第6話
(六)
翌週金曜日に、東山から声をかけて、佳織と食事をすることにした。
藤田教授の手前、定期的に会っておく必要もある。そして、佳織のカウンセリングをする約束だった。
仁美には、今朝出がけに今日は佳織さんとお互いの報告会だと言うと、佳織さんを励ましてあげて下さいねと笑顔を向けた。
この間、東山のベッドで泣いた翌日から、仁美は随分明るくなっていた。お互いに複雑な関係であることに変わりはないが、少なくとも買った買われたという、おかしな距離感ではなくなっていた。
東山の隣で子供のように泣いてしまったことが恥ずかしがり、また、自分の一番弱いところを見せてしまったことで、それだけの親しさも生まれてきたようだ。
パパさんという呼び方に、父親的な響きが加わったようにも思える。
「もうパパさんと呼ばれることにも慣れましたか?」
天満橋にあるホテルのレストランで佳織と向かい合う。
「あれ?どうして佳織さんがそんなことをご存知なんですか?」
「仁美ちゃんからメールをもらいました。やっぱり可愛い子ですね」
「私は、佳織さんが光司さんとあなたは残しておいてねと言ってらしたと聞いて、随分喜んでいたのですよ」
「だって、光司さんはともかく、あなたは仁美ちゃんには似合わないでしょう」
「確かに。しかし、パパさんというのも、どんどん父親になって行くようで、嬉しいような、少し淋しいような、妙な気分ですが」
「半年経って、もしも私をもらってくれたとして、その後も仁美ちゃんとの関係が続くかもしれません。パパさんならずっとそのままでいられます」
本気なのかどうかは見当もつかないが、佳織はそんなことをさらりと言う。
「恐ろしいことを考えるんですね。そんなことにはならないでしょうが、佳織さんにとって、それは許容範囲なんですか」
「さあ。でも、否定できる立場でもありませんし、それに仁美ちゃんなら、ひょっとすると許せるかもしれません。あ、それから抱いて一晩を過ごされたようで」
「それもですか。言葉にするとそうはなりますが、意味が全く違います。それも、彼女には必要なステップだったようです。これまで一年間は全くの孤独で、随分辛い時間を過ごしていましたから。どこかで、自分のために泣いてやることがないと、次に進めません」
「私も、そうさせてもらえます?」
「もちろんです。しかし佳織さんだと、私が冷静でいられる自信はありませんが」
「カウンセラーなのに」
「仕事だと割り切れば大丈夫です。佳織さんがそれをお望みなら、残念ではありますがそのコントロールはできます」
「それも淋しいかな。やっぱり東山さんには、ちゃんと今の私を卒業して、それから一人の女として見つめてもらいたいような気がします。自信はありませんけれど」
「また、どきりとさせられる。佳織さんにはやられっぱなしです。まあ、仁美にとっては半分以上父親でいられますが、佳織さんの父親役は彼にしかできません」
「多分、今の仁美ちゃんの気持ちのいくらかは、私が彼に対して抱いているものと共通しているんじゃないかなって思うんです。だから、何となく分かってあげられる。東山さんがパパさんを続けることになっても、ある面仕方ないかなって」
「ま、私のことはともかく、佳織さんは大丈夫ですか」
「一応。終わりにしようってお互いに決めていることなんですけど、終われる自信があるのかというと、まだ、なんです」
「そうでしょうね」
「道ならぬ、とは言え三年間かけて積み上げてきたものがあるようで。そんなに急に変わることはできないと分かってはいるんですけど」
「変わる必要もないのでは?もちろん、行動は変わるのでしょうけれど」
「自分を変える必要はない?」
「無理をすることはないと思います。これまでずっと大切に思っていた人のことを次の日から忘れるなんてことはできやしません。少し変えて、少し泣いて。時間をかけてそれを繰り返していくしかない。それでもきっと、いつまでも大切な人に変わりはない。私なんかが言う資格はありませんが、たくさんの人を見てきて、どうも人の心というものはそんな風にできているようです」
「じゃあ、もうしばらく甘えて行く先は彼のところにしておきます。そんな私をもうしばらく大事にしておきます」
やはり、佳織との時間は不思議なほどに心地よい。打てば響き合い、お互いを理解するのに時間もかからない。東山の求める理解し尊敬し合える関係ができつつあると思う。
その上で、今はお互いに違う道を歩いているだけなのだ。
誰かと深い部分で信じ合えることができれば、表面的にその人が何をしているかは大きな問題ではない。
今は不倫という許されない恋に身を任せてはいても、佳織自身もそれが自分の本当に求めている姿ではないことを分かった上のことなのだ。だからと言って、その彼との関係が偽物というわけではない。その限られた時間と空間の中で、お互いに抱く感情は間違いなく真実であり、お互いに相手を思いやる気持ちも本物である。
「実はこの間から、彼との会話で、東山さんの真似をしてじっとただ聞くっていう実験をしているんです」
「ほう、カウンセリングを」
「真似をしているだけで、理論も分かっているわけじゃありません。でも、そうすると、これまで聞いたことがなかったこともたくさん話してくれます。男の人は結論しか語らないって何かで読んだことはありましたけど、本当はそれまでにいろんなことを考え迷い悩んだ結果の結論なんだということが分かってきました」
「なるほど。なかなかいいカウンセラーのようですね」
「これまであまり聞けてなかっただけみたいです」
「それが普通です。私だって、仕事だからできることなんですから」
「そうすると、今更なんですけど、彼のことあまり分かってなかったなって気が付いたり、彼も言えなかったことが言える存在と思ってくれているようで、これまでの関係とは少しずつ変わっているような気がします」
「ほう」
「親しさって言うのでしょうか、一緒にいて、人と人として安心していられる関係」
「長く付き合っていると、次第にそうなって行くのが普通なのでしょうが」
「そうかもしれません。これまで彼とは普通ではありませんでしたから。でも、そういう関係が強くなっていくと、お別れするのにじたばたせずに済むような気もします」
「佳織さんなら大丈夫ですよ。お互いに深い部分での理解があれば、湧き上がってくる辛い気持ちもその位置関係が把握できます」
「位置関係?」
「湧き上がってくる気持ちを、理由と意味の座標軸で考えるんです。例えば、会えなくて淋しいという気持ち。まだ自分の中に不完全燃焼の部分があるのか、それとも習慣を変えてまだその状態に慣れていないだけなのか。これが理由の軸です。そして、その淋しさは、耐えていける自信もないほどのことなのか、それともそんな自分も少し楽しめる程度のものなのか。これが意味の軸ということになります」
「ふうん、何となくですけど、分かるような気がします」
「だからと言って、湧き上がってくる気持ちは嘘じゃありません。淋しいものは淋しいし、悲しいものは悲しい。それをごまかしたり否定するのではなく、そのまま受け止めてあげなくてはいけません。自分のために泣いてあげるべきなんです。そうしないと次へは進めない」
「だから、仁美ちゃんの涙も必要なステップなんですね」
「だと思っています。あるがままの自分に向き合うことは意外に難しいものです。私たちはそのお手伝いをする、或いは一緒に歩いてその人を支えるわけです。一人では泣けないときでも、誰かが受け止めてあげれば安心して泣ける」
「こんなパパさんに出会えて仁美ちゃんは本当に幸運ですね」
「いいえ、そんなことはカウンセラーなら誰でも知っていますし、できることです。だから、カウンセリングという何もしない職業が成立するわけで。仁美について言えば、初めて自分を売ろうとした日にカウンセラーに出会ったという点では、幸運とも言えますが」
「でも、そんな東山さんのこと、半年で卒業していけるのかなって、ちょっと心配になります。それに東山さんも」
「私もですか」
「そんな風に大切に思うようになって、よちよち歩きの仁美ちゃんを放り出せますか?」
「まあ、そういう意味では確かにちょっと重症かもしれません。ただ、放り出したりはしませんが、私の中では、先ほどの位置関係はでき上がっていますから」
「仁美ちゃんも東山さんも、うらやましい」
「いつかの私と同じことを言ってらっしゃる」
「あ、そうですね」
「私もようやく佳織さんの気持ちが分かりかけているんですよ。これまで経験したことのない気持ちです。いい勉強をさせてもらっていますから、もうしばらく流されていようと」
「そんな東山さん、とっても素敵です。ひょっとしたら、私の卒業が少し早まってしまうかもしれません。でもいいんです。どんな感情も味わいつくさないと次へは進めないものなんでしょう?カウンセリングの本にそう書いてました」
「いつの間にそんな勉強を。私より優秀なカウンセラーになりそうですね」
「私も会社を辞めて、東山さんのところで雇ってもらおうかな」
「はは、それは困ります。とても一人の社員としては見られません」
出会った日から、気が合いお互いを理解し尊敬し合えそうだと、そして、彼を卒業した後の佳織を見てみたいと漠然と思っていた。次第に、それを待たずして佳織と共に人生を歩いて行きたいと思う気持ちは動かないものになりつつある。
しかし一方では、仁美に対するあやふやながらも大切にしたいという気持ちもある。
仮に佳織がいなくても、とても人生を委ねられるものではない。その感情はこれまでの東山なら迷うことなく否定しただろう。ところが今は、それも間違いなく自分の一部であると認めざるを得ない。
佳織を見送って、東山は久しぶりにモリを訪ねてみることにした。
ドアを開けると、聞きなれたカランという音がする。
いつものようにカウンターの端へ座ると、この間紹介された新人のエリが、東山の顔を見て例の花街流のお辞儀で迎えてくれた。
モリでの仕事にも慣れましたかと尋ねると、これまでは花街の狭い世界の中だけで生きていたことを思い知らされてますと言う。
花街のしきたりや芸事の厳しさを聞いていると、やはり特殊な世界であるようだ。一五、六でお座敷に出るようになり、昼間は稽古に忙しい。昔ほどではないが、世間のことは何一つと言っていいほど知らないまま過ごしていたようだ。
そして、広くなった世界を自由に駆け回るために、まず教習所へ行き免許を取るつもりだという。
そんな話をしていると、やがて手が空いたママが隣へ座る。
「やっと結婚相手を見つけましたよ」
「あらあ、そうですか。おめでとうさんです」
「それに、仔猫を一人拾いましてね」
「何ですのん?仔猫やなんて」
東山は、佳織との出会いと将来を考えている気持ち、そして仁美との偶然と半年の契約を話してやる。
東山自身がわけが分からないでいるのだから、いくら長い付き合いとはいえ、これにはさすがに呆れるだろうと思っていた。
ところがママは、その偶然には驚いたものの、東山の佳織と仁美に向かう気持ちについては、さして驚くこともない。
佳織に向かう再婚相手としての気持ちは当然であり、仁美に向ける気持ちも東山の年齢になれば自然に湧いてくるものだと言うのだ。
ママによると、男も四十を過ぎて、一つの顔しかないようでは魅力に欠けるそうだ。それは何も女性に関してだけのことではなく、仕事でもいくつもの顔を持ち、それらが全て本当の顔になる時が来ると言う。
「それにしても五百万。ええ気風してはる。そうでないとあきません。中途半端なことでは義理や罪悪感を持つばかりで、いつまででも割り切れんところが残ります。さすがに社長、うちも社長に拾われたかったなあ」
東山との付き合いも長いが、こうした店で多くの人生を見つめてきたママの言葉なので、何かしら勇気づけられてしまう。
さらに、仁美を女性として扱うかどうかは、大切に考えてやることが必ずしも仁美のためにはならないかもしれないと言う。
そんな日が来るのかどうか分からない、或いはいつなのかが分からないような状態では次に進めない。少々強引でもその方が安心もできるし、女はそこからがスタートで、早く独り立ちさせ、歩き始めさせるには東山も決心してやらなくてはならないらしい。
こればかりは、東山もそれが正しいのかどうか判断できない。
「そんなものですか」
「はい。何せ五百万の値の付いた初体験やなんて女冥利です。まして自分を助けてくれた恩人にやったら、恋愛ごっこの彼氏よりずっと価値のあるもんになります」
ママの言葉には驚かされるばかりだった。
貧しさに疲れて思い詰めていた仁美を、ゆっくりと立ち直らせ、時間をかけて見てやりたいと思う気持ちが必ずしも正しいとは言えないらしい。
カウンセラーとクライアントの関係と、男と女という関係では、どうやら心の扱い方が異なるようだ。もちろん東山のカウンセラーとしての考え方には自信がある。これまで、どんな場合でも、それで上手くクライアントは立ち直って行った。しかし、当事者同士となるとそれだけではない何かがあるようだ。
新たな疑問符を持ちながら店を後にする。
マンションのドアを開けるのに、どんな顔をすればよいのか迷う。
ただ、いくら考えても結論の出るはずもなく、結局は、流れに任せることにしようと、思い直す。十一時を回っていて、その仁美はもう休んでいるかもしれないのだ。
鍵を回して、小さめの声でただいま、と声をかける。
仁美は起きて待っていたようで、小走りで玄関まで出迎えてくれる。そして、神妙にお帰りなさいと言う。
「遅くなってすまない。先に休んでいてよかったのに」
「そういうわけにはいきません。疲れて帰って来る旦那様に笑顔を向けるのも奥さんの仕事です」
「栄子さんらしいな。きっと彼女はそうしてあげたかったんだろう」
「そう仰ってました」
仁美は秋らしく、紺に細いオレンジの格子の入ったワンピースに短いカーデガンと落ち着いた衣装である。
「そのワンピース、初めてだな。秋らしくていい」
リビングのソファに座りながらほめてやる。
「仁美が初めて自分で選んだんです。ちょっと大人っぽいかなとは思ったんですけど」
「そんなことはない。うん、それだとショートカットの方が似合うな」
「良かった。ほっとしました。コーヒー、入れましょうか」
「そうだな。エスプレッソで頼む」
やがてお揃いのマグカップでコーヒーが出てくる。
「お、カップも買ったのか」
「はい。安いものですけど、パパさんと仁美とお揃いにしました」
そう言って、笑顔を向ける。
初めて仁美は自分のことを仁美と呼んだ。それは、仁美が自分を取り戻してきている証拠でもあり。東山に遠慮することなく心を開いている証拠でもある。
「初めて、自分のことを仁美って呼んだな」
「あ、ほんとだ。ごめんなさい、馴れ馴れしく」
自分でも無意識にだったようで、少し恥ずかしがる。
「いいや、私はその方が嬉しい。これからもそうしてほしい」
「はい」
二人の間にも親しさが生まれてきている。
仁美にとってその親しさは、無条件に甘えられる相手としてのものだろう。
東山が仁美を求めてしまうことは、ようやく安定しかかっている心に、また新たな悩みを持ち込むことになってしまうのではないかと思うのだ。
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