第5話

   (五)

 翌日、十時半に佳織が迎えに来て、丸一日を付き合ってくれた。

 申し訳ないと思いながら、そうした佳織の面倒見の良さと中途半端にできないところも魅力の一つだと思える。

 月曜日、八時に栄子さんが来てくれて、仁美を引き合わせた。

 顔を合わせたときには、東山が利用されているのではないかと、幾分訝しむ表情で仁美を見ていた。いくら事情があるからといって、見ず知らずの娘をそのまま引き取って面倒をみるというのだ。栄子さんに限らず、常識的には不自然さを感じるだろう。

 だが、少し話をすると、そんな心配もすぐに消えたようだ。

「光司さん、本当にこんなお嬢さんを?」

 五百万で買ったのかと、言葉にはしないが、そう尋ねている。

 それまでの仁美とは全く別人であり、いくらか痩せすぎているところを除けば、生活苦に喘いでいた雰囲気はどこにもない。同時に、悩んだ挙句とはいえ自分を買ってくれなどと言い出すとはとても思えない。

「はい。経緯は本人から詳しく聞いてやってください。見ての通り世間知らずで、金曜日までは本当に貧乏学生だったのです。ですから、料理や家事全般、お茶やお華といった一般教養にしても勉強する余裕はなかったはずです。全てをというわけにはいかないでしょうが、半年間、お手数をかけますが仕込んでやって下さい」

「私も何ができるというわけではありませんけど、できる限りは。でも、その後はどうなさるおつもりなんですか」

「まだ具体的ではありませんが、まあ、半年後、卒業した後は元のアパートへ戻して、

就職のアドバイスはしてやろうかと。それが本業ですから。その後は自分で生きて行かなくてはいけません。少しお話しましたように、頼って行けるところもないようですから、甘やかさないで下さい」

 仁美は、そんなやりとりを神妙な顔をして聞いていた。

 では、今日からよろしくお願いしますと、栄子さんに仁美を預けて、仕事に向かうことにする。これからだと、定刻の九時には間に合いそうにないが、自分のクライアントの予約が入っていなければ、必ずしも時間を守る必要もない。

 東山が玄関を出ようとすると、早速、栄子さんに指示されて、慌てて見送りにきて、行ってらっしゃいませと丁寧に頭を下げる。

 あまり家政婦然となってしまうと、他人行儀にもなり少し淋しい気もするが、こうして毎朝見送ってくれる人がいることに悪い気はしない。

 半年後にはどうするのかと栄子さんに言われて、やはりそれも十分考えておかなければならないことだと思う。漫然と過ごしてしまえば、半年という期間は思っているよりも早く過ぎてしまうものだ。

 そんなことを思いながら、電車に揺られて、十時少し前には事務所に着く。

 今日は午後に一件クライアントがあるだけなので、それ以外の時間は、土日に投げ出してしまった論文の要約と講義の資料作りにあてることにする。

 キャリアワークと親しみやすいロゴの入った事務所のドアを開けると、受付の遠藤さんがおはようございますと笑顔を向けてくれる。その笑顔におはようございますと丁寧に返して、東山専用の面談室兼社長室に入る。

 これだけの規模の事務所なので、社長室などというものを置く余裕はない。クライアントがあればそのまま面談室になる。少し大きめのテーブルと部屋の隅にカルテを入れるキャビネットとパソコンがあるだけの殺風景な社長室である。

 隣のオープンスペースには、事務職の仁科さんのデスクがある。会計、経理、給与計算といった一般事務から、広告宣伝やマーケティング、そしてほんのわずかではあるが秘書的な業務まで幅広く担当してもらっている。彼女は大学を出て四年目になるが、思っていたよりも遥かに優秀で、新しい仕事を自分で見つけては進言してきてくれる。容姿もまずまずで、佳織のその年頃はこういうイメージだったのかもしれないと思う。

 おはようございますとお茶を入れてきてくれる。他のスタッフはコーヒーサーバーでセルフサービスである。

 これが唯一、ここで受けられる特別扱いだ。

「いつもありがとう」

「社長、早速なんですが、お時間よろしいですか」

「何ですか。新しい提案?」

「はい。これをご覧下さい」

 資料は、健康保険連合会のまとめたもので、各企業におけるメンタルヘルスへの取り組み状況という報告書だった。

 仁科さんによると、その中で最近増えてきた企業内カウンセリングルームの設置について、ビジネスチャンスがあると言うのだ。

 現在、問題意識を持ちながら踏み切れないでいる会社の特徴を抽出して営業をかけ、一社でも受注できれば、業界として他社でも検討されることになる。

 同業種の中で、商売についてはしのぎを削っていても、福利厚生や健康管理という面では、競争関係にあるわけではない。むしろ情報共有が進んでおり、そうした担当者の連絡会がある業種もある。また、自前でカウンセラーを育成して行くノウハウはそう簡単にできるものではない。

 そうした企業内カウンセリングルームの運営とカウンセラーの派遣を受託できれば、安定的に売り上げを伸ばすことができるという。

 これまでは、会社の人事系のセクションにキャリアワークを紹介し、社員に必要が生じた場合は気軽に訪問させてほしいという草の根セールスが主であった。それによってすそ野を広げ、また実際に利用したクライアントの口コミでこれまで順調に顧客を広げてきた。仕事柄それが本筋であることは今後も変わらない。

 現実的には、各社の考え方や風土によってニーズが異なる。それに対応できるカウンセラーをキャリアワークとしてどうやって確保していくか、ミスマッチが起きたときにそのバックアップをどうするかなど、いくつかの懸念されるポイントはある。

 ただ、おおむね考え方に間違いのないアイデアならば、実現の方法を先に検討してみるべきだというのが、東山の方針である。それは、藤田教授からの教えでもある。

「面白いじゃないですか。よく見つけましたね。早速みんなで考えましょう。来月のミーティングに間に合うように、もう少し詳しい企画を出して下さい」

「承知しました」

 他のカウンセラーたちは、ある面そうでなくてはいけないのだが、職人気質であり、経営的な面への関心はあまりない。そういう中で仁科さんは貴重な存在である。

 その後は、昼前まで大学の仕事に集中し、ようやく目鼻がついてきた。

 午後になってクライアントとの面談を済ませ、仁科さんから回ってくる月次の決算書類やメンバーからの出張申請に目を通して印鑑を押す。今月もまずまずの残高が確保できているようだ。

 そこへ、藤田教授から電話があった。

 佳織との縁でより近い関係になり、電話の向こうに笑顔が見える。しかし、今日は純粋に仕事の話だった。

 教授が社外監査役として付き合いのある会社の社長から、社内カウンセリングルームについて話を聞かせてほしいという依頼があるというのだ。今朝ほど話題になったばかりである。

 石川工業という精密機器とソフトウェア開発の会社で五年ほど前に上場したばかりの、まだ若い会社である。名前の通り石川県金沢に本社を置き、地元企業として自治体からも期待されている会社のようだ。

 競争の厳しい分野の会社であり、急ピッチで拡大をしてきたために、組織文化、社員教育、福利厚生といった面ではやはり歴史もノウハウもない。社員の平均年齢も若く、それぞれ優秀であっても精神的には脆い部分がある。ちょっとした失敗やストレスで参ってしまうのだ。それが直接の理由なのかどうかは定かではないが、年間の離職率も高い。

 社長もまだ若く、いろいろ思案をしているらしい。

 そして、どうせ費用をかけるならば、他の歴史のある会社にはない新しい施策を打ち出したい。その一つとして最近注目されつつある、社員のメンタルヘルスを中心に考え、そのためにカウンセリングルームにも関心がある。

 ところが、カウンセリングそのものについてもよく分からない。まして、そうした機能を社内に常設することのメリットや、その位置付けについても見当がつかず、判断できずにいるようだ。

 そこで、ビジネスチャンスになるかどうかは別にして、一度その社長に話を聞かせてやってほしいと言うのが教授の依頼だった。

 東山は二つ返事で了解した。金沢となると、現実的にはキャリアワークが引き受けるわけにはいかないだろう。ただ、広い意味でそうした理解者を増やしていけば、巡り巡って他でどんな縁ができるかもしれないとも思える。

 何より、佳織の父親としての義理もある。

 教授から話は通しておくので、都合の良い時に連絡を取ってほしいと、名前と電話番号を伝えられた。

 おそらく、教授は今日明日には連絡をするだろう。しかし、いきなりでは先方もニーズや情報を整理する時間がないだろうと、二、三日後に電話をすることにした。

 やがて五時になり、メンバーはそれぞれ報告書を作成して退社していく。個人性の高い仕事でもあるので、仕事のペースもそれぞれに任せてある。

 月に一度程度は、東山から声をかけて飲みに行くこともあるが、それ以外は必要以上に干渉しないようにしている。

 そろそろ帰ろうかと思っているところへ、チーフカウンセラーの高杉が顔をのぞかせた。年齢も一歳違いで、同世代である。私立大学の文学部で心理学を学んだ後、国立の医学系大学院へ進み、臨床心理士の資格も持っている。

「よろしいですか、ちょっとご相談したいことがあって」

「もちろんです。何でしょうか」

「実は、大学の後輩がカウンセラー志望で、就職先を探していましてね。ここの話をしてやりましたら、アルバイトでも雇ってもらえないかと」

「ほう、それはありがたい話ですね。見どころはありそうなんですか」

「いい奴だとは思いますが、実践でどうかはやらせてみないと何とも」

「まあ、最初はそんなものでしょうね。しばらくは高杉さんがスーパーバイズしていただきながら、経験させていけばいいんじゃないですか。一度会わせて下さい」

「そうですね、履歴書持って来させます」

「しかし、フルタイムとなると面談室がやりくりできるかな」

「しばらくはアルバイトかパートで経験を積ませてから考えてやれば十分ですよ」

「まあ、おかげでお客様も順調に増えていますから、少し事務所を広げてもいいのかもしれませんけどね」

「そうですよ、社長室も別に作って、『らしく』されてもいいのでは」

「よしてください、私もまだ現役でいたいんですから。それに、『らしく』なんかなる気はありません」

「とはいっても、会社としてはそろそろ営業や企画の方にも力を入れる時期では?」

「確かに仁科さん一人に頼ってはいられないのも事実なんですけどね。高杉さんにも役員になってもらって、共同経営というのも考えてはいるんです」

「それこそよしてくださいですよ。私こそ、これがやりたくてここにいるんですから。私には数字の才能はありません」

「そりゃお互い様です」

「ま、それは別にして、後輩の件は紹介させていただきます」

「わかりました」

 まだ残って事務処理をしている仁科さんに、あとはよろしくと声をかけて退出する。

 そして翌日、仁美の銀行口座を聞いて、契約金を振り込んだ。

 佳織は洋服も含めると五十万ほどかかったとは言っていたが、それを差し引いて振り込むのも何だか商売上の取引のような気がする。洒落のつもりで、最初に渡した一万円だけを引いて四百九十九万を入金した。

 仁美に通帳と勝手に作った印鑑を渡す。

「パパさん、この間のお買い物の分、差し引いていただかないと」

「あれは私と佳織さんからのプレゼントだ」

「でも」

「その分、割増しで素敵な人になってくれればいい」

「そんな自信がありません」

「私のわがままだ。文句を言わない」

「は・・・い」

「さて、これからのことも考えておかないといけない」

「はい」

「とりあえず、ここで疲れた体と心を休ませること。それにはまず、甘えることと自分を甘やかすことを覚えないといけない」

「そうなんですか。かえってダメな子になってしまうような気がします」

「普通は、皆その中で自分を育てていく。仁美は長い間、それができなかった。私や栄子さんが親代わり、佳織さんはお姉さんかな。ゆっくりと自分を見つめ直して本来の仁美を取り戻そう。その時間はある。いくらか贅沢もすればいい」

 東山のそれだけの言葉に、眼に涙を溜める。外見は随分変わっても、心の中は変わらずに孤独であることが分かる。

「やがては、しっかりと自分の人生を歩いていけるようにならなければいけない。それにはもう少し強くなることも必要かな」

「でもどうしたら強くなれますか」

「性格や考え方、できることやできないこと、全部まとめて今の自分はこれでいいんだって、自分で認めてやることからかな。いい意味での開き直りだ。これまで精一杯頑張ってきたんだから、まずはそんな自分を認めてやることだ」

「今の私は変わらないけど、それをどう考えるかは自分次第ってことですか」

「そういうこと。そして、少しずつ自信を持てることを作って行く。大きなことじゃなくてもいい。例えば家の中のことが何でもこなせるようになることも一人前の条件だろう。いずれはちゃんと就職もして独り立ちしていかないといけないが、それを考えるのはずっと先だ」

 東山も、おおよその方向性と目標を考えてはいたものの、仕事としてのカウンセリングと同様に具体的なスケジュールが立てられるものではない。半年の間、その時その時の仁美を見ながら、一緒に考えて行ってやろうと思う。

 水曜日は大学の仕事が早く終わったので、予定よりも随分早く家に帰った。

 いつもきちんとした服で出迎えてくれていた仁美が、スエット姿で栄子さんから教えてもらいながら、夕食の準備をしていた。尋ねると、日中は動き易いまた汚れてもいい服装で過ごしていて、東山の帰る時間帯を見計らって着かえていたらしい。栄子さんからは、それが奥さんとしての心構えの一つであり、いくら慣れてきてもご主人の前では頑張ってきれいでいなくてはならないと教えられたようだ。

 そうした細かいところまでしつけてくれていることがありがたい。東山ではとても思いもつかない点なのだ。

 まだ台所仕事があるようなので、書斎で調べ物をしていると、やがて仁美が夕食ですと呼びに来る。やはりきちんと着かえて、その上に随分似合ってきたエプロン姿である。

「今日は、お野菜の煮物、私が一人で作ったんですよ」

 テーブルに料理を並べながら少し自慢する、

「レパートリーは増えている?」

「まだまだです。でも、栄子さん、いえ、どこの奥様もそうかもしれないんですけど、味付けとか手際とかだけじゃなくて、食材を上手に使って仕上げるので無駄がないんです」

「知恵と要領だな。長くやっていると自然に身に着くんだろう。男にはとても真似できない芸当だとは思うが」

「長い道のりです」

 翌日、藤田教授から依頼された石川工業へ電話を入れ、十月最後の週末に出向くことにした。電話口に出た脇田社長はひどく恐縮し、夜の会食や宿の手配を申し出てくれたが、それは遠慮することにした。

 贅沢をしたいと言っていた仁美を連れて行ってやろうと思ったのだ。家事見習いとはいえ、ずっと狭い世界に閉じ込めておくのも良いことではない。

「月末の金曜日から金沢へ行くことになった。仕事は金曜の午後だけで、あとはフリーだから一緒に行かないか」

「はい」

 仁美は、少し考えてからにこりとする。

「金沢、七尾、輪島、ロマンチックです」

「そうか、電車でと思っていたが、その辺りを回るなら、車で行くか」

「疲れませんか」

「二泊三日にすれば大丈夫だ。しかし、今何を迷ったんだ?」

「いいえ。そんなことありません」

 少し気にはなったが、仁美の嬉しそうな顔を見るとこだわる気にはなれない。

 そして、仁美と一緒に、書斎で石川県の観光地をインターネットで調べてみることにした。東山は兼六園、金沢城、輪島の古い町並みといった景観に関心があるが、仁美は加賀友禅、金箔細工、輪島塗といった工芸品に関心があるようだ。

 旅行の予算だけを決めて、土曜、日曜の計画や宿の手配は仁美に任せることにする。あれこれ考えるのも楽しいはずで、仁美の時間を充実させる材料になるだろうと思ったのだ。

 そして、土曜日には頼んでいたベッドと三面鏡が届いた。

 佳織がこの部屋に似合うものを選び、仁美は具体的にレイアウトを考えていたわけではなかったようだ。その場になって、配達に来た運送屋に相談している。運送屋も面食らいながら、仁美に困った顔をされると無碍にもできない。窓とクローゼットの位置やこれから物が増えたときのことを考えながらアドバイスをさせられている。

 日曜日には、東山が講義の準備をしている間、ガタガタと片付けと整理をしていた。そうして自分の空間を作っていくことが、心を落ち着かせることにもなるだろう。

 食事を終えて、リビングで寛いでいると、仁美が少しかしこまって声をかける。

「パパさん、ようやく私の部屋が完成しました。見て下さい」

 東山としては、仁美が自分で過ごしやすいようにすればいいと思っていたので、気にもしていなかった。

「どうしたんだ?あらたまって」

「だって、パパさんにいただいたものですから、ちゃんと報告しておかなきゃって」

 そう言いながら、東山の腕を引っ張るように立たせる。

 ドアを開けると、きちんと片付いてはいるが、テレビで見るような、いわゆる女の子らしい飾りつけがあるわけでもない。

 ベッドの向こうに三面鏡があり、隣には小さなテーブルとクッション。その横には小さな本棚があるだけである。カーテンは薄いブルーに織模様の入った少しお洒落なものに変わっていた。クローゼットも開かれていて、佳織と一緒に買ってきた服が十着ほどと、あとはそれまで持っていたものがいくらかかかっているだけで、まだまだ余裕がある。

「普通の女の子の部屋にしては、殺風景かもしれないな。もっと、仁美の好きなものを揃えればいいじゃないか」

「ええ?こんなに優雅なお部屋になって、感激していたのに」

「そうか。まあ、暮らしているうちに、また必要なものは揃えればいい。パソコンとかステレオとか」

「そんなに増えると、今のアパートには入りません。これでも限界かなって」

「じゃあ、引越しだ。何ならここのマンションに住むか」

「お家賃はいくらなんですか」

「三タイプあって、一番安い二DKだと八万」

「無理です。今の倍以上です」

 仁美は驚いて首を振る。

 今どき、外れとはいえ大阪市内で四万もしない家賃のアパートというのはどういうところだろうと、あらためて可哀想になる。

「少し安くしてやってもいいぞ」

「それじゃ、半年の約束になりません」

「それもそうか。いずれにしても仁美の思うようにすればいい」

 東山はそんな仁美に笑顔を見せて振り返ろうとする。

「あの、この部屋、パパさんは出入り自由ですから」

 仁美は小さな声でそう言う。

 佳織の言った、仁美の覚悟がその言葉にはあった。

「私には三面鏡は必要ないが・・・まあ、淋しくなったら邪魔するよ。仁美も、この家の中はどこでも出入り自由だ。退屈すればいつでも話においで」

 やはり正面から仁美の覚悟に向き合うことはできなかった。

 仁美は東山の言葉に、半分疑問を持つような、半分ほっとしているような顔を向ける。

 東山も普通の男であり、衝動が全くないというわけではない。だが、仁美を見ていると、どうしても安易な気持ちで触れることはできないのだ。それは東山にとっても不思議な感覚ではある。求めれば手に取ることはできるのに、迂闊に手を触れるのが怖いような気がするのだ。

「パパさん、私が甘えるばかりでは、買ってもらったことになりません」

 仁美が勇気を振り絞ってそう言う。

「もう一つ約束もしただろう。自分を軽々しく扱わずに、守りたいことは守るって。私もそれを大切にしたい」

「でも」

「私は、そんなことのために仁美をここへ連れてきたわけじゃない」

「パパさんには何にもいいことがないのに」

「それは違う。私はね、こんな風に誰かを大切にしたいという気持ちになれたことが、とても嬉しい」

「私は、私はパパさんの何ですか」

「複雑な存在であることは間違いない。しかし、少なくとも、言葉は悪いが、お妾さんでも専属の風俗の女性でもないことは確かだ。だから、そんなことは考えてはいけない」

「複雑な存在?」

「いつかもしも、仁美が私のことを好きになってくれたら、ということにしないか」

「ずっとそう思わなければ?」

「守るべきところは守る、だ。仁美にとっては大事なことだろう」

「それはそうなんですけど、でも、今は少し違うような気もします」

「仁美も、状況が急に変わって心が戸惑っているところもある。契約だなんてことは考えずに、まずは少し落ち着こう」

「はい」

 少し格好をつけすぎたような気もする。しかし、それが自分であり、仁美に守りなさいと言っているのと同様に、東山もそうありたいと思うのだ。

 十一時をすぎて、休むことにする。

 東山はいつもの習慣で、ベッドに入って本を読んでいて、眠くなればそのまま明かりを消す。目覚ましのタイマーを確認して、読みかけになっている歴史小説を開く。しかし、やはり浮かんでくるのは仁美のことだ。

 佳織に言われたように、重症なのかもしれない。仁美がここへ来て半月が過ぎ、その新鮮さが楽しいという部分もある。いずれにせよ、東山の心をとらえていることにかわりはない。

 読書は少しも進まず、そろそろ休もうとしたときに、ドアがノックされ、パパさん少しいいですかと仁美が顔をのぞかせる。もちろんだ、どうぞと返事をして、体を起こす。

 仁美は、赤地にスヌーピーがたくさん描かれたパジャマ姿である。その子供っぽさにふっと笑いが出る。髪を短くしたことで、余計に幼く見えてしまうようだ。こんな子供を女性として扱うことはできそうにない。

 枕元まで来て、言葉に迷っている。

「どうした?眠れないのか」

 東山が声をかけると、小さく頷く。

「あの・・・何だかうんと泣きたくなって」

「そう、か。そんな時もある。仁美はこれまで随分辛抱してきたんだ。私の前では、もっと自分を甘やかしてやればいい。ここへおいで」

 東山が布団を少し上げて、手を引いてやる。迷いながら隣へちょこんと座り、東山が体を横たえると、そのまま東山の腕枕で身を寄せて、くすんくすんと泣き始めた。

 こうした場面は、実際のカウンセリングでも起こることがある。父親の愛情に飢えていた女性が、心の関を取り払っていくうちに、東山のような中年のカウンセラーを父親に見立てて、子供に戻ってしがみついてくる。

 言葉では尽くせない思いがそこにはあり、カウンセラーは実際の娘のように、頭を撫でてやる。そうした疑似体験を通じて、自分の心に落ち着きを取り戻していくのだ。

 仁美も、幸せだった高校生の頃にまで退行しているようにも見える。

 東山は仁美を引き寄せて髪を撫でてやる。

 こうして心を開いてきたのは、ここでの暮らしに少しは慣れてきて、自分を取り戻そうとしているという面もあるだろう。そして、人としてなのかカウンセラーの延長としてなのかは分からないが、東山のことを信頼してくれている証拠でもある。

 そのことが素直に嬉しい。

 一時間ほどそうして髪を撫で、背中を叩いてやっていると、ふっと仁美の力が抜ける。眠ったようだ。東山のパジャマの左腕は、仁美の涙で随分濡れてしまっていたが、着替えに身を起こすと、仁美も目覚めてしまうだろうと諦める。そのまま静かに枕の半分を分けてやる。

 そうしている間に、東山は自分の心も、どう表現すればいいのか分からない感情で満たされていくのを感じていた。

 いつもは真っ暗にして休むのだが、しばらく小さな明かりを残して、仁美の顔を見つめてしまう。やはりまだまだ子供だとも思い、本来の自分を取り戻すのにはもう少し時間が必要なのだろうと思う。

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