第四章 観察者の視点

 昼間なのに、街は妙に静かだった。


 子どもの声も、自転車のベルも、遠くの工事の音も、すべてがくぐもっていた。まるで、音が世界の奥に沈んでいくようだった。


 凪は、駅前の広場にいた。ベンチに座り、缶コーヒーを手にしているが、飲む気にはなれなかった。


 地面に落ちる葉の一枚すらも、サイコロの出目で落ちたように思えた。


 誰かが笑う。

 誰かが泣く。

 誰かが立ち止まり、誰かが歩き出す。


 その一つひとつの行動の後ろで、サイコロが転がっているのが見える。


 ──カラ……ン。


(何もかも、そう見える)


(……狂ってるのは俺か、それとも世界か)


 缶をゴミ箱に捨てようとした時だった。

 隣のベンチから、静かな声が聞こえた。


「見えてるんだな、君にも」


 振り返ると、老人が座っていた。


 無地の帽子を目深にかぶり、手には木製の杖。年齢は七十を超えているようだったが、背筋は伸びていた。


「……何の話ですか」


 凪はとっさにごまかした。だが老人は、ゆっくり首を振る。


「サイコロの音だ。

 カラ……ン、とな。あれは……見える者にしか見えん」


 心臓が一瞬止まる。


(……こいつ、見えてるのか)


 凪が何も答えられずにいると、老人はベンチから立ち上がり、広場の奥へと歩き出した。


 そして一言、背中越しに言った。


「ついてくるといい。話せるのは、君ぐらいだからな」


 


 ◇


 


 二人が入ったのは、駅近くの古びた喫茶店だった。


 古レコードが流れるその店内で、老人はホットコーヒーを頼み、凪は何も注文しなかった。


「……あんた、本当に見えてるのか」


「見えるさ。もう二十年近くになる」


「そんな前から……」


「正確に言えば、見える“ようになった”。君もそうだろう」


 凪は頷いた。


「きっかけは、特にない。ただ、ある日から急に──だろう?」


「……ああ」


 老人は指でカップの縁をなぞりながら、静かに語った。


「人間の行動なんて、ほとんど運で決まってる。

 性格、育ち、出会い、事故、衝動、選択。全部“出目”だ」


「それを……知って、どうするんだよ」


「何もできんよ。

 だが、“見える”ということは、“世界を少しだけ外側から見ている”ということだ」


 凪は、喉の奥が詰まったような感覚に襲われた。


「じゃあ……今までの俺の人生も、ただの……」


「そうだ。お前が努力しようが、何もしなかろうが、出目が悪ければ全部無駄だった」


「ふざけんなよ……!」


 声を上げた凪を、老人はじっと見つめた。


「怒る気持ちはわかる。だが、腹を立てても意味はない。

 “意味がない”ということもまた、サイコロが教えてくれることだ」


「……じゃあ……何のために生きてんだよ」


 その問いに、老人は初めて苦い顔をした。


「意味はない。

 だが……意味を“つくる”ことはできるかもしれん。

 ほんの、わずかながらにな」


 


 ◇


 


 店を出たあとも、凪はしばらく動けなかった。


 その日の風は冷たかったが、凪の中のほうがもっと冷えていた。


(意味を……つくる……)


(運がすべてなのに、そんなことができるのか)


 それでも。


 あの老人の目には、嘘がなかった気がした。


 サイコロの出目がすべてを決める世界で、それでも意味をつくるという生き方が、あるのだと──。

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