第18話
(十八)
日曜日の午後、仁美は島根へと向かった。月曜日の朝に出ても間に合わないわけではない。とはいえ、時間を気にしながらの移動では落ち着かず、何か事故があったからといって約束に遅れたのでは印象が悪くなる。
七時過ぎに仁美から電話があり、無事に着きましたと報告がある。松江の駅近くのビジネスホテルからで、夕食は冷蔵庫にありますから温めて食べて下さいと申し訳なさそうに言う。
そんなことは気にしなくていいから、自己紹介の練習をしておくようにと指示をする。
あらためて一人の学生として見直してみると、本分である学校での勉強、素直で真面目な性格、他人に対する気遣いや優しさ、いずれも上出来であることは間違いない。まして競争の激しい狭き門でもなさそうなのだ。そう考えると心配することはないのかもしれない。
月曜日の朝には七時に電話がかかって、ちゃんと朝ご飯を食べて行ってくださいと言う。仁美も遅れることのないようにと返しはしたが、仁美がいないことの不便さと淋しさを思い知らされる。
昼を過ぎて、佳織からキャリアワークへ連絡があった。
「今晩、お邪魔してもいいですか」
「もちろんですが、何か。それに仁美がいないので、もてなしもできませんが」
「だからです。東山さん一人じゃ退屈なさると思って。それに、その頃には、仁美ちゃんから今日の結果も連絡があるかもしれませんし」
「そうですね、佳織さんにはお世話になりましたから是非」
「本当は仁美ちゃんから頼まれていたんです。きっとパパさんが退屈するでしょうから一緒にいてあげて下さいって。なんだかすっかり奥様みたいで、久しぶりに嫉妬心をかきたてられました」
「まさか。では、少し早目に帰っておきます」
六時過ぎに帰ると、間もなく佳織が訪ねてきた。
「お邪魔します」
それは東山にというよりも、まるでここにはいない仁美に声をかけるような言い方である。
「何ですか、他人行儀な」
「そうか、仁美ちゃんがいないことは分かっていたはずなのに、おかしいですね。ここはすっかり、東山さんと仁美ちゃんの家のような気になってました」
「確かに、もう五か月になります。家事見習いのつもりだったのに、いつの間にかこうして、心配されるようになって。そんなに頼りなく見えますか」
「幾分は。でも、男の人ってそういうものじゃないかとは思います。あ、逆かな。女がそうしたがるのかもしれません」
「とは言っても、あの年で」
「女であることに年齢は関係ありませんでしょう。私なんか、彼に奥様がいることが分かっていながら、生意気なことを言ってたような気がします」
「なるほど。お互いに心配もし、されもする。親しくなると、そうなって行くのでしょうね」
佳織がキッチンを借りてもいいかと尋ねる。
今日は、栄子さんが東山の夕食を準備してくれている。ダイニングのテーブルには、ロールキャベツと手製の春巻き、そしてシーザーサラダが並んでいる。そして。パンかご飯かはお好みでとメモがある。
ロールキャベツはおそらく余分が冷蔵庫にあるはずで、それを温めて一緒に食べましょうと言うと、少し残念そうな顔をする。どうやら、東山のために夕食を作ろうと考えてくれいたようだ。
「そっか。仁美ちゃんがいなくても、本職の方がいらしたんですね、残念」
「まあいいじゃないですか。しばらくしてからで」
とはいえ、一通りキッチンの中のものの配置を確認している。
やはり、いわゆる奥様業という点でも、佳織の方が似合っているようだ。実家では何でも母親に頼りっぱなしだと言ってはいたが、物の扱い方を見ている限り、それも謙遜であることが分かる。
間もなく、予想通り仁美から電話があり、合格しましたと弾んだ声で報告があった。
大げさに良かったと言ってやり、お母さんにも報告したかと尋ねると、また泣くばかりだったが喜んでくれたそうだ。何より、仁美が近くで就職することになったことが嬉しかったらしい。
仁美の命令で佳織さんも来てもらっているからと、電話を替わる。
佳織もお祝いを言い、詳しい状況を聞いてやっている。しかし、途中で一瞬、首を傾げる。電話の向こうの仁美にはそんな素振りも伝わるはずはない。そして、今日は東山のお世話は引き受けましたと冗談を言う。仁美が何を言ったのかは分からないが、馬鹿ねえ平日にお泊りというわけにはいかないわよと言っている。
じゃあ、また詳しくは帰ってきてから聞かせてねと電話を切る。
「よかったですね。これでひと安心です」
「佳織さんのおかげです。しかし、何か気にかかることでもあったのですか」
「ええ、思い過ごしかもしれませんが、仁美ちゃんから聞いたお母様の言葉が」
「お母様が何と」
「東山さんのこと、仁美ちゃんが大事にしてもらってとか、お母様が私のために苦労をかけたとか、そのままの意味ならいいのですけど、仁美ちゃんの変わり様から考えると、ひょっとして」
「お手伝いさんの代役だけではないと、気付いているかもしれないということですか」
「仁美ちゃんの雰囲気は半年前とは全く変わりました。明るくなっただけではなくて、身も心も満たされている女の子は綺麗になるって言うでしょう。お母様ならそのことに気が付くかも」
「仁美の年なら誰かと恋をすることは当然あることでしょう」
「でも、アルバイトで住み込みのお手伝いさんをしていて、そんな余裕があるでしょうか。ましてそれで、五キロもふっくらするなんて考えにくいですよね」
「かといって、仁美がありのままを言うとは思えませんが」
「もしも、お母様がそのことを知ったら、仁美ちゃんにとんでもない苦労をさせたと、またご自身を責めることになってしまうかも知れません。私たちは全てのいきさつを知っていて、これで良かったと思ってますけど、母親の眼からは」
「たしかに一般的なことではありませんからね。それにこうなった原因は更に親としては責任を感じずにはいられない」
「私の思い過ごしならいいのですけど」
そして、十時を過ぎて、佳織がそろそろ帰ることにしますと言い始めた頃に、再び仁美から電話が入った。
三月中旬には島根に引っ越すことになる。それまでにお世話になっている東山にどうしてもお礼を言いたいと引かないらしい。仁美はアルバイト先なのだから、かえってご迷惑になると説明したらしいが、強く言われるとそれ以上に断る理由はない。また、あまりだめだと言いすぎるのもかえって不自然だと思われそうで、とりあえず奥様にご都合を聞いてみますとその場はごまかしたらしい。
さすがに途方に暮れて、どうしたらいいのでしょうかと涙声である。
東山にもすぐに妙案が浮かぶはずもないが、とりあえず不自然にならないように気を付けておくように言い、後はこちらで考えると安心させた。
「お母様の本心がどこにあるのかは分かりませんが、とりあえず仁美ちゃんの説明が本当であればいいのですから」
佳織は、思ったよりも明るくそう言う。
「何か妙案がありますか」
「簡単なことです。私が東山さんの奥様になっていればいいのでしょう。私の身の回りの物を持ってきて、奥様らしく振る舞えば」
「そんなことができますか」
「女はお芝居はお手の物。仁美ちゃんだって。問題は東山さんですよ」
「私にはとても自信がありませんが・・・しかしまた、佳織さんの世話になりますね」
「さん、は要りませんよ、あ、な、た」
そう言って佳織は笑う。
「まいったな」
「仁美ちゃんには申し訳ないけど、奥様と呼んでもらう練習もしなきゃ。それに私も、この家のことは何でも分かってないといけませんし。家事は任せきりにしているにしても、家の中で迷子になるわけにはいきませんから」
いざとなると、女性の方が度胸がいいのは分かっているが、佳織の落ち着きようは東山にとっても驚きだった。
次の日の夕方、東山が大学から帰ると、仁美は既に帰っていて、お帰りなさいと出迎えてくれる。
早速、佳織と打ち合わせた計画を説明する。
すると、仁美も納得できたようで、幾分ほっとしたようだ。
向こうでの話を聞いていると、それまでは、島根へ行くことに少し迷いがなかったわけではない。しかし、先方から寄せられた期待、会社の雰囲気にも心を動かされ、やはり母親の姿や言葉に向き合うと、近くでいてやりたいという決心が固まったようだ。
やがて、七時過ぎに佳織が訪ねてきた。
「ただいま」
玄関でそう声をかける。いきなり演技が始まったようだ。
「おかえりなさいませ、奥様」
仁美も負けずに、そう応えて玄関まで出迎えに行く。東山は、二人の阿吽の呼吸に驚くばかりで立ち上がることもできず二人の顔を見比べてしまう。
「あら、今日はあなたも早かったんですね」
まだ芝居がかった口調で東山に声をかけるが、どうやらそれが限界だったらしくて、自分から吹き出してしまう。
「東山さんも合わせてくれなくちゃ。そんな顔をしてたらお芝居になりません」
「いや、もう、ただ感心するばかりで。女性というものは恐ろしいものですね」
仁美もそんな佳織の後ろで笑っている。
「仁美ちゃん、まずは、合格おめでとう。はい、これお祝いのケーキ」
「ありがとうございます。佳織さんのおかげであまり緊張もせずに面接を受けられました。途中から、担当の方の表情も優しくなっていろいろお話していただいて、最後には、これじゃどっちが面接されているのか分からないな、なんて冗談を仰って」
「そう、良かったわね。決心はついた?」
「はい。自信はありませんけど」
「それは誰だって同じ。どんなお仕事になりそうなの」
「それはまだです。入社の時に配属先も発表されるって。あ、住むところも補助が出るそうです。出雲からでは少し遠いので、松江辺りで探すように言われました」
「いよいよね」
「最初から最後までお世話になって、いろいろ教えてもらって、どうお礼を言えばいいのか」
「いいのよ、私も仁美ちゃんには助けられたんだから。それより、ごめんね、奥様だなんて呼ばせちゃって」
「とんでもない。お母さんと呼ばなくてすんだだけでもほっとしています。母のわがままで佳織さんにまでご迷惑をかけてすみません」
「なあに?お母さんて」
「パパさんが、仁美がここを出るのが辛かったら、養女にでもなるかなんて」
「もう、東山さん、冗談にもほどがあります。多少おばさんでも、私だって仁美ちゃんと張り合っているんですから」
佳織は少しだけ睨むような視線を向ける。東山はそれに、ほんの冗談ですよと答える。
翌日になって野口から電話があった。
東山が世話になったと礼を言うと、先方からもいい人材を紹介してもらって感謝されていると言う。
そして、住むところについても、先方が気を利かしてくれて、付き合いのある不動産屋に頼んでみましょうかと言ってくれているらしい。もとより当てがあるわけではないのでそれに甘えることにする。候補となる物件をいくつか選んでおいてもらうので、十日ほどたって実際に現地へ行き、自分の眼で見て選ぶようにと指示を受ける。
そして、仁美にそのことを伝え、三月四日に現地へ行くことにした。契約となると保証人が必要で、常子に一緒に行ってもらうことになった。その後、仁美が大阪に帰るのに合わせて、常子を大阪へ招くことにする。
夕方、佳織を交えて、どうすれば仁美がアルバイトに見えるかと考えてみる。
まず、仁美の部屋は奥様となる佳織に明け渡し、仁美はその向かいの、少し狭い部屋へ移動する。ベッドと小さなテーブルと本棚を移し、三面鏡はアルバイトには贅沢だろうと一時佳織のものにしておくことにする。仁美の引っ越しの時に、奥様からの贈り物ということにすればいい。かなり増えた衣服は、ファンシーケースを買って、その半分ほどだけを納める。
佳織の部屋を覗かれることはないだろうが、ロッキングチェアとガラス台のテーブル、三面鏡とお洒落なローチェストとシンプルな配置にする。
佳織は、毎日会社からここへ寄り、部屋を整えたり家事を手伝ってから吹田へ帰る暮らしとなった。ただ、そう構えることもなく、思いの外自然体でいるようだ。
一方、東山は佳織さんを佳織に変え、仁美を仁美ちゃんと呼ぶ練習に随分苦労をした。その東山はしばらく先生に戻ることになっていた。
「奥様業の引継ぎもうまく行っているようだな」
水曜日、三人で夕食を終えて、佳織はまた明日と帰って行く。
「はい。奥様が台所仕事はお母様に任せきりだなんて嘘です。何でも上手で」
「そりゃあ、年が違うよ」
木曜日に仁美は、松江へ出かけた。
土曜日の朝、向こうを経ち昼過ぎに東山を訪れる。
佳織は朝からここへ来てくれていた。
「あなた、心の準備はできましたか」
「まあ、大丈夫だろう。私はできるだけしゃべらないようにしておくから」
「それにしても仁美ちゃん、いい奥様だったようですね。どこもきちんと片付いているし、お掃除も細かいところまで行き届いていて」
「本職の栄子さんのおかげだよ。よくしつけてくれた」
「ちょっと損をしたかもしれませんね。そのままお嫁さんにしても良かったのに」
「よくやってくれているとは思うが、結婚の対象として考えたことは一度もない」
「本当に?」
「ああ、やはりどこまでも親子のようで親子じゃないパパさんだった」
「いなくなって、淋しくはないですか」
「娘を嫁にやる父親のような気持ちとはこういうものかもしれんな。だが、佳織がいてくれる」
やがて、仁美が常子を伴って帰って来る。佳織が玄関へ向かえに行き、東山はソファから立ち上がって迎える。
仁美が先生と奥様ですと紹介し、佳織が仁美ちゃんには急なお願いだったのによくやってもらって助かっていると席を勧めて台所へ向かう。
「奥様、私がやります」
仁美の演技も抜け目がない。
「いいの、今日は仁美ちゃんもお客様よ。座ってなさい」
東山は、常子の挨拶とお礼の言葉を受けながら、どうしてもカウンセラーとしての眼で、常子の症状を確かめようという眼で見てしまう。
「一瀬さん、仁美ちゃんから少しだけお話は伺っておりますが、随分辛い時期もおありだったでしょう。いかがですか」
その職業病が功を奏して、常子は抱いていた不安を忘れられたようだ。
お恥ずかしい限りですと言いながら、最近の心の在り様と、仁美が島根で就職することになって随分喜んでいると言う。まだ、言葉の端々には迷いが見られ、俯きがちであることから、完全に抜け出してはいないように見える。ただ、時折見せる笑顔に無理をしている様子はなく、順調に回復に向かっていることは間違いなさそうだ。
佳織がコーヒーを出して会話に加わって、世間話となる。
夫婦らしく見せようとしては却って不自然になる。その点では、東山にしばらく結婚の経験があったことが役に立っていた。親しければ親しいほど、他人の前ではお互いの態度はよそよそしくなるものなのである。
それでも、話の流れでお子さんはと尋ねられ、東山はどきりとさせられた。ところが佳織は、ずっと考えていたことのように、この春ようやく勤めも辞めてこれからだと、ちょっと恥ずかしそうな表情でそう言う。
佳織にとってみればまさにその通りであるのだから、演じる必要もない。それにしてもあまりに自然な言葉で、東山も照れくさくなってしまう。
やはり佳織の方が役者は一枚上手のようだ。
一時間ほど話をして家を出るときには、すっかりあるべき関係として常子も心を開いてくれていた。
そしてこれから、以前住んでいた香里園と住吉区を二人で訪ねてみると言う。
心の病を引き起こした過去と向き合うのは、覚悟の要ることである。しかし、もう一度きちんと受け止め直すことで、立ち直るきっかけにもなる。それだけの勇気が持てるようになったことは大きな前進である。
二年間、故郷で母親と一緒に過ごし、そしてずっと気にしていた仁美の元気な姿を見る事で、心の安定を取り戻しているのだろう。新庄は相変わらず音信不通のままだが、二年の歳月がそれも過去のことにしたようだ。
仁美は、大阪駅まで見送って夕方には帰りますと言い残して、常子の手を引いて出て行く。
「佳織さん、ありがとう。名演技には頭が下がります」
「あら、また佳織さんに戻るのですか。ちょっと淋しいな」
「はは、もう少しの間だけです」
「東山さんもなかなかお上手でした」
「ま、これでも一度は所帯持ちでしたから」
「お母様の様子、どうご覧になりました」
「随分良くなっているようですが、まだしばらくは注意が必要だとは思います。仁美が近くなることも、嬉しい反面、ストレスになることもありますから」
「そうなんですか」
「ええ、思い合っての結婚にしてもある面ストレスになります。お互い元気であれば、そのストレスも幸せだと感じられますから、気付かないことが多いのですが」
「人の心って複雑なんですね」
佳織も幾分ほっとしているようだ。
夕方、五時を過ぎて仁美が帰ってきた。
「先生、奥様、ありがとうございました」
仁美は律儀に頭を下げる。
「もう奥様はいいのよ。何だか他人行儀」
「お母さんは無事に帰ったのか」
「はい。どこも懐かしいって。以前のような優しいお母さんの顔になっていました」
「随分ご苦労をしたからね、いずれにしても二年程度は休む必要があったのだろうな」
「でも、佳織さんもパパさんも見事な演技で、二人とも信用できなくなりそうです。大人って怖いな」
「あら、そういう意味では仁美ちゃんこそ。まだ若いのに」
「あは、そうですね。うそです。やっぱりお母さんは少し疑ってたようですけど、帰るときにはすっかり安心してました」
「よかったわね。で、これからどうするの」
「来週には引越ししなきゃいけないと思います。二十八日が入社式ですから。それまでに片付けや、足りないものを揃えないといけません」
「そう。じゃあ手伝いに来るわね」
「いいえ、そんなに荷物もありませんから」
「いいの。一人じゃ辛いの分かってる」
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