第6話:失われた時間と「今、この手札で」戦う覚悟

十月。

世界は、まるで腕利きの画家がパレットの色をゆっくりと、しかし確実に塗り替えていくように、その装いを鮮やかに改めつつあった。


あれほど暴力的なまでの生命力に満ち溢れ、視界を深い緑で埋め尽くしていた木々は、朝夕の冷気にあてられるたびに、少しずつ、また少しずつ、その身に黄や赤の絵の具を滲ませていった。乾いた風が梢を揺らすたびに、カサカサという乾いた音が鼓膜を小さく叩き、命を終えた葉が、はらはらと頼りなげにアスファルトへと舞い落ちる。その光景は、一つの季節の終わりと、厳しい季節の始まりを静かに、けれど雄弁に物語っていた。


空気はどこまでも澄み渡り、見上げた空は吸い込まれそうなほど高く、突き抜けるような群青色を湛えている。その圧倒的な青さに目が眩み、ふと視線を足元へと落とせば、夏の間は鬱蒼と茂り、歩行者の行く手を阻むほどだった道端の雑草たちも、今はすっかりと勢いを失い、水分を失って茶色く変色した穂先を、力なく風に預けて揺れているだけだった。


制服の衣替えも済んだ。肌に張り付くような湿気を孕んだ夏用の半袖カッターシャツから、厚手の生地で作られたブレザーへ。少し肌寒い朝、まだ冷たい袖の中に腕を通す瞬間の、あの独特の摩擦と重みが、皮膚感覚として「夏」の完全な死と、「秋」の到来を告げていた。


どこからともなく、甘く、鼻腔の奥をくすぐるような芳香が漂ってくる。金木犀だ。

濃厚で、それでいてどこか胸を締め付けるような切なさを孕んだ、秋そのものを煮詰めたような香り。この香りを吸い込むと、肺の中がオレンジ色に染まるような錯覚を覚え、理由もなく胸の奥がきゅっと収縮するのを、俺は不思議な心地で味わっていた。


夏休みという、長く苦しい、しかし充実していた修行の期間を経て、俺の勉強は、錆びついた歯車が油を差されて滑らかに回り出すように、完全に軌道に乗っていた。


英語のシャドーイングは、もはや義務感によって行われるものではなく、朝起きて顔を洗い、夜寝る前に歯を磨くのと同等の、無意識の習慣として肉体に刻み込まれていた。口を動かし、耳で捉えた音を即座に再現するその一連の動作は、呼吸をするように自然なものとなっていた。

数学の問題と対峙する時間は、かつての苦痛に満ちた格闘ではなく、気心の知れた友人との知的な対話へと変化していた。数式が語り掛けてくる論理の道筋が、以前よりもはっきりと見える。

壁一面を埋め尽くした歴史の相関図は、新たな知識というピースが埋まるたびに複雑な矢印が追加され、黒と赤のインクが織りなすその様相は、もはや狂気と情熱が入り混じった現代アートの域に達していると言っても過言ではなかった。

国語の現代文に至っては、筆者の主張と論理構造を、まるで冷徹な外科医がメスを入れて患部を特定するように、冷静かつ的確に分解し、骨格を浮き彫りにすることができるようになっていた。


そして、その積み重ねた日々の真価を問う審判の日。

二学期の中間テストの結果と、秋の全国模試の成績表が、同時に返却されるその日がやってきた。


放課後の教室は、いつもとは違う種類の熱気を孕んでざわついていた。

テスト返し特有の、期待と不安、歓喜と落胆が入り混じった、落ち着かない空気。チョークの粉が舞う埃っぽい匂いと、誰かがつけた制汗剤の香りが混じり合う中、俺は自分の席で、意外なほど凪いだ心持ちで座っていた。


もちろん、心臓は肋骨の裏側でいつもより速いリズムを刻んでいる。緊張していないと言えば嘘になる。指先は微かに冷たく、掌にはじっとりと汗が滲んでいる。

だが、夏休み前の、ただ無力感に打ちひしがれ、神に祈ることしかできなかったあの頃の俺とは、決定的に何かが違っていた。

俺には、戦ってきたという自負があった。眠気と戦い、誘惑を断ち切り、机に向かい続けてきたという事実が、背骨を一本通すように、ささやかな、しかし確かな自信となって俺を支えていた。


「次、佐々木!」


担任のタナカ先生の野太い声が鼓膜を震わせる。俺は椅子を引く音を立てて立ち上がり、教壇へと向かった。渡された答案用紙の束と、封筒に入った模試の結果。その紙の重みが、ずしりと手に伝わる。

自分の席に戻り、俺は深呼吸を一つした。肺の中の空気をすべて入れ替えるように長く息を吐き出し、ゆっくりと、一枚目の答案をめくった。


まずは、数学。

視界に飛び込んできたのは、赤いインクで書かれた数字。


『72』。


そして、その横に小さく添えられた『偏差値58』の文字。


「おっ……!」


喉の奥から、抑えきれない声が漏れた。

夏休み前、30点台という深海のような場所を彷徨っていたのが、まるで前世の記憶のように遠く感じられる。無機質な数字と記号の羅列でしかなかった公式たちが、今では確かな意味を持って俺に微笑みかけてくれているようだった。その数字は、俺と数学との間に芽生えた友情が、偽りではないことの証明だった。


はやる気持ちを抑えながら、次に、社会の答案をめくる。

『85』。

偏差値換算でEランク、数値にして65。


「うおっ……!」


相関図探偵、名推理。

壁に貼り付けたあの巨大な紙の上で、歴史上の人物たちが繰り広げたドラマが、確かな映像となって俺の脳内に焼き付いている。インクの染みでしかなかった年号と出来事が、一本の太い川のような流れとなって、俺の中に定着していたのだ。


そして、英語。

『68』。

偏差値56。


裏切らなかった。毎日のあの単調なシャドーイングは、決して俺を裏切らなかった。リスニング問題の音声が、以前のような雑音ではなく、意味を持った言語としてクリアに鼓膜を叩いた時の快感。

国語も、前回は赤点スレスレという崖っぷちに立っていたが、なんとか平均点近くまで這い上がっている。


「おい健太、すげえじゃん! どうしたんだよ急に!」


隣の席の鈴木が、身を乗り出して俺の答案を覗き込み、素っ頓狂な声を上げた。その瞳には、純粋な驚きが見て取れる。


「ふっ……まあな。俺も、そろそろ本気を出す頃かと思ってな」


俺は、努めて冷静さを装いながら、口の端を吊り上げた。生まれて初めて、勉強の成果で胸を張るという経験をした。鼻の穴が、誇らしげに膨らむのを感じる。

周囲のクラスメイトたちも、鈴木の声に反応してこちらを見ている。「あの佐々木が?」「何か悪いものでも食ったのか?」そんな、驚きと疑念が入り混じった視線。

以前なら居心地の悪さを感じていただろうその視線が、今はたまらなく心地よかった。むしろ、もっと見てくれとさえ思った。


やった。

やったんだ。


俺のやり方は、間違っていなかった。

図書館で出会った師匠、田村さんが授けてくれた技術は、本物だったんだ。

この調子で登り続ければ、あの雲の上の存在だった「王葉高校」も、夢物語ではなく、手の届く現実になるかもしれない。

俺の心は、荒れ果てた荒野に久しぶりに朝日が差し込んだように、明るく温かい希望で満たされていた。


そして、高揚した気分のまま、最後に残された封筒を開封した。

秋の全国模試、総合結果。

A4サイズの、薄っぺらい一枚の紙。そこに、俺の運命が記されている。


視線が、紙面を滑る。


『総合偏差値:48』


夏前の38から、実に10ポイントの上昇。

通常ならあり得ない、驚異的な伸び率だ。素晴らしい結果だと言っていい。

俺は、達成感に酔いしれ、笑みを浮かべたまま、視線をさらに下へとスライドさせた。志望校判定欄へ。


その文字を、網膜が捉えた瞬間。


俺の心臓は、熱湯から氷水へと一瞬で叩き込まれたように、急速に冷え固まった。

全身の血液が、重力に従って足元へと抜け落ちていくような感覚。


『第一志望校:王葉高校 判定:E』


E。

Exempt(免除)でも、Excellent(優秀)でもない。

合格可能性20%未満を示す、絶望のE。


まだ、E判定だった。

あれほど血の滲むような努力をしたのに? 睡眠時間を削り、娯楽を捨て、すべてを捧げたのに?

夏の前と、判定のアルファベットは一文字たりとも変わっていない。


なぜだ? こんなに偏差値が上がったのに?


俺は、混乱する頭で、視線を彷徨わせた。そして、紙の隅に小さく記載された、残酷なデータを見つけた。


『王葉高校 合格者平均偏差値:72』


72。


今の俺の偏差値は、48。


その差、24。


数字は、感情を持たない。だからこそ、残酷なまでに真実を突きつける。

俺の脳は、恐怖に麻痺しかけながらも、勝手に計算を始めてしまった。

夏休みからの約三ヶ月で、俺は偏差値を10上げた。これは奇跡的なスピードだ。

だが、この先も同じペースで上げ続けられる保証などどこにもない。むしろ、偏差値は上がれば上がるほど、そこから伸ばすのは困難になるのが常識だ。


仮に、奇跡が続いたとして。

次の三ヶ月で、偏差値は58になる。

そして、受験本番の二月。そこからさらに三ヶ月もない。

どんなに楽観的に、希望的観測を積み重ねて見積もっても、偏差値は65に届くかどうか……。


72には、届かない。

到底、届かない。


その計算結果が、俺の頭の中に、冷徹な電光掲示板のように点滅した。


なんだよ、それ。

なんだよ、それ……!


俺は、この数ヶ月間、全力疾走してきたつもりだった。誰よりも速く、誰よりも必死に。

だが、俺が肺を焼きつかせながら走っている間に、合格ラインというゴールテープもまた、同じくらいの速度で、遥か彼方へと遠ざかっていたのだ。


原因は、分かっていた。分かっていたくなかったが、分かっていた。

俺が、中学一年、二年の、そして三年の一学期まで、完全に勉強を放棄し、怠惰な日々に甘え続けていたからだ。

その二年半という、あまりにも長すぎる空白の時間が、今になって巨大な「負債」となってのしかかり、俺の足首に重い鉄球のようにまとわりついている。


俺は、他の受験生がスタートラインに立っている時、スタートラインの遥か後方、マイナス百、いや、マイナス千の地点から走り始めたに過ぎなかったのだ。


「失われた時間は、取り戻せない」


その、あまりにも当たり前で、使い古された言葉が、これまで聞いたどんな言葉よりも重く、鋭利な刃物となって、俺の無防備な胸を深く抉った。


教室の喧騒が、急に遠ざかっていく。

隣で鈴木が何か話しかけてきている。口が動いているのは見える。だが、その声は、分厚いガラス越しに聞いているように、あるいは深い水底にいるように、くぐもって聞こえ、意味をなさなかった。


大丈夫だ。まだ、時間はある。

やり方次第で、ここから爆発的に伸びるかもしれない。ドラマや漫画なら、ここから逆転劇が始まるはずだ。


そう、理性が必死に自分に言い聞かせようとする。

だが、心の奥底、本能に近い部分で、冷たく、乾いた声が囁いていた。


『もう、手遅れなんじゃないか?』



その日は、どうやって学校を出て、どうやって家に帰り着いたのか、記憶が定かではない。

ただ、いつも見慣れているはずの通学路の風景が、色を失ったモノクローム映画のように、ひどく色褪せて見えたことだけを覚えている。すれ違う人々の話し声も、車の走行音も、すべてが他人事のように通り過ぎていった。


自分の部屋に入り、背後でドアを閉めた瞬間。

俺の中で、今日一日、いや、この数ヶ月間ピンと張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れるのを感じた。


膝から力が抜け、ドサリ、とベッドに倒れ込む。スプリングが軋み、身体が沈み込む。

視線を上げると、目の前の壁には、俺がこの夏、情熱のすべてを、魂のすべてを注ぎ込んで作り上げた、巨大な歴史の相関図が広がっていた。

机の上には、使い込んで角が丸くなり、手垢で薄汚れた教科書や、文字で埋め尽くされたノートの山が積まれている。


これらは、俺の誇りだった。俺の努力の結晶であり、俺が確かに前に進んでいるという、輝かしい軌跡のはずだった。


なのに。

なのに、ゴールは、絶望的に遠い。

手を伸ばしても、伸ばしても、指先さえかすらない。


「……なんだよ、これ……」


乾いた唇から、声が漏れた。それは自分の声ではないように、ひどく弱々しく響いた。


「ふざけんなよ……!」


腹の底から、マグマのように熱いものが込み上げてくる。それは怒りにも似た、しかしもっとドロドロとした、やり場のない感情だった。

誰に怒っているのかも分からない。サボり続け、時間をドブに捨ててきた過去の愚かな自分か。E判定という残酷な現実を冷酷に突きつける、模試の結果か。それとも、身の程も知らずに無責任な希望を抱いてしまった、今の自分か。


俺は、手の中に握りしめていた模試の結果用紙を、ぐしゃりと握りつぶした。硬い紙が悲鳴のような音を立てて歪む。

壁の相関図を、爪で引き裂いてしまいたいという破壊衝動に駆られた。このノートも、教科書も、全部、ライターの火で燃やして灰にしてしまいたい。


だって、こんなにやっても、意味がないのかもしれないじゃないか。

報われない努力ほど、虚しく、惨めなものはない。

「努力は裏切らない」なんて言葉は、成功者が後付けで語る綺麗事だ。現実は、努力したって、届かないものは届かない。


目の奥が、じんと熱くなる。視界が急速に滲み、ぐにゃりと歪んだ。


「う……っく……」


情けない声が、喉の奥から漏れる。一度堰を切った涙は止まることを知らず、次から次へと熱い雫となって溢れ出し、枕に黒い染みを作っていく。

悔しかった。ただ、ひたすらに、どうしようもなく悔しかった。


もっと早くから始めていれば。

中一の頃、あんなにゲームばかりしていなければ。授業中、寝てばかりいなければ。

そんな、今更どうにもならない「もしも」が、毒のように心を蝕み、思考を腐らせていく。


俺は、部屋の隅で膝を抱え、まるで迷子になった子供のように、声を上げて泣いた。



それからの数日間、俺は魂の抜けた抜け殻のようになっていた。

勉強は、全く手につかなかった。

習慣化していたはずのシャドーイングも、数学の問題も、一切やる気が起きない。机に向かい、ノートを開こうとするだけで、あの「偏差値72」という数字が巨大な黒い壁となって目の前に立ちはだかり、全ての思考を強制的にシャットダウンさせてしまうのだ。


壁の相関図を見るのが、辛かった。かつては輝いて見えたその図が、今は「お前の努力は無駄だ」と嘲笑う、俺の愚かさの記念碑のように見えた。


そんなある日の放課後だった。

朝から空は重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、昼過ぎからは、冷たい秋の雨が、世界を濡らすようにしとしとと降り始めていた。


俺は、傘もささずに、雨の中をとぼとぼと歩いていた。

制服のブレザーが、雨水を吸ってじっとりと重くなり、肩に食い込む。冷たい雫が髪を伝い、首筋に入り込む不快感。頬を伝って落ちるのが、雨なのか、涙なのか、自分でももう分からなかった。ただ、身体の冷たさが、心の寒さと同期しているようで、妙に心地よかった。


足は、無意識のうちに、あの場所へと向かっていた。


市立図書館。


雨に濡れたガラス張りの建物は、灰色の空の下で、いつもより静寂を纏い、ひっそりとして見えた。まるで、世間から見捨てられた者たちが集うシェルターのように。


自動ドアを抜けて中に入ると、雨の日の図書館特有の匂いがした。湿ったコンクリート、古びた紙の香り、埃、そして静寂そのものの匂い。

空調の音が微かに響く中、俺は学習室へと向かった。窓からは、雨に煙る街並みが見える。行き交う車のヘッドライトが、濡れたアスファルトに反射して、滲んだ光の尾を引いている。


俺は、カウンターの隅で、難しい顔をして将棋盤を睨んでいる男の背中を見つけた。

田村さんだ。

対局相手はいない。どうやら、一人で盤面と向き合い、脳内で激しい攻防を繰り広げているらしい。


俺が近づくと、気配を感じたのか、田村さんは顔を上げた。

水浸しの制服、乱れた髪、そして死んだような目をした俺の姿を認めると、彼は眉一つ動かさず、「よう」とだけ短く言って、すぐに視線を将棋盤に戻した。


俺は、何も言えなかった。

口を開けば、嗚咽が漏れそうだった。ただ、その場に、雨に濡れて震える捨て犬のように、立ち尽くすことしかできなかった。


駒を打つ、パチリ、という乾いた音だけが響く。

しばらくして、田村さんは、ふう、と深く息を吐くと、おもむろに立ち上がった。

そして、入り口にある自動販売機へと歩いていき、小銭を入れてボタンを押した。ガタン、ガタン、と二つの音がする。


戻ってきた彼は、温かい缶ココアを二つ持っていた。その一つを、俺の顔も見ずに無造作に差し出した。


「……まあ、飲めや」


俺は、差し出された缶を、震える両手で受け取った。

スチール缶の熱が、雨で冷え切ってかじかんだ指先に、じんわりと、痛いほどに染み渡る。その温もりが、凍り付いていた感情を少しずつ溶かしていくようだった。


休憩スペースの長椅子に、二人で並んで座る。

ガラス越しに、雨がザーザーと音を立てて降り続いているのが見える。世界から切り離されたような、二人だけの空間。沈黙が、重く、しかし優しく流れる。


俺は、プルタブを開け、甘いココアを一口飲んだ。温かい液体が喉を通り、胃袋へと落ちていく感覚。


「……田村さん」


俺は、視線を床に落としたまま、ぽつり、と呟いた。


「俺、頑張ったんです。夏休み、死ぬ気でやったんです。点数も、偏差値も、上がったんです。でも……」


言葉が詰まる。喉の奥に、硬い塊があるみたいだ。


「でも、全然、足りないんです。時間が、足りないんです。今まで、サボってきたツケは……もう、どうやっても、払えないんですか……?」


声が、震えていた。情けないほどに。

田村さんは、自分のココアを一口すすると、天井を仰ぎ、独り言のように静かに言った。


「その通りだ」


え?

俺は弾かれたように顔を上げた。

否定してくれると思った。「そんなことない」と励ましてくれると期待していた。


「過去は、変えられない。お前が失った二年半という時間は、どんな大金を積んでも、どんなに泣き叫んでも、二度と戻ってこない。それは、神様でも覆せない、絶対的な物理法則であり、事実だ」


安易な慰めは、そこには一片もなかった。

ただ、鋭利な刃物のような、冷徹なまでの現実の肯定だけがあった。

俺の心は、さらに深く、光の届かない冷たい水底へと沈んでいくようだった。最後の希望の糸を断ち切られたような気分だった。


だが、田村さんは、言葉を切らなかった。


「だがな、兄ちゃん」


彼は、ゆっくりと首を巡らせ、初めて、まっすぐに俺の目を見た。

その瞳は、いつも見せる気の抜けたようなものではなく、射貫くような、鋭く、真剣な光を宿していた。


「過去を悔やんで、今日、机に向かうのをやめたとする。明日も、明後日も、絶望して勉強をやめたとする。……そうやって数ヶ月後、入試が終わった未来のお前は、今の、今日の、このお前のことを、どう思うだろうな」


「……」


「きっと、こう思うぜ。『なんであの時、諦めちまったんだ』ってな。今日この日のことを、人生最大の過ちみたいに、死ぬほど後悔するんじゃないか?」


田村さんの言葉が、一つ一つ、重い礫(つぶて)となって胸に突き刺さる。痛い。けれど、その痛みは、どこか熱を帯びていた。


「未来も、まだない。お前が王葉に合格するかどうかなんて、未来のことは誰にも分からない。神様だって分かりゃしないんだ。不確定な未来のことを心配して、恐怖して、今を疎かにするのは、一番意味のない、愚かなことだ」


「……」


「いいか、よく聞け。お前に、俺に、人間にコントロールできるのは、いつだって、『今、この瞬間』だけなんだ。変えられない過去でも、まだ来ない未来でもない。今、ここにある時間だけだ」


田村さんは、俺の足元を指差した。


「今のお前の手札を見てみろ。そこには、偏差値48の、数ヶ月前よりずっと強くなったお前がいる。英語の戦い方も、数学の戦い方も、社会も、国語も、武器を持ったお前がいる。偏差値38で、丸腰で、ただ怯えていた頃のお前とは、別人だ」


そして、彼は、力強く、俺の魂を揺さぶるように言った。


「その手札で、今、何ができる? この一分、一秒で、お前ができる最善の一手は、なんだ? それを考えろ。考えるべきは、それだけだ」


その言葉を聞いた瞬間。

俺の中で、何かが、音を立てて決壊した。


これまで、必死で歯を食いしばって堪えていたものが、ダムが決壊したように一気に溢れ出してきた。


「う……っ、うわあああああん……!」


俺は、人目もはばからず、赤ん坊のように顔を歪めて泣きじゃくった。

図書館の静寂を破る、みっともない泣き声。

それは、悔し涙だった。自分の甘さを、時間を無駄にした過去の自分を、心の底から恥じる涙だった。

そして同時に、絶望という名の暗闇の淵で、それでも進むべき道を、ほんの少しだけ照らしてもらったことへの、感謝の涙だった。


田村さんは、もう何も言わなかった。

ただ黙って、震える俺の背中を、大きく無骨な手で、ごしごしと、不器用に、しかし力強くさすってくれていた。その掌の熱さが、シャツ越しに伝わり、俺の芯にある氷を溶かしていった。


どれくらい、そうしていただろうか。

俺が泣き止み、鼻をすする音だけが残る頃には、図書館の外はすっかりと夜の帳に包まれていた。

窓の外を見ると、いつの間にか雨は上がっていた。


「……すいませんでした」


掠れた声で謝る俺に、田村さんはニカっと笑いかけた。


「いいや。男の涙は、魂の汗だからな。デトックス完了ってとこだろ」


いつもの、ふざけたような笑顔だった。


図書館を出ると、雨上がりの、洗い立てのような夜気が肌を撫でた。

空気は、塵や埃がすべて雨に流されたせいで、驚くほど澄み切っている。濡れたアスファルトが街灯の光を反射して、まるで宝石を散りばめたようにキラキラと輝いている。

俺は大きく息を吸い込んだ。雨の匂いと、土の匂い、そして微かに冬の気配を含んだ冷たい空気が、泣き晴らして熱を持った目元と、肺の奥を心地よく冷やしてくれる。


空を見上げると、厚く垂れ込めていた雲の切れ間から、白く輝く半月が顔を覗かせていた。その光は、冷たく、しかし優しく、俺たちを照らしていた。


俺の心も、あの空と同じように、少しだけ雲が晴れたような気がした。不安が消えたわけではない。E判定が覆ったわけでもない。

けれど、足元の霧は晴れていた。


家に帰り、自分の部屋に入った俺は、改めて壁を見上げた。

巨大な、歴史の相関図。

引き裂こうとした、俺の努力の証。

使い古された、ノートの山。


これらは、無駄じゃなかった。

今の俺を、偏差値48の、武器を持った戦える俺を作ってくれた、確かな軌跡だ。


俺は、ゆっくりと、机の椅子に座った。

お尻に感じる硬い座面の感触。机の上のライトをつける。パチリ、というスイッチの音が、これからの戦いのゴングのように響いた。


合否じゃない。

未来がどうなるかでも、過去がどうだったかでもない。


「今」という、この瞬間。

この一秒に、俺にできることを、やるだけだ。


将棋盤の上で、最善の一手を打ち続けるように。


俺は、新しいノートを取り出し、その真っ白な最初のページを開いた。

シャープペンの芯を出す、カチ、カチ、という音が、静かな部屋に響く。


彼の、俺の受験勉強は、ここから、本当の意味での第二章の幕を開ける。


それは、もう、ただ単に志望校に合格するためだけの戦いではなかった。

過去の自分と決別し、

未来の自分に胸を張って会うための、

長く、苦しく、そして誇り高い戦いの始まりだった。


秋の夜は、静かに、深く、更けていった。

ペンを走らせる音だけが、いつまでも部屋に響いていた。

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