第三章 手の中のサイコロ

 その夜、凪は眠れなかった。


 眠ろうと目を閉じるたびに、サイコロが跳ねる音が脳内で響いた。透明なキューブ、無数の面、重力を無視して跳ねる角の感触──


 カラ……ン。


 意識の奥で、それは確かに“存在”していた。


 ベッドの上で凪は目を開けた。天井のシミが、自分を見下ろしている気がする。


(他人だけじゃない……)


(……じゃあ、俺も?)


 思い返す。あの時、あの瞬間。

 面接をドタキャンした日。駅のホームで急に怖くなって引き返した日。右手の怪我をした日。

 それらすべてに、“あの音”が潜んでいた気がする。


 だが気のせいと思っていた。選んだのは自分だと思っていた。

 けれど──


「……もし全部、俺の“出目”だったら?」


 その瞬間、右手が勝手に動いた。


 何も考えず、何も持たず、それでも手は“振る動作”をしていた。

 空中に向かって、誰に教えられたわけでもなく、まるでずっと前からの癖のように。


 ──カラ……ン。


 音がした。明確に、耳の外側で。


 凪はその場に座り込んだ。目の焦点が合わない。


 涙ではない。けれど、心が濁っていく。何かが壊れていく。


(俺が……)


(俺が決めたんじゃなかった……)


 ベランダに出る。夜の街は静かだった。自販機の明かりと、遠くで鳴く犬の声。

 その中に、聞こえる。


 ──カラ……ン。


 歩いている人の誰かが振った。今、確かに誰かが“何かに従って”歩いた。

 そう見える。そうしか思えない。


 凪の膝が笑った。立っていられない。


(人生って……そんなもんだったのかよ……)


(努力しても、計画立てても、全部……)


 口の中が乾ききっていた。笑いが漏れる。


 自分の人生を台無しにしたのは、自分じゃなかったのかもしれない──

 でも、それは救いなんかじゃなかった。

 むしろ絶望だった。


 もし“自分の意志”なんて存在しないなら、何を信じて歩けばいい?


 その夜、凪は初めて「この世界に存在してはいけない」と思った。

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