第7話
(七)
次の週の週末、金沢へと向かった。
脇田社長との約束は金曜日の午後二時で、家を朝九時に出ると途中で休憩をしながらでもゆっくり間に合う。
忙しい中、三時間もの時間を取って学ぼうとするのだから、かなり本気のようだ。
とはいえ、カウンセリングの意味を理解するには、ある程度心理学についての知識もなくてはならない。全くの初心者では、三時間では深い話まで辿り着けないかもしれない。
最も理解されにくいのが、カウンセリングが会社の思惑とは一致しない場合もあるということである。
カウンセラーは、個人の心の健康を優先する。そのために個人が自分を見つめる手助けをすることもある。その結果、人によっては、本当にやりたいことを見つけて、会社を去る場合もある。本人が合わない仕事で不満や不具合を感じて心を病むよりも、新たな世界を選ぶ方がいいと考えている。
しかし、会社側から見れば、何年もかけて仕事を教えた社員に、おかしな自分探しをさせて辞められては元も子もない。
実際には、自分と仕事にそれなりに折り合いを付けていくのが人間である。そして、どうしても折り合いの付けられない社員を無理に引き留めていると、心を病むことになりかねない。或いは、いずれ何らかの理由で去ることになるのである。
その割り切りが難しいところなのだ。
カウンセリングはあくまで個人的なもので、一人一人が抱えている悩みを早期に発見できれば、心を病む社員は減る。また、愚痴や迷いを聞いてやることで、心の整理を付けられるという面もある。
ただ、カウンセリングルームを置くことで、直ちに退社率が下がり、業績向上につながるというものではない。また、結果としていくらか効果があっても、それがカウンセリングによるものかどうかを確かめることもできない。
全く同じ環境で比べることができるならば、間違いなく効果はあると信じているが、経営者がそれを信じられるかどうかは別なのである。
脇田社長の疑問には精一杯応えていくつもりだが、同時に、万能薬ででもあるような過剰な期待をさせるわけにもいかないとも思う。
「そろそろ行こうか」
資料や本はノートパソコンと一緒にアタッシュケースに入れ、土日用の着替えなどは、仁美の物と一緒にスーツケースに入れてある。
「はい。お待たせしました」
とレザー生地の巾着型のバッグを肩にかけて現れる。そして、振り返りながら火の元よし、と小さくつぶやく。
ひと月が過ぎ、主婦業もいくらか板についてきたようだ。
隣の駐車場でスーツケースをトランクに入れ、アタッシュケースは後部座席に置いて、その上に上着を無造作にかける。
いつものガソリンスタンドに寄ると、店長が窓を拭きながら、今日はお嬢さんと一緒ですか、どちらまでと気さくに話しかけてくる。鷹揚に金沢までと応えると、いい季節ですねと独り言のように言う。
「お嬢さんだってさ」
走り始めて、仁美に笑いかける。
「そう見えても仕方ありませんね」
「それはそうと、金沢へ行こうと言った時、仁美はちょっと迷ったように見えたが、何だったんだ」
「あ、バレてましたか。パパさんに隠し事はできませんね」
「で?」
「つまり、女の子の事情です」
「何だそれは」
「もう、鋭いのかと思えば鈍いんだから。笑っちゃだめですよ」
「ことによるが」
「お泊りの旅行でしょう。仁美が覚悟をしていても体がだめだったらいけないなあって」
「なんだ、そんなことか。私はそんなつもりで誘ったわけじゃなかったのに」
「だって、やっぱり買ってもらった身としては」
「まだそんなことを言ってるのか」
「守るべきところは守るって言っていただいたのはその後です」
「そうだったかな」
そんな仁美に、ふっと東山は笑ってしまう。
「あ、笑っちゃだめですって言ったのに」
「ああ、それで笑ったわけじゃない」
「じゃあ、何ですか」
「自分のことだ。実はね、以前佳織さんにずっと放っておくと仁美は自分に魅力がないと自己嫌悪するかもしれないって言われた。そして、モリのママにも大切に考えることが必ずしも仁美のためにはならないと言われた。そして、仁美も覚悟を決めていたんだろう。結局、私だけがその覚悟ができてないことがおかしくてね」
「仁美は・・・そんな優しいパパさんが好きです」
そう言って、少し恥ずかしそうに俯く。
「好き、か」
「はい。最初に会った時から。仁美の話をじっと聞いてくれて、泣いてもくれました。だから、買ってもらってもいいって思えたんです。他にできることがなかったのも事実なんですけど。でも、まさか本当にそうしてくれるなんて思ってなかったし、それに、びっくりするような値段で。これはもう、覚悟を決めるしかないって」
「なるほど」
「だから、次の日アパートへ帰って買い物に行った時、まず下着を買ってきたんです。パパさんに見られても恥ずかしくないように」
「そうか。また泣けてきそうだ」
「でも、佳織さんは全部お見通しだったんですね。ちょっと劣等感も持ってしまいます」
「劣等感?」
「だって佳織さんはずっと大人で、何一つ勝てるところがなさそうで」
「佳織さんは仁美の可愛くて健気なところがいいって。仁美の若さに嫉妬するなんて言っていたが」
「若い時は誰でもあるわけで、そんなことに自信は持てません」
「仁美は仁美だよ」
「でも佳織さんに勝つことができるかも知れないことがあるんです」
「ほう、何かな」
「あの、佳織さんより先に仁美と・・・」
相変わらず、仁美の発想には驚かされる。
「そのために私に覚悟をしろと?しかし、そんなことで劣等感を忘れられる?」
「いつかパパさんは佳織さんとお付き合いをして、やがては結婚するのは分かってます。だから、その前に。そうなれたらちょっとだけ勝ったことになるかも、なんて」
「馬鹿なことを考えるものだ。そんなことのために失うものではないだろう」
「それに、それだけじゃありません」
「で、金沢で?」
「なのに・・・ごめんなさい。体の方が言う事をきいてくれなくて」
「ははは、そういうものだ。私は、仁美が好きだと言ってくれただけで十分嬉しい」
京滋バイパスから名神に乗り、米原から北陸道へ進む。賤ヶ岳SAで短い休憩を取って、金沢についたのは、昼を少し過ぎてだった。
石川工業は、金沢駅から海に向かって数キロの桂町にあり、十五分もあれば着く。
片町辺りでゆっくりと昼食を済ませ、仁美と分かれる。待ち合わせは、夕方六時に香林坊で一番大きなホテルのロビーにした。
三時間余り一人で放り出すのは、多少心配ではあるが、石川工業へ連れて行くわけにもいかない。東山は何度か訪れたことのある金沢の町なので、兼六園、東茶屋街、主計町あたりを見て回ることを勧めておいた。
宿は七尾の和倉温泉にとってあるので、ここからだと一時間と少しで着く。
「じゃ、行ってくる。一人にしてすまないが」
「お仕事ですから。頑張って来てください」
仁美を残して、石川工業へと向かう。
キャリアワークとは比べ物にならない立派な社屋の玄関ホールを入ると、受付の女性が向こうから、東山様でらっしゃいますかと声をかけてくれる。そちらで名刺を渡すと、社内電話で連絡をして、ご案内に参りますので少々お待ちくださいと言われる。
秘書か総務担当の女性が現れるのだろうと、辺りを眺めながら待っていると、意外にも社長自らが現れた。脇田ですと名乗り、遠くまで申し訳ありませんと人懐っこい笑顔を向けて握手を求め、東山も社長自らお出迎え下さるとは恐縮ですと、その手に応える。
おそらく年齢は東山とそう違わないだろう。二代目とはいえこの若さで社長になるだけのことはあって、飾らない態度の中にもエネルギーが溢れ、また人間的な部分でも魅力的な人物である。
通された社長室は、建物の割にこじんまりとしていて、イメージしていた空間とは随分違っていた。また秘書もおいていないようで、ソファで挨拶をしていると、名札に経理課山辺とある中年の女性がお茶を出してくれた。偉ぶらないのは脇田社長だけではなく、組織としてもそれを実践している。東山にはこの飾り気のなさが心地よく、また信頼できるとも思えるのだ。
挨拶の後は、藤田教授の話題となり、近々教授のお嬢様とご結婚されるかもしれないと伺っておりますが、と探りを入れられる。話の流れではあるのだろうが、脇田社長にそこまで紹介してくれているとすると随分気に入られているようだ。
まだお付き合いを始めたばかりで、私の方はバツイチなものですからどうなることやら、とこちらも隠し立てもしない。
そうした率直なところが脇田社長は気に入ったようで、それまでの少し遠慮がちに瀬踏みするような視線から、一度に親しいものに変わる。
では、早速ですが、と質問を向けられることになった。
関心を持つだけのことはあり、よく勉強をしていることは、その尋ねてくる内容から伺うことができる。東山はそのことにほっとしながら、一般論、個人的見解、そして石川工業での想定される問題点などを説明していく。
脇田社長も納得できるところ、さらに検討しなければならないところ、共にあるようだ。
時には大きく頷き、時には首をひねりながら、やり取りが進んで行った。
「では最後に、こうあるべきだと自信を持つには何が必要なのでしょう」
やはり、詰まるところはそこに行きつくようだ。
「結局のところ、私は人間観だと思っています。お話したようにカウンセリングは万能ではありません。また、それだけで何かが大きく変わるものではありません。僭越なことを申しますが、大切なのは社長だけではなく組織としてどのような人間観を持っているかだと思います。その他の人事制度や福利厚生施策と同じで、何をやるかよりもどうやるのか、つまり運用する組織の人間観によって生み出されるものは変わります」
「なるほど。組織そのものも、単なるシステム、或いは器であるということですか。その在り方にいくらかの優劣はあっても、むしろ大切なのはそれを構成し動かす社員全体の人間観、つまり会社の文化そのものということになりますね」
「私はそう信じています。人は理屈で動いていると思いがちですが、実際は、行動の大半を決めているのは感情、気持ちなんです。カウンセラーができることはたかが知れています。そんなものがなくても、組織の人間観を表現する方法はいくらでもありますし、それが社員にうまく伝わり共有できれば、それで十分なのかもしれません。もちろんよりよいお手伝いはできるものだと信じていますが」
「なるほど。これまでも利益だけを求めていたわけではありませんが、自分も含めて社員を考える上で、果たすべき機能とそれに必要な能力という視点に偏っていたような気がします。能力があってもそれを発揮するかどうかはその人の感情、つまりもっと人間的な部分に依るところが大きいということですね」
「もちろん、それは必要条件の一つであって、十分条件ではありません」
「いや、目から鱗が落ちる思いです。心の健康と言いますが、健康であるという意味は病気ではないだけでは不十分なんですね。そこを少し分けて考える必要がありそうです。カウンセリングルームの役割、位置付けが分かってきました」
「いくらかはさらに進んで、いわゆるモチベーションアップの面でも貢献できるところはありますが、その効果は限定的です」
「藤田教授に感謝です。いい先生を紹介してくださった。東山さん、もしよろしければ顧問として力を貸していただけませんか」
「とんでもない。そんな器ではありませんし、今私が申し上げたレベルのことでしたら、きっと脇田さんならすぐにご自分のものにすることができます。ご相談ごとがあれば、一緒に考えさせていただくことは約束しますが」
「そうでした。東山さんはこうした考え方の啓蒙に取り組んでらっしゃると聞いています。うちだけで独占するわけにはいきませんね」
「啓蒙などと大それたことではありません。私は普通に働いている人たちの役に立てればいいと思っているだけです」
脇田社長との面談は、予定の五時を十五分ほどオーバーしてしまった。
そして、石川工業を出るときにも、わざわざ玄関まで送ってくれる。
「時間があれば、金沢の夜もご案内させていただきたかったのですが」
「私もです。脇田さんとはもう少し話をさせていただきたいと思っています」
「では、近いうちに、藤田教授もご一緒に、ぜひ」
「喜んで」
「その時には東山さんが教授をお義父さんと呼んでいるかもしれませんね」
「ははは、それはそれで照れくさいですね。では、ここで失礼します」
脇田社長とはウマが合いそうだ。おそらく脇田社長もそう思ってくれていると感じ取ることができる。
ビジネスを度外視して、こうして友人と呼べる人が増えることは嬉しいことである。
これからだと、約束の六時より幾分早くに着きそうなので、駐車場で仁美に電話をかける。仁美の今いる場所まで迎えに行ってやろう。
ところが仁美はもうホテルに着いていると言う。
「随分早かったんだな」
「兼六園から東茶屋の辺りまで行ってみたんですけど、途中でちょっとおなかが痛くなって。早目に引き返したんです」
「大丈夫か」
「はい。いつものことなので。じっとしていたらすぐに収まりました」
「そうか、じゃあこれから迎えに行くから、ホテルの前で待っていなさい。十五分で着く」
「わかりました」
ホテルの前のロータリーで仁美を乗せて、そのまま七尾へと向かう。
「退屈させたな」
「ううん。考えることはいっぱいありますから。あ、お仕事の方はいかがでしたか」
山側環状から津幡バイパス、そして白尾からは日本海の夕暮れを左に見ながらほとんどまっすぐな道となる。
「ああ、思ったよりもずっと若い方だったが、なかなかの人物だ。結構深い話もできたし、いくらかは役に立てたと思う。それに、社交辞令だろうが、顧問で協力してほしいとも言ってくれたよ」
「すごいなあ。そしたらしょっちゅう金沢へも来られますね」
「それは丁重にお断りした。私は今のメンバーと一緒に仕事をしている方が楽しい」
「ふうん」
「そりゃあ会社としては、キャリアワークなどとは比べ物にならない。それに、あの社長なら、まだまだ成長できると思う。しかし、元々そういう世界に関心はなかったからね」
「そうなんですか」
「自分の身の丈でできる仕事をしていきたいって言うのかな」
「あ、それ、わかります。私も大企業に入って佳織さんのように活躍するより、小さなところで何でもやらされながら、でも社員のことは何でも知っているっていうおばさんの方がいいなって思います」
「仁美ならどちらにもなれそうだ。しかし、普通に奥さんになるっていうのもあるんじゃないか」
「仁美をもらってくれる人なんかいません」
「そんなことはないと思うよ。十分可愛いし、いくらかは主婦業も板についてきた」
「それはパパさんがずっと大人だからです。父親は借金を作って蒸発、母親は重度のうつ病、本人は貧乏に耐えられなくて体を売ろうとしてた娘。仁美が男だったら、そんな女の子は選びません」
「だから、少なくとも仁美自身は輝けるようにならなきゃ」
「パパさんはいつもそう言ってくれますけど、仁美にはそんな自信はありません。でも、半年経ったら、一人で頑張っていこうという決心はできています」
「いっそ、私の養女になって、それなりのところへ嫁に行くっていうのはどうだ」
東山の言葉が、仁美には意外だったようで、俯いて考えを巡らせる。
「そんなの無理です。どうなっても両親は両親ですし、パパさんも佳織さんも大好きですけど、お二人が仲のいい夫婦でいるのを毎日近くで見ているなんて、それも辛いかなって。それに、佳織さんにはこれ以上ご迷惑をかけられません」
「佳織さんは二人が結婚した後、私が仁美のパパさんを続けることになっても、許せるかもしれないって言っていたが」
「それは今だからです。それに佳織さんには私のような劣等感はありませんから」
「どうかな。佳織さんも、普通なら一番知られたくない部分を曝け出した上での付き合いだ。随分負い目を感じているようだし、仁美と私の関係は、佳織さんと彼との関係に似ているとも言ってた」
「へえ、じゃあ、やっぱり佳織さんもずっと大人なんだ。でも、こんな私のことも許せるかもしれないなんて、いい人すぎます。ちょっと嫌いになりそう」
「そりゃあ違うよ。ただ、そんな思いもあって仁美と自分をダブらせているようなところもある。だから、いわゆる上から目線でというわけではない」
「ふうん。でも、やっぱり養女は嫌です。今でも半分は娘のように見られているとは思いますけど、パパさんの本当の娘になってしまうのは嫌」
「そうか」
「だって、こんな私に少しでも恋をしてみようって言ってくれて、仁美、嬉しかったんです。娘になっちゃったらそれもなくなってしまいますから」
「なるほど。いや、養女の話は単なる思い付きだ。仁美にはしっかり自分の人生を歩いて行ってほしい。いつまでも応援団ではいてやりたいとは思っているが、仁美にはそれも必要ないようになってもらいたい」
千里浜で日本海と分かれ、内陸へと入って行く。和倉温泉までは三十キロほどだ。
すっかり日は暮れてしまっている。
「でも、パパさんて不思議な人ですね」
「何だ、改めて」
「だって、佳織さんのこと、そんなに大切な人なのに、彼のことは気にならないんですか」
「全く。最初に知り合った時からそのことを話してくれて、そういう状態の佳織さんが好ましいと思ったからね。これから彼と別れて行くのに辛い思いをするだろう。その時に力になりたいと思った。ものの順番かな」
「そんなものなんですか」
「カウンセラーの習い性で、その人のあるがままを認める、そんな癖がついているのかもしれないね」
「じゃあ、仁美も?」
「仁美は少し違う。あるがままを放っておけなかった。カウンセラー失格だ」
「ごめんなさい」
「謝ることはない。仕事として向かい合ったならば、また対応は違ったと思うが、何だか私自身を試されている気がする」
「試されているって」
「仁美のことは可愛い。だからといってこれまでの私ならただそれだけのことで、それ以上の感情も関係も持てなかったと思う。しかし、仁美の状況がそれを許さなかった。さあ、どうするんだ。お前の狭い料簡でこの子を見捨てるのか、それでいいのか、それ以外にできることはないのか、ってね」
「やっぱり、ごめんなさい。仁美のことで悩ませてしまったようです」
「気にすることはない。悩みもしたが、それを結構楽しんでいる」
その日の宿はあえの風という旅館で、有名な加賀屋の姉妹宿だった。
「残念だな、折角温泉に来たのに」
「いいえ、そんなこと。パパさんがゆっくりできれば、私はシャワーで十分です」
部屋に入ってすぐに東山は大浴場でゆっくりと体を伸ばしてきて、八時近くになって食事をする。そして一階のバーで東山はウィスキーを飲み、仁美は初めてのアルコールだとカクテルを口にした。興味津々の様子である。
しかし、やはり東山は疲れていたようで、十時が近くなると少々眠くなってくる。
そのことに気が付いた仁美が、部屋で休みましょうと言い、東山もそれに従う。
部屋に戻ると、既に二組の布団が並べて敷かれていた。
何かが起こるかもしれないならば、仁美は大いに緊張する場面なのだろうが、この旅の期間中はどうやらその緊張は無縁のようだ。それでも恥ずかしそうに俯いている。
外の景色を見ようと窓際の洋式のソファへ行くと、仁美も向かいに座る。
「お茶でも入れましょうか」
「いや、いい」
窓からは暗い海に、漁火とかすかに湾の向こう岸の明かりが見え、静けさに包まれる。
こうして二人でいることにも随分慣れてきて、ある意味佳織との時間よりも自然体でいられることに驚く。
やはり不思議な存在である。
「静かだな」
「はい」
「お酒、初めてだったんだろう、感想は?」
「甘くて、ピリピリと刺激的で、そのうち心臓がドキドキ。気持ちもふわっとしてくるし、少し怖かったです。何だか自分がどこかへ行ってしまいそうで」
「そう言えば、まだ少し顔が赤い」
「あまり強くはないみたいです」
「さあ、これから機会が増えるとわからない。意外と飲んべになったりして」
「でも、女性が酔っぱらっている姿ってあまり好きじゃないので、できるだけ飲まないようにします」
「なるほど」
そしてまた言葉が途切れ、ゆっくりと時間が流れ始める。
「何だか夢みたいです。こんな贅沢な時間が過ごせるなんて」
「贅沢というほどのこともないが」
「やっぱり、買ってもらってよかったのかな。こうしてパパさんに守られて、明日のことを心配せずにいられて、安心できる時間をいただいて、本当の仁美に戻っているような気がします。ううん、本当の仁美なんて元々あったわけではないんですけど」
「そういう運命だったんだよ。一緒にいる時間の中で仁美がそんな風に思ってくれたら、私もうれしい」
「本当に、迷惑ではありませんか」
「まさか。私もね、何故かは分からないが、こんなにあけすけな自分でいられることに驚いている。きっと、仁美が私の何でもない存在、あ、意味がないということじゃない。恋人、婚約者、妻、娘、教え子、クライアント、家政婦、その他にもいろいろある関係のどれでもない。まあ、娘というのはもったことがないので分からないところもあるが、多分違うだろう」
「拾ってきた猫」
「はは、いや、ごく僅かだがそれはあるかもしれない」
「パパさんの好きに扱って下さい。お買い求めいただいた商品ですから」
「また言ってるな」
「でも、そうしていただかないと、仁美の気が済みません。このまま何にも起こらなければいいのにな、なんて狡い考えまで浮かんできて」
「ふむ、それも分からなくはないが。ま、あまり理屈を考えるものではないのかもしれない。今日は休もう」
「はい」
東山が布団に入ると、仁美は随分上手になった化粧を落としに洗面所へ行く。
そして、明かりを消して、東山の布団にもぐりこんでくる。
「また泣きたいのか?」
「ううん。気分だけですけど、恋人と奥さんと娘と・・・全部です」
「怖くはないのか」
「すこうし」
そう言って身を寄せてくる。そう言いながら、東山が抱きしめようとすると、胸の前でこぶしを握って固くなっている。
そして東山も、華奢で柔らかな仁美の体を初めて感じて、また一つ仁美を大切にしたいという気持ちが高まる。また一方では、こんなに若く未来のある仁美を、いつまでも東山の手元に置くわけにはいかないとも思う。
ほんの少しだけ強引に唇を合わせると、次第に仁美の固さが取れ、東山の背中に腕を回してくる。
東山が体を離すと、仁美は眼を開け、泣きだしそうな顔になる。
「本当にごめんなさい」
「気にしなくていい。少しずつだ」
「佳織さんに少しは勝てるかな」
そう言って微笑む。
「ばか」
東山が再び抱きしめると、あんと小さく甘えるような声を出して、眼を閉じて行く。
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