第8話

   (八)

 翌朝、東山が目覚めると、仁美は変わらずに東山の腕を枕に、少し丸くなったまますやすやと眠っていた。

 そんな安心しきった顔を見ていると、いくらかでも一人の女性として衝動を持ってしまうことが許されないことのようにも思えてくる。

 東山にとって仁美がどんな存在でもないのと同じで、仁美にとっても東山は特定の意味や役割を持った存在ではないのだろう。父親でもなく、恋人でもなく、もちろん亭主でもない。契約だと言いながらも雇い主というわけでもなく、カウンセラーという役割は自分で放棄してしまった。

 それでいて、こうして居心地よく体を寄せていられる存在なのだ。

 年齢とともに、お互いの人生のステージが違いすぎるために、どの存在にもなれないのかもしれない。

 一般的に人と人の間に関係性が生まれるのは、そうした特定の役割を通してのことであり、心を通わせるとしてもその役割に応じてのものである。役割がはっきりしていることで安心もでき、自分がどうあるべきかを迷うこともない。

 だから、その定義のできない者同士が親しくなることはあまりない。

 ところが、偶然がいくつか重なったせいで、普通ならば寄り添うことのない二人が、近づくことになった。そのために、お互いにどんな定義をすればよいのかが分からない。

 だからといって、そこに生まれてきた愛情とも言える感情が偽物というわけではない。どの枠組みにも当てはまらないだけで、二人の間に育ちつつある関係性は確実にある。むしろ、枠組みがないために、ある役割に制限されることもない。

 ただ、定義ができない関係性というのは、やはりとらえどころがなく不安定でもある。

 これまで東山が、自分の心を整理しようと考えたのは、その定義をすることで自分の役割を決めようとしていたようだ。その方が安心できるために、無意識にそうしようとしてしまっていたのだ。

「そういうことか。無理をして、役割を決めることもない」

 心の中でそう呟く。ある意味、そういった立場だの役割だのという義務や責任が伴わない愛情、何の打算もなくお互いに相手を大切に思う気持ちこそ、純粋なものかもしれないと思えてくる。

 社会の中で定義される一般的な役割がないならば、二人は単なる人と人であり、男と女であることしか残らない。

 佳織と不倫相手の彼も、これも一般に社会的にはあって無いような関係である。その中で彼を大切に思う気持ちは、ある意味純粋だとも言える。そうした社会的には許されるものではない純粋な気持ちを東山は羨ましいと思った。

 東山にとって佳織の存在は全く逆で、感情よりも先に、結婚相手という枠組みが決まっている中での出会いだったのだ。

 そういう意味では、その時に羨ましいと思った感情を東山も今まさに経験している。

 そんなことを考えていると、やがて仁美が目を覚ます。

 子供のように目覚めたことに少し驚いたような顔をする。そして、自分を見つめる東山の視線に出会い、恥ずかしそうに東山の肩に顔をうずめる。

「おはようございます。パパさん、いつから起きていたのですか」

「ほんの少し前だ」

「起こしてくれればよかったのに」

「いや、仁美の寝顔をもっと見ていたかったくらいだ」

「恥ずかしいです」

 東山は、二人の関係性について今しがた考えていたことを話してやる。

 仁美は、そんな東山の顔をじっと見上げている。

「でも、パパさんにはちゃんとした役割があります。仁美の飼い主様で、初めての人」

「飼い主なんて言うのはやめなさい。それに初めてのっていうのは役割かな」

「女の子にとっては大切な役割です。仁美にとっては全部初めてのことなんですから」

「これまで、お付き合いをしたこともないのか」

「そんな余裕は、とてもありませんでした」

「それも辛いな」

「だから、昨日がファーストキスです」

「だろうと思った」

「それにこうして抱きしめられることも初めてです。また一人知らない自分と会えました」

「知らない自分って?」

「お酒もちょっと怖いなって思ったんですけど、もっと怖い気がしました。あ、怖いというのは少し違うかな。何だか柔らかで優しい気持ちが溢れてきて、それでいてとっても切なくて、ずうっとこのままでいたいなって。仁美の体だし仁美の心なのに、女の子ってこんなに変わるんだって、ちょっと驚きました」

 そう言って恥ずかしそうにちらと東山を見る。

「私はこのままでもいいんだよ」

「そんな。それでは仁美は施しを受けるだけになってしまいます」

「仁美の体が欲しくて、半年を買ったわけじゃない」

「ふうん。でも男の人はみんなそうだって、アキさん、あ、アパートのお隣の人はそう言ってました」

「その人の店に来る人はそうだろうが、私は金で女性を買おうとは思わない。実は、大昔に一度だけ先輩に連れられてそういうところへ行ったことがある。その時に、相手をしてくれた女性を見ていて、仁美と同じだ、生きるためとはいえ、どうにも可哀想で申し訳なくてね。そりゃあ向こうはプロだから割り切っているとは思うが」

「優しいんですね」

「優しいのとは少し違う。そういう主義だ。私は仁美の半年の時間を買った。こうして近くでいてくれれば、それ以上を無理に望む気はない。仁美だってそうだろう」

「今のままでいたいような気もします。でも、佳織さんに少しは勝ってみたいし、それに、女の子が一度は通る道なら、パパさんにって気もします。よく分かりません」

 やはり仁美も、自分の存在をどう定義すればいいのか分からないのだ。

 そして、遅い朝食となった。

 今日の仁美は、ベージュの柔らかな生地のワンピースで、少し広めの襟回りと長袖の先に刺繍飾りのある、シンプルではあるが大人っぽい装いである。そのままだと上品で落ち着いて見えるが、ちょっとした仕草で体のラインが現れて、逆に色っぽく見える。東山が仁美の体を自分の腕で感じたためにそう思うのかもしれない。その上に白の薄手のカーデガンをはおる。そして、ヒールの少し高いパンプス。

「今日は随分大人っぽい服装だな」

「少し背伸びをしてみました。佳織さんがよく行くお店で選んでもらって」

「そう、センスのいい店のようだ。よく似合っている」

「ありがとうございます」

「最初に着て帰った幼く見えるようなものも、こうして少しエレガントなものも。どっちが本当の仁美なんだろう」

「大人と子供の間にいるのかなって思います」

「そうか、そういう年頃だな」

 十時を過ぎて、宿を発ち、能登島大橋を渡ると、内海の穏やかな世界が広がる。

 ガラス美術館でアールヌーボーの作品を見て回り、屋外庭園からしばらく海を眺めてから、輪島へと向かった。

 仁美が関心を持っていた、輪島塗会館や美術館、そして老舗の工房を訪ねた。

 東山も輪島塗が高級な漆器だという程度の知識しかなく、使ったことはもちろん手に触れたこともなかった。

 実際に手に取ると、その細工の精巧さや色合いや質感から、温かみと深みを感じることができる。今の暮らしぶりはつい洋風に流されてはいるが、こうして和の歴史と名工による作品に接すると、これも悪くないと思えてくる。

 仁美が工房のご主人に作り方を尋ねると、気さくに答えてくれる。

 輪島塗はその製造過程が法律で定められている。いくつもの工程を決められた通りに経ていなければ、輪島塗と呼んではいけない。それだけの手間をかけるために、見かけの値段は他の塗り物に比べると高くなる。しかし、それだけの技術に支えられているために、はるかに長持ちもする。そして、製造過程が決められているために、ちょっとした傷みなら完全に修復もできる。

 また、漆は水によって硬度が増すために使えば使うほど丈夫になり、十五年使ってようやく一人前だと言うのだ。そう考えると少々値段が高くてもそれだけの価値があるというのも頷ける。

 仁美が主婦の感覚で、日頃の手入れについて尋ねると、それにも丁寧に答えてくれる。使い方についてもあれこれ教えてもらっている。

 そうしていると、着ているもののせいもあって少しだけ大人っぽく見え、爽やかな上品さが伝わってくる。以前の育ちの良さが表れているようだ。

 ご主人は仁美を奥さんと呼び、夫婦椀と箸のセットを勧める。そして東山を指してご主人にはこういう落ち着いたものが似合い、長く使えるものだと言っている。

 仁美は奥さんと言われたことが嬉しかったようで、すっかりその気になって東山を振返る。いつまでも一緒に使うことはできないのは分かっていたが、そのまま仁美の嫁入道具にするのもいいだろうと、その視線に頷く。値段も三万円と手ごろであり、求めることにした。先ほどのぞいた輪島塗会館では、塗り盆や茶道の棗一つが百万円近くもするものが並んでいた。さすがにそこまでになると東山もおいそれとは手が出せない。

「奥さんですって」

 工房を出て、照れ笑いをしながら東山を見る。

「随分年の離れた夫婦だ。きっとご主人は、ちょっと訳ありのカップルと見抜いて、仁美を喜ばすためにそう言ったんだよ」

「そうでしょうか。奥様には見えません?」

「無理じゃないか。まあ、今日の仁美は少し年上に見えるから、娘には見えなかったのかもしれないが」

 仁美は少し不満そうな顔をして見せて、肩をすくめる。

 そして、少し足を伸ばして門前町にある天領時代からの古い街並みを歩き、夕方には引き返して白米千枚田を訪れた。もう稲の収穫も終わり、今は乾いた田と畦道になってはいるが、魚の鱗のように狭いたんぼが幾重にも重なる絶景であった。ちょうど日暮れの時間であり、日本海に沈んでいく夕日とともに棚田が赤く染まって行くのを見ていると時間の経つのを忘れてしまう。

 やがて日が陰ると肌寒くなり、早目に宿へチェックインすることにした。

 その棚田から遠くない能登の庄という宿で、道を隔てて眼の前がすぐ海という情緒豊かな純和風の旅館である。

 女性客にはお洒落に浴衣姿を楽しんでもらおうと、二百種類もの異なる模様の浴衣が準備されている。それも、いかにも旅館の浴衣というものではなく、季節が良ければそのまま涼みに出られるものだ。仁美は落ち着いた赤地に白抜きのなでしこがちりばめられているものを選び、芥子色の帯も一文字に結ばれている。

 そんな姿を見ると、また娘のような気になる。

「おかしくないですか」

 そう言って、袖を揺らしながら、くるりとひと回りして見せる。

「ああ、とても可愛い」

 やがて内線で連絡があり、部屋へ食事が運ばれてくる。東山は燗酒を一本頼んだ。

 料理も海の幸をふんだんに使った手のかかったものである。何より全ての器が、今日見て回った輪島塗で、食材の彩を活かし落ち着いた演出となっている。

 乾杯しようと日本酒をぐい飲みに半分ほど注いでやる。

 恐る恐る口にしたものの、すぐに眉をしかめ、これが美味しいのですかと首を振る。

 昨日はまだ豪華に並んだ料理を前に幾分緊張していたが、今日はすっかり慣れて、東山の酌をしたり、ご飯を装ったりするのにも余裕が見て取れる。若い娘の順応性には驚かされる。

 一般的には女性の仲居さんが料理や酒を運んでくれるのだろうが、三十前後の男性が世話をしてくれた。

 東山が率直に、輪島塗の器が料理を引き立たせていると褒めると、彼もまたその歴史や技術を詳しく話してくれる。輪島の人は皆そういった知識があるのかと尋ねてみた。すると、彼の生家が輪島塗の工房で、今はその修行の一環としてこの宿で器の管理や客を知ることを学んでいると言う。道理で詳しいはずだ。

 実はと、今二人が日本酒を飲んだぐい飲みは彼が削り出したものだと遠慮がちに教えてくれた。そして、昼間訪れた工房の話をすると、偶然にもその工房こそが彼の生家であり、仁美があれこれと教えてもらったのは彼の父親だった。

 そんな偶然に出会うのも旅の楽しさの一つである。

 食事を済ませると、またゆっくりとした夜の時間に包まれていく。

 仁美は窓際のソファに浅く腰掛けて、暗い海とすぐ下の道をたまに行き交う車の灯り見ている。その表情に一度はすっかり消えていた陰りが少し戻っている。

 いくら若い娘とはいえ、それほど急に自分自身が変わってしまうことはない。行きつ戻りつしながら変わって行くものなのだ。

「どうした?死にたくでもなったか」

 東山は向かいに座りながら、仁美の顔を覗き込む。

「どうして、いつも仁美の考えていることが分かるのですか」

「見ていれば分かる。顔にそう書いてある」

「はい、少し。パパさんや佳織さん、栄子さんにも優しくされて、こんな贅沢もさせていただいて、何だかもう思い残すことはないような気になっていました」

「ちょっと変化が急すぎたかな。仁美が戸惑うのもわかる」

「不思議ですけど、あの頃の自分が懐かしいって。生きて行くのに精いっぱいで、将来の夢も目標も無くしてましたけど、不安は今の方が大きいかも」

「諦めの中の安心、自由の中の不安というものかな。おまけに自分がどんどん変わって行くことへの不安もある。それも必要なステップだ」

「こうして安心な世界に慣れてしまうと、出口が分からなくなりそうです」

「大丈夫だよ。誰でもそういう時間を過ごして、ちゃんと自分の人生を歩くことになる。親元で何不自由なく甘えて生きていて、将来の自分も分かっちゃいない。それでも時期が来ればそれぞれに歩き始める。今の仁美はそういう時期だ。普通は親元であるのが、こんな変わったおじさんと一緒というのが珍しいだけで、意味としては同じだ」

「パパさんが言ってた、本当の人生というものですよね」

「そういうこと」

「でも、それはどうしても必要ですか。ここで終わってはいけませんか」

「ああ、それだけはダメだ。少なくとも半年は私のために輝いて生きる約束だ」

「それはそうですけど」

 ようやく普通の二十一歳の女性になりつつあるとは思う。とはいえ、まだひと月であり、変化のスピードが速すぎたのかもしれないとも思える。

 一度リセットしてしまった仁美の人生である。

 一旦壊れたジグソーパズルのように、一つ一つのパーツを見つめ直し、悩みの中で歪んでしまった部分を捨て、新しい自分に組み合わせて行くのだ。その結果、どんな自分ができ上がるのかは仁美にも分からないのだろう。

 やはり、半年程度の時間はどうしても必要のようだ。

 そしてその先、どうやって生計を立てて行くか。

 これからの半年でいくらかでもそれを見つけてやらなければならない。

 仁美は、昨日と同じように、東山の腕の中で丸くなっている。その背中を優しく叩いて寝かしつけながら、さてどうしたものかと思いを巡らせるのだった。

 翌日は、早くからから朝市へと向かい、栄子さんへの土産に、漁が解禁になったばかりの蟹と干物を買う。

 仁美は昨日とは打って変わって、娘らしく短めのニットのワンピースに膝までのブーツ姿である。そうしていると身のこなしや仕草までが若々しくなる。どう見ても親子連れに見えるようで、東山は売り子のおばさんから何の迷いもなくお父ちゃんと声をかけられてしまった。

 それも悪くはない。

 昼前に輪島を発ち、再び金沢へ寄る。市街地の外れに金箔細工の工房、展示室、土産物屋がある。そこで、館内を見て回って、仁美に何か買ってやろうと言うと、仁美は店の中を迷いながら見て回り、小さな四角いコンパクトを選んだ。値段は三千円ほどのもので、確かに可愛らしいデザインで娘らしいものではある。遠慮する気持ちもあったのかもしれないが、これならどんな服装でもおかしくはないし、パパさんにいただいたものをいつも持っていられますからと言う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る