みたいなものを設置してくれてるんだ。まず、その標識を見つける訓練をする」
彼は、赤いキャップのペンを俺に渡した。プラスチックの冷たい感触が手に伝わる。
「文章の中にある、『しかし』『だが』みたいな逆接の言葉と、『つまり』『要するに』みたいな要約の言葉、そして、『なぜなら』『だから』みたいな因果関係の言葉。全部、丸で囲んでみろ」
俺は半信半疑のまま、言われるがままに文章の中の接続詞に丸をつけていった。
赤インクが、黒い文字の列に次々とアクセントをつけていく。
すると、どうだろう。
今まで、ただのっぺりとした文字の壁に見えていた文章に、突如として骨格のようなものが浮き上がり始めた。
「逆接の言葉の後には、筆者の『主張』が来ることが多い。『しかし』を見つけたら、その後を刮目して読め。要約の言葉の後には、その段落の『結論』が書かれている。因果関係の言葉は、文字通り、理由と結果を示している。これが、文章という設計図の、基本的な読み方だ」
田村さんの声は、いつになく熱を帯びていた。
「次に、筆者が本当に言いたい『主張』と、それを分かりやすく説明している『具体例』を区別する。例えば、『私は犬が好きだ。なぜなら、忠実で可愛いからだ。昨日も、うちのポチが、尻尾を振って出迎えてくれた』という文があったとする。筆者の主張は、『犬が好き』ってことだ。『ポチが可愛い』ってのは、そのための具体例に過ぎん。テストで問われるのは、ほとんどの場合、この『主張』の方だ」
主張と具体例。
接続詞という名の標識。
そして、答えは必ず本文中にあるという鉄則。
俺は、言われた通りのやり方で、もう一度、ホワイトボードの文章を読み解いていった。
脳内で、カチリ、カチリと音がするようだった。
あれほど曖昧で、掴みどころのなかった文章が、まるで精密に組まれたプラモデルのように、分解され、再構築されていく。
筆者がどこで意見を述べ、どこで例を挙げ、どこで話を転換させているのか。その構造が、手に取るように分かる。霧が晴れていくような感覚。
「……すげえ……パズルだ……」
俺は、感動のあまり、掠れた声で呟いていた。
「そうだろ?」
田村さんは、満足げにニヤリと笑った。
「白石さんみたいな、国語ができる奴らってのはな、このパズルを、無意識のうちに、光の速さで解いてるだけなんだよ。別に、筆者の気持ちが分かる超能力者でも、共感力の塊でもない。むしろ、その逆だ。誰よりも冷徹に、感情を排して、文章を論理のパーツとしてバラバラにしてる、外科医みたいなもんなのさ」
外科医。
その言葉は、俺の胸の奥にこびりついていた、最後の劣等感を粉々に打ち砕いた。
王葉高校の才女、白石さんの、あの涼しげな横顔が脳裏に浮かぶ。
あれは、俺にはない「感性」や「センス」の輝きではなかったのだ。
俺が感情の海で溺れ、勝手な妄想を膨らませている間に、彼女は冷静にメスを振るい、文章という名の患部を切り開き、論理という羅針盤を頼りに、正解というゴールへと進んでいたのだ。
それもまた、魔法ではなく、後天的に習得可能な「技術」だったのだ。
その夜、俺の部屋の灯りは、いつまでも消えなかった。
窓の外では、秋の虫たちがリンリンと涼やかな音色を奏で、心地よいBGMのように響いている。
俺は机に向かい、赤ペンを片手に、国語の教科書に没頭していた。
手元を照らすデスクライトの光の中で、俺はまるで名探偵が難解な暗号文を解読するように、あるいは外科医が慎重にオペを進めるように、文章と対峙していた。
「なるほど……『しかし』の後に、筆者の本音が隠されてるな……」
「この長い段落は、結局、前の文の具体例ってことか。括弧でくくってしまえ」
「この指示語の『それ』が指しているのは、前の文の……これだ!」
一つ、また一つと、パズルのピースが「パチン」とはまっていくような快感。
それは、これまで味わったことのない、背筋がゾクゾクするような知的な興奮だった。
国語は、センスを競う、曖昧で理不尽な科目ではなかった。
文章というフィールドに隠されたルールとヒントを見つけ出し、論理の糸をたぐり寄せる、スリリングで、最高に面白い、知的なゲームだったのだ。
ふと顔を上げると、壁の日本史相関図が目に入った。
そして机の上には、数式が書き込まれた数学のノートと、単語帳。
英語、数学、社会、そして、国語。
全ての教科に、光が見えた。
まるで、長く濃い霧に覆われていた視界が、一気に晴れ渡り、地平線まで見通せるようになったかのような爽快感。
もちろん、道はまだ遠い。
王葉高校という頂は、遥か彼方、雲の上にある。
だが、もう俺は、丸腰ではない。
地図を持ち、コンパスを持ち、戦い方を知っている。
もう、道に迷うことも、暗闇に怯えることもないだろう。
俺は大きく伸びをし、肺いっぱいに夜の冷たい空気を吸い込んだ。
その空気は、今までで一番美味しく感じられた。
俺の長い戦いは、ようやく、本当の意味で始まったのかもしれない。
秋の夜は、静かに、そして深く、更けていった。
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