第19話
(十九)
仁美の引っ越しは十三日の日曜日にすることにして、運送業者を手配した。
それで東山と仁美はお別れとなる。
翌日、いつも通りの朝を迎えたが、お互いに今週が最後だと思うと、ギクシャクとしてしまう。
「何だかいろんなことが急に進んでしまいました」
「そうだな。最後に少々窮屈な思いをすることになってしまったが」
「そんなこと。元々、あのお部屋で十分でしたし、母の無理が原因ですから。ごめんなさい。佳織さんにも謝らなきゃ」
「佳織さんも奥様の予行演習を楽しんでいたようだから、気にすることはない」
「ありがとうございます。パパさん、幸せになって下さいね」
「約束する。仁美も、早く仕事に慣れて、一人前にならないとね。そうしている内にお母さんもきっと良くなる」
「あの、いいですか。最後になって言えなくなってはいけませんので、今のうちに」
仁美の言葉は予想できた。
「嫁に行くわけじゃないんだから、お世話になりましたなんて言わないでくれよ」
「いいえ、言わせて下さい。パパさんは命の恩人で、仁美の無茶なお願いも聞いてくれて、こんな仁美を本当に大事にしてくれました。一生、忘れません」
「忘れることだ。半年間、悪い夢を見ていたと思って、これからは普通の女性として生きていかないとね」
「忘れません。お世話になったこともありますが、仁美が初めて本気で好きになった人でもありますから」
「仁美はこれからいくつもの恋をして、いい人に巡り会わなければいけない」
「でも仁美はパパさんに、何も恩返しができていません」
「私は仁美の半年を買った。そしてその契約期間が終わる。それだけだ。その間にいろいろあったことは全て契約と一緒に終わることになる」
「そんなこと言わないで下さい。悲しくなります」
「私も無理をしている」
「わかりました。でもまだ今日は契約期間中ですから、仁美は甘えてもいいでしょう?」
ここしばらくは自立への覚悟のためか、急に大人びてきたような気がしていた。しかし、そう言って少し上目遣いでにこりとすると、以前の頼りなく可愛い仁美に戻る。
男がいくつもの顔を持ち、どれもが本当のものになるのは四十歳をすぎてからだと言うが、女性はこの年ですでにその技を身に着けているようだ。
二人で思い出を数えていくと、いつまでも尽きることはなかった。
週が明け、やはり淋しさを隠せずにいる仁美に見送られて仕事に向かう。
仁美がここへ来た時に立てた目標からすると、まだ強さはないようだが、それでも独り立ちしていくところまで辿り着いた。いくつかの偶然にも助けられながらも、東山の役割は果たすことはできたとも思える。とはいえ、東山が仁美にしてやれたことはあまりないとも思える。
もっとも、これまでのどんな場合でもそうだったように、人が育っていくとか、立ち直っていくのは、その人がそうなろうとするからなのである。他人ができることは、その道の邪魔をしないことと、じっと見つめてやり理解してやることしかない。
そういう意味では、仁美が自ら育ち、自ら自分を取り戻したのである。
カウンセラーとしては、最初から失格だった。それでも、仁美が再び自分の力で生きていこうと思えるようになる機会くらいは与えられたのかもしれないと思う。
それを喜ぶべきなのだろうとは思う。
夕方になって、そろそろ帰ろうかと思っていると、仁美がキャリアワークを訪ねてきたところに出くわした。朝には何も言っていなかったために驚いてしまう。
一瞬視線が合ってしまったが、言葉を交わすわけにはいかない。何度か来ているので、真っ直ぐに仁科さんのところへ行き、長野君がいるかを尋ねている。どうやら、就職が決まって、そのお礼を言いに来たようだ。
ところが長野君は午前中だけの勤務である。
仁科さんが気を利かせて、東山を呼びに来る。そして、仁美の訪問の要件を伝え、社長が代わりに受けてあげて下さいと言う。仁科さんの立場からするとその判断は正しい。
しかし、東山はどんな顔をすればいいのか困ってしまう。
とはいえ会わないわけにもいかず、では私の部屋へ通して下さいと伝え、先に部屋へ戻る。すぐに仁美が案内されてきて、東山は立ち上がって仁美を迎える。仁科さんは、すぐに仁美が帰ることになるだろうと、ドアを開けたままで、その場で待っている。
「長野は午前の勤務で申し訳ありません。ご就職が決まったと伺いましたが、良かったですね。おめでとうございます」
「長野先生には大変お世話になりました。あの、母のいる島根の会社に就職することになりましたので、そうお伝えください」
仁美はそう言って少し舌を出して笑いながら、丁寧に頭を下げる。仁科さんからはそんな表情が見えないことを分かっていてやっているのだ。
「そうですか、分かりました。ご丁寧にどうも」
仁科さんが見送ろうとするのを手で制して、自ら先に立って見送ることにした。
「長野には私からきちんと伝えておきます。きっと彼も喜ぶと思いますよ」
適当な言葉を並べながら、事務所のドアまで行き、小さな声でエスカレーターを降りたところでしばらく待っていなさいと言いながらドアを開けてやる。すると、仁美ははいと返事をしてから振り向いて、もう一度お辞儀をして出て行く。
「社長って、ああいったお嬢さんがお好きだったんですね」
部屋に戻ると、仁科さんにからかわれる。
「可愛い子だったでしょう。今度は私にも担当させて下さい」
「もうすぐご結婚だというのに」
「冗談ですよ。じゃ、私もこれで帰ります」
東山は意識してゆっくりと事務所を出る。
何軒かの店舗や事務所の前を過ぎると、一階へのエスカレーターがある。それを降りたところにあるベンチで仁美は待っていた。そして、東山の姿を見つけて小さく手を振る。
このあたりでは、事務所のメンバーに出会うこともあり得る。手を引くように表通りへ出て、タクシーに乗り込む。
「まったく。ひとこと言っておいてくれればあんなに慌てずに済んだのに」
「ごめんなさい。会社でのパパさんに会いたくなって」
「長野君に会いに来たのじゃないのか」
「長野先生が午前中だけなのは知っています」
「なんてことだ」
仁美は少しだけ微笑んでみせたが、すぐに俯いてしまう。
「どうした」
「仁美、やっぱり行きたくなくて」
「そう」
週末には引越しである。
今更どうすることもできないことは仁美も分かっていて、それでも淋しさが言葉になってしまうのだ。会社での東山に会いたくなったというのも口実で、一人でそんな自分と向き合っているのが辛かったのだろう。東山はそれをただ受け止めてやることにした。そして、そっと手を握ってやる。
言葉はそれきりになった。それでもその手からお互いの心は通じ合う。
半年間、仁美にとってその時間は、実際の時間よりもはるかに長かったはずだ。
東山の心にも数えきれない思い出ができている。仁美にとってはその何倍もの意味を持つ時間だったはずだ。それまでの自分と別れることが辛くないわけはないのだ。
しかし、仁美はじっと涙をこらえていた。その健気な気持ちが伝わってくる。
それが分かるだけに、東山も言ってやるべき言葉が見つからなかった。
駅の近所でタクシーを降りて、少しだけ歩く。
「パパさん、ごめんなさい。仁美、まだ弱虫です」
「無理をして、しっかりすることはない」
「はい。でも、少し落ち着きました」
「淋しくなったら、いつでも帰ってきなさい。土日は休みなんだから。きっと、佳織さんも喜んでくれる」
「そうでしょうか」
「仁美の気持ちを一番分かってくれるのは佳織さんだ。それは、佳織さんが奥さんになっても変わるものではない」
「でも、これまでとは立場が変わりますから」
「そんな人ではないよ。仁美と同じで、なんだかんだ言いながら優しい人だ。だから、私は佳織さんを奥さんにしたいと思った」
「じゃあ、仁美ももしかしたらパパさんの奥さんになれたのかも知れませんね」
「ああ、もう十歳年上だったらね」
「あ、またコンプレックスです」
ようやく仁美に頼りない笑顔が戻った。
土曜日に、佳織が荷造りの手伝いにと訪ねてきた。
しかし、あらかたの片づけはすでに終わっている。佳織は、仁美のためにいくらかの服を買ってきたようで、それを衣装用の段ボールに掛けてやる。
「佳織さんごめんなさい。こんなに優しくしていただいて」
「ううん。他にしてあげられることがなくて。仁美ちゃん卒業式は?」
「二十四日です」
「出るの?」
「いいえ。次の週には入社で、わざわざそのためだけに出てくるのは面倒ですし。卒業証書は後からでも郵送してくれますから」
「会っておきたいお友達とかは」
「元々一緒に遊べる状況でもありませんでしたし、半年間も行方不明で、きっと知り合いは仁美が大学を辞めたと思っているんじゃないかな」
「ここへ来ればいいじゃない」
「でも、佳織さんやパパさんの顔を見ると、また甘えの虫が出てきて、頑張っていかなきゃっていう決心が鈍りそうで」
「いいじゃないの。遠くなっても私たちの親しさは変わらないでしょう」
「ありがとうございます。すぐに会いたくなっちゃうとは思いますが、最初くらいは」
「そっか」
午後になって三人で栄子さんを訪ね、仁美はいろいろ教えてもらったお礼を言い、佳織も一緒に挨拶をする。
栄子さんは仁美の手を取って、いい見習いさんでしたよ、すぐにでもお嫁に行けますと言いながら、笑顔とともにうっすらと涙を見せている。折角いい奥さんになれるだけの勉強をしたのだから、仕事も大事だけど、それを分かってくれるいいご主人を探さないといけませんと励ましてくれた。
仁美は、栄子さんの手を握って涙が止まらない。この半年間は、東山よりも長い時間を共に過ごしていたのだ。お互いに母のように、そして娘のように思っていたのだろう。栄子さんとの会話の中で、自分を見つけ落ち着かせてきた部分もあるはずだ。
佳織が嫁いでくることで栄子さんは失業してしまうことになる。しかし、どうやら仁美から状況を聞いていたようで、半年の間に栄子さんは介護関係の資格を取り、家政婦紹介所からの派遣と、いわゆるヘルパーとしても仕事ができるように準備をしていたようだ。
佳織に対しては、随分納得もし、気に入ってもくれたようで、子育ての期間中や、またお勤めに出るようになったら、いつでもお手伝いしますよと言ってくれる。
そして、日曜日には運送屋が来て、仁美の部屋はあっという間に空き部屋となった。最後の段ボールに、揃いのマグカップの一つだけを入れトラックに積み込んだ。荷物は明日の朝松江で受け取り、それには常子や祖母が手伝いに来てくれることになっていた。
仁美は泣いてしまうので見送りは要らないと言ったが、しっかり泣けばいいと、二人で新大阪駅のホームまで見送りに行く。
仁美は電車が入る前から佳織の肩に額を付けて涙をこらえられない。佳織がもらい泣きをしながらあれこれと言ってやってはいるが、ただ頷くばかりである。
東山とも不思議な縁で半年を過ごすことになったが、それは佳織との関係も同じである。
そう頻繁にやり取りをしていたわけではなくても、仁美の心の支えという面では、佳織の存在の方が大きかったのかもしれない。
やがて電車が入ってきて、佳織は仁美を東山に預ける。
仁美はそのまま東山の胸で相変わらず言葉は出なかった。東山はそんな仁美の髪を撫でてやり、さあもう行きなさいと言ってやる。
言ってやりたいことは山のようにあったはずなのだが、言葉にならない。
半年の間に、どれだけのことがしてやれたのだろう、もっと教えてやれることはあったはずだと後悔もする。
仁美も、パパさんありがとうと、ひと言だけを残して、最後に乗り込み、デッキでじっと立ち尽くす。
ベルが鳴り、ドアが閉まると、ようやく手を振って無理をして笑顔を作る。
そして、すぐに電車は見えなくなってしまった。
いくつもの思い出が甦り、東山はそれらを吹き消すようにふうっとため息をつく。
この感情を上手く表現する言葉はなかった。
「パパさん、大丈夫ですか」
「はい、半年の契約期間が終わりました。それだけです」
「無理しちゃって」
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