第20話

   (二十)

「佳織さん、疲れてはいませんか」

 三月二十七日、予定通り式を挙げ、昼食会を終えて帰ってきた。

「いいえ。とっても楽しかったです」

「ウェディングドレス、よく似合ってましたよ。とても可愛くて、輝いていました」

「お上手ですこと。お世辞でも嬉しいです」

「何だか本当の佳織さんを見つけたようで、感動してました」

「こんなおばさんに。でも、私も新しい自分になれたっていう気がしています。これまでの重荷のようなものを全部捨てて、生まれ変わったようです」

「あれから半年です。やっぱり佳織さんはとても素敵な人になりました。私の思っていた以上に」

「素敵かどうかは分かりませんけど頑張ります」

 佳織がコーヒーを入れてくれる。

 しばらく主婦になる練習をし、仁美を見送った翌日からは休暇に入って荷物を運びながらこの家で暮らしているので、今ではすっかり慣れている。

「何だか、仁美ちゃんがひょっこり顔を出してきそうですね」

「まだ二週間ですか。佳織さんが早めに来てくれて助かりました。この半年ですっかり自分では何もできない男に戻っていましたから」

「でも、見事に半年で、ちゃんと自分で歩いていける女の子になりましたね。さすがに名カウンセラーです」

「仁美に対しては、あの日からカウンセラーとは決別しました。カウンセラーはクライアントに個人的な感情を持ってはいけません。まして、実際にその人生に深くかかわるなどあってはならないことなんです」

「そうなんですか」

「それに私は、いくらかでもそれができたのは佳織さんのおかげだと思っているんです。仁美は佳織さんからたくさんのことを学んで、私はそれをただじっと見ていただけのような気がします」

「それが一番だったはず。パパさんがいつもじっと見ていてくれて理解していてくれる。自分を必要としてくれて大事に考えてくれる。そしてどんな自分でも受け入れてくれる。だから頑張れたんです」

「それを私に教えてくれたのも佳織さんです」

「それこそまさかです。私が立ち直れたのもあなたのおかげです。こんな私でもあなたはいつも認めてくれました。だから安心して馬鹿を続けられ、卒業することもできました」

「どうやらそれも、お互い様のようですね。私も佳織さんがいてくれたおかげで無茶ができました」

「最初にあなたが言ってた、縁?一つ一つは偶然なんでしょうけれど、結局全てが今日のために必要なものだったような気がします」

「そうですね。また淡路島へサンドイッチを食べに行きますか」

「あは、思い出すと恥ずかしいけど懐かしいです。私にとってはあの日が全ての始まりでしたから。ね、もしも、逆に佳織を拾うことになっていたら、いくらで買っていただけました?」

「お金を出したりなんかしませんよ」

「ええ?それってひどくありません」

「そのまま奥さんにするのですから」

「そうじゃなくて、私の半年に値段をつけるとしたら、です」

「また、無理なことを。そうですね、どうしてもと言うなら、まあ三倍から四倍でしょうか。大体十歳くらいで物心ついて、それから生きてきた年数と、その中身の濃さから考えるとするならば。でも、仁美にだって半年プラス一年分の生活費という程度で、それが仁美の価値だと考えたわけじゃありません」

「それは分かっています。でも、仁美ちゃんに比べるとずっとおばさんなのに、値段が上がるのですか」

「もちろんです。若さなんてものは小さな魅力の一つにすぎないでしょう。人の価値は、どれだけ充実した時間を過ごしてきたかじゃないかと思います」

「良かった。バーゲン価格じゃなくて」

「何ですか、バーゲン価格って」

「賞味期限のあまり残っていない在庫品」

「何を言いだすのかと思えば」

「そう言っていただくのは嬉しいのですが、自分では充実していたとも思えません。無理をしたり、迷子になってみたり、崖っぷちを歩いてみたりで」

「それでも、そうした過去が今の佳織さんを作っているのですから。私は佳織さんの過去に感謝しています」

 どうやら佳織の中にも、コンプレックスや自信のなさは残っているようだ。

 こうして自分の世界が変わることで、いくらかはリセットできる部分はあるだろう。とはいえ、長い間心の底に横たわっていたそうした心の在り方が急に変わるはずはない。すでにそれは佳織の個性になっていて、それが佳織の魅力でもある。

 ただ、今日垣間見ることのできた、少女のままとも言える天真爛漫な表情をもっと見てみたいと思うのだ。佳織が持っているだろういくつもの顔を、妻という枠組みに押し込んでしまいたくはない。一つの揺るがない役割を持ちながらも、その時どきで佳織が望む存在でいたいと思う。

 そうした思いは以前の東山にはなかった。夫婦という枠組みの中で、お互いを思い合うことが本当の愛情であると考えていたのだ。それは、どこからともなく湧き上がってくる感情ではなく、確固たる意志で積み上げて行くものなのだと。だからこそ信じることができ、そしてそれは一面真実でもあるのだ。

 ところが、佳織に真実がそれだけではないことを教えられ、仁美に出会ったことで身を持って経験することになった。東山自身もその時どきでどんな自分が顔を出しても、その全てが本当の自分であると信じられるようになっていた。

「ねえ、あなた」

「何ですか」

「もうその敬語はやめて下さい。それも仁美ちゃんに対する嫉妬の一つだったんです。しばらくは原田さんのこともあって、その距離感も仕方がないと思ってました。でもどうしても仁美ちゃんの方が近い存在に思えて。もう今日からは佳織はあなたの妻です。一番親しい人でなくては嫌です」

「そうですか」

「ほら、また。じゃ、今からですよ」

「わかった、わかった。そうしよう」

「それに、言葉だけじゃないんです。あなたが仁美ちゃんを甘やかして、仁美ちゃんも素直に甘えていける。佳織は随分羨ましかったんです」

「お互いに仁美の前では出せない顔があったのは事実だね」

「だから今日からは、佳織もあなたに甘えてもいいでしょう?」

「もちろん。実は私も今日、佳織の中に少女のままの表情を見つけて喜んでいた。それもきっと本当の姿の一つなんだろうなって」

「そんな顔してましたか」

「ああ。いろんな経験をしてきて優しい佳織もいい。しっかりしているようで頼りなかったり。だけど、そういう悩みを持つ前のあどけない佳織もとても可愛い」

「あどけない、なんて言われるとさすがにちょっと無理がありそうです」

「いいや。その言葉がぴったりで、そんな佳織をもっと見ていたいと思った」

「憶えています?最初に仁美ちゃんがあなたのことなんて呼ぼうか迷っていたでしょう。佳織が欲張りなのかもしれませんが、全部佳織のものにしたいんです」

「望むところだ。佳織を妻という枠組みに押し込んだりはしないよ」

「時にはパパさん、って呼んでもいいですか」

「佳織がそれを望むなら。しかし仁美の前ではまた喧嘩になりそうだ」

「そっか。でも、淋しくはないですか?佳織も頑張りますけど仁美ちゃんにはなれません」

「分からないと言うのが正直なところかな。元々がよく分からない存在だったし、だから幻を見ていただけのような気もする。しかしすぐにそんなことは言ってられなくなる」

「どうしてですか」

「佳織はおめでたなんだろう」

「あ、もう。やっぱりちょっと意地悪。仁美ちゃんがそう言ってました」

「そうか。仁美がムキになるのが楽しくてね」

「あは、それはわかります。でも、もうしばらくは佳織だけのあなたでいて下さい」

 佳織はしばらく専業主婦でいたいと言う。そしていつか子育てにも余裕が出てきた時には、給料は安くてもゆったりとした仕事に就きたいという希望もある。

 翌日は、藤田家へ行き、ささやかなパーティーとなった。教授から新婚旅行はどうするのかと尋ねられ、佳織の希望でゴールデンウイークにパリとローマへ行くことになった。

 そして二十九日は仁美の入社日で、その日の夜電話がかかった。

 電話を取ったのが佳織で、お互いにお祝いを言っているようだ。東山には甘えてもいいかと言いながら、仁美の前ではどうしても姉のような存在になってしまう。

 同期生のこと、配属のこと、新居のことなど東山が聞いてやらなければならないことを上手く話させて心の整理をさせている。なかなかのカウンセラーぶりだ。

「じゃあ、パパさんに替わるね」

 佳織はにこりとしながら受話器を渡す。

「仁美、まずはおめでとう」

「パパさん、あ、先生、ありがとうございます」

「何を言っている。ま、今日から新入社員だ。頑張らないとな」

「佳織さんにも伝えましたけど、配属は人事課だそうです。でもその前に、半年は工場実習があります。事務職は現場の人たちの考えていることが分からないといけないって」

「なるほど、いい会社のようだ。勉強することは多いだろうが無理をしないように」

「それから、お母さんは随分元気になりました。大阪から帰った日はちょっとふさぎ込んでいたようですけど、今はあれこれと気にかけてくれます」

「そうか。それは何よりだ。仁美が見ていて、頑張りすぎているようならブレーキをかけてあげなさい。ここで無理をすると折角の二年間が台無しになる」

「分かりました。あ、ブレーキと言えば、車を買うことにしました。中古の軽ですけど」

「なに?松江から安来の間は交通量も多いじゃないか」

「もう、心配性なんだから。通勤は電車です」

「そうか。それにしても」

「大丈夫です。そのうち先生のところへも車で遊びに行きますね」

「ばか、やめなさい。何キロあると思っているんだ」

「あは、先生が怒った。何だか嬉しいな」

「まったく」

「何度言っても足りないけど、ありがと・・・」

 それまでの元気な声が、急に途切れる。

 携帯を握りしめながら、涙をこらえられない仁美の顔が眼に浮かぶ。

「こら、泣くんじゃない」

「だって、本当に・・・仁美・・・仁美・・・生きてて良かった」

「そうだな。これからが本当の人生だ」

「はい・・・先生、ううん、パパさん、ありがとう」

「仕事に余裕ができたら、里帰りしなさい。佳織も喜ぶ」

「パパさん」

「何だ」

「やっぱり大好き」

「ああ、私もだよ」

「もうしばらく、このままでいいですか」

「もちろんだ」

 また一つ、仁美の世界が広がって行く。

 ただこれまでは、東山の近くでその変化に向き合ってきた。元気づけたり甘やかしたりしながら、仁美の新しい自分作りを見ていることができた。仁美にとっても、自分を考えて行く上で、いつも東山の存在がその中心にあったはずだ。

 これからは一人で向き合って行かなければならない。距離が離れ、世界が変わったとはいえ、心がそれほど急に変われるわけはないのである。

 少しずつであっても独り立ちをして行くことになる。辛ければ泣きに戻ってくればいい。

 じゃあ元気でと電話を切る。

「やっぱり、泣いちゃいましたか。佳織の前では頑張っていたけど、パパさんになると我慢できなかったみたいですね」

「パパさんなどどと呼ばせたことが良かったのかどうか。まあ、少しずつ父親のような存在になってはいくのだろうがね」

「それは結果論です。あの頃の仁美ちゃんには必要なことだったのではないですか。その時その時で仁美ちゃんの必要な役割になれたのですから」

「急には変われないんだろうな。これからも時々佳織から電話してやってくれないか。仁美は遠慮して我慢するだろうし、私からでは佳織に悪いと思うだろうから」

「優しいパパさんですね。ね、四月十六、十七日の土日にでも会いに行きません?入社して二週間と少し、職場にも慣れてほっとする頃です」

「なるほど、ほっとすると余計なことを考えてしまう」

「そして、淋しさも実感する頃です。ゴールデンウイークの方がゆっくりできますけど、その頃は海外ですから」

「そうしよう」

 正月に仁美と出雲へ向かった時はJRだったが、飛行機で伊丹から出雲へ飛ぶことにする。伊丹まで車で一時間はかからない。飛行機は五十分。手続きを含めても二時間と少しである。そして、空港の近くのレンタカーを借りて、出雲大社だけではなく、日御碕灯台や宍道湖も見て回り、仁美の新居も訪ねてみようということになった。

 旅券の手配などは、佳織にとってはお手のもので、翌日、東山が帰ると全て揃っていた。

 驚かせてやろうと、直前になって木曜日に佳織が電話をかける。

 電話の向こうで慌てている様子が伝わってくる。佳織は笑いながら応えている。

「そう、土日はお母様のところ?・・・いいのよ、ちょっと顔を見たかったから。無理しなくてもいいのに。・・・うん、大寺?川跡?・・・わかった。調べておく。十一時半頃かな、空港から電話するね。途中で仁美ちゃんの新居にも寄せてもらっていい?・・・あは、何よ今更。・・・うん、日曜日のお昼には発つつもり。・・・あ、それはダメ。パパさん、信用してないみたい。もう少し慣れたらね。・・・え?輪島塗・・・そうなの。わかった。そうさせてもらう。じゃあ、十六日。あまり可愛くしてきちゃだめよ、妹くらいで・・・うん、じゃあお休みなさい」

 受話器をおいて東山を振り返り、にこりとする。

「あなたも話したかった?」

「いや、佳織の方が素直に話せるようだ」

「金曜日の夜から、お母様のところですって。でも、ずっと一緒にいたいって。出雲のホテル、もう一部屋取ります?」

「ばかな。我々はバイト先の夫婦だよ。いくら可愛がっていても、それは不自然だろう」

「大寺って分かります?」

「ああ、お母さんの実家のある駅だ。何だって」

「その駅は車の入って行けるところじゃないので、一つ出雲寄りの川跡でって」

「わかった」

「それから、輪島塗の夫婦椀、使って下さいって」

「なんだ、置いて行ったのか。仁美の嫁入り道具に持たせてやろうと思って買ったのに。去年十一月に金沢から輪島へ行ったときにね」

「あ、未遂に終わった時ですね」

「今となれば懐かしい。あの頃の仁美は、まだそれまでの自分から抜け出せてなかった」

「そうですね、佳織もです」

「持って行ってやろうか。どこにある?」

 佳織がキッチンの食器棚の奥から探してくる。

「これですか」

 工房の袋に一つずつ箱に入ったままでしまってあった。

 その一つを取り、箱を置けるとメモ書きが入っていた。

『パパさんへ。思い出をたくさんありがとう。でも、これは佳織さんとのものです。仁美がいただくわけにはいきません。その代り、パパさんとお揃いのカップ、一つ持って行きます。いつまでも忘れません』

 東山はさっと読んで、それを佳織に見せてやる。

「もう、本当に」

「そっちには佳織へのメッセージがあるんじゃないか」

 もう一つの箱を開けるとやはり同じメモ書きがある。

『佳織さんへ。ごめんなさい。ちょっとだけ奥様代行しました。佳織さんには本当にたくさんのことを教えてもらいました(嫉妬も)。仁美にとってはずっと素敵なお姉さんです。うんと幸せになって下さい』

 佳織は泣き笑いの顔で東山を見る。

「パパさん」

「仁美にも幸せになってもらわないといけないな」

「はい。この間、あなたに全てになって下さいってお願いしましたけど、パパさんだけは仁美ちゃんに譲ります」

「そんなことにはならないよ」

「だって・・・もう、憎い子。そんな風に思わせるなんて」

「それだけ佳織に甘えているんだ」

「佳織も負けません。いい奥さんになります」

 土曜日、十時半に出雲空港に着き、レンタカーで待ち合わせの川跡駅へ向かう。

 思っていたよりもスムーズに手続きを済ませることができたために、川跡駅へは約束の十一時半よりも随分早く着いてしまった。

 電車の駅を過ぎたところに駐車場があり、誰でも停められるようになっている。駅舎に入ると、改札の中で駅員が二人談笑しているだけで、電車を待つ人もいない。時刻表を見ると、上り下りとも一時間に一本ずつで、それ以外には一日二本の急行があるだけだ。次の電車までしばらく時間がある。

 周りに民家があるのもこの駅の近くまでで、すぐ向こうは線路の両側ともに田んぼが広がっている。冬には山陰特有のどんよりと重い空だったが、今は平野も山も若々しい緑に包まれている。都会では味わえない四季折々の自然、そしてゆったりとした時の流れがありそうだ。ここならば、仁美の母親も心もきっと癒されるだろう。

 ちょうど十一時二十八分発の出雲市方面行の電車があるので、おそらくその電車に乗ってくるのだろう。少し前に、親子連れと高校生が現れ、どうやらその電車に乗るのはそれだけのようだ。

 ところが、電車からは誰も降りてこない。次の電車までには一時間ほどある。

「あなた、こっち」

 少し下がって駅舎の入り口で待っていた佳織が声をかけて、東山が振り返るのも待たずに歩き始める。

 東山も後を追うように駅舎を出ると、線路に沿った道を手を振りながら駆けてくる仁美の姿があった。

                                     (終)

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パパさんはカウンセラー ゆう @haru_3360

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