第21話

  《二十一》

 翌朝はやはり遅い朝となった。

 昼前にいつもの宇治の駅前まで送ってはくれたが、車を停めてもお互いに言葉が出ない。

 昨日の夜に、明日は泣いてはいけないと誓って、その分思い切り泣いて少々小宮を困らせもしたのに、また涙があふれてくる。

「ごめんなさい。今日は泣かないつもりだったのに」

「無理をすることはない。そんな風に泣いてくれるのは俺も嬉しい」

 しばらくして、ようやく落ち着いてきた。

「ここでお別れしますね」

「ああ、元気でいろよ。何かあったら、美幸に相談しろ」

「小宮さんも。出発はいつですか?」

「まだ決めてはいないが、三月の中旬になると思う」

「お見送りには行きません。また辛くなって困らせてしまうことになりそうですから」

「そうだな。俺も無理やり連れて行ってしまいそうだ」

「それまでに、大学で会うことになった時には知らん顔はしないでくださいね」

「当たり前だ。大切な後輩だし、大切な音楽仲間であることに変わりはない」

「じゃあ、本当に、何もかもありがとうございました」

 意を決してドアを開ける。

「私も振り返りませんから、小宮さんも車を出してください」

「わかった」

 いつもなら、小宮を見送ってから帰るのだが、今日はそうするすることが辛かった。

 わかったと言いながら、小宮は七重の姿を見送ってくれているだろう。

 体を固くしたまま歩いて、いつもの小道へ曲がる角まで来る。

 そして、一歩角を曲がると、小宮からも七重の姿は見えなくなる。

 こらえきれずにその場にしゃがみ込んでしまう。心が痛くて息ができなくなりそうだった。そしてため息をついて、振り返りそうになるのを何とかこらえる。

 一昨日の夜、母からは無理をしなくてもいいのにおばかさんねと言われた言葉を思い出す。その通りだと思う。しかし、頑張ってさようならが言えた自分をほめてあげたい気持ちもあった。

 顔を上げると、山吉の暖簾が揺れている。もう七重にはこの暖簾しか残っていない。音楽を諦め、恋を諦めてこの暖簾を守っていくことを選んだのだ。そう思うといよいよ大切なものになってしまった。しかし、同時にそうして選んだのは七重自身なのに、少しだけ憎く思えてもしまう。

 表からは帰ることができずに、勝手口から家に入る。佐和に心配をさせたくなくて、明るくただいま帰りましたと声をかけて上がる。

 お帰りなさいと佐和の声がして、もうすぐお昼だから早く着かえてらっしゃいと姿を見せずにそう言ってくれる。

 正面から顔を合わせるとどんな顔をすればいいのかわからない。佐和はそんな七重の気持ちを察してくれて、姿を見せなかったのだろうと思う。

 自分の部屋へ戻って普段着に着かえて、もう一度いつも通りの七重でいようと言い聞かせて台所へ行く。

「はい、これで冷ましてちょうだい」

 と団扇を渡される。佐和は七重の大好きなちらし寿司を作ってくれていた。

 お寿司はお茶と同じで、各家庭でその味が異なる。幼い頃から佐和の味に慣れているからなのかもしれないが、どこのお店よりも美味しいと思う。

「大丈夫?」

 佐和がちょっとのぞき込むような眼で七重を見る。

「はい。ごめんなさい・・・でも、ちゃんとさようならが言えました」

 七重は相変わらずどんな顔をすればいいのか分からず俯いたまま返事をする。

「そう。よく頑張ったわね。でも、辛いのはこれからですよ」

「そう・・・なんですか」

「きっとね」

 そうなのだろうと思う。

 何かにつけて思い出すのは小宮との時間であることは間違いない。そしてその度に、もう会えない、元には戻れない淋しさを感じてしまうことになるだろう。

「お母さんもそういう経験があるのですか」

 これまでもひどくおおらかに認めてくれ、そしていつも七重を理解してくれる。それは、やはり佐和も同じような経験をしてきたからなのだろうと思う。

「さあ、どうなんでしょうね」

 佐和はそう言ってはぐらかすように微笑む。ただ、否定もしない。

「誰にでも、秘密の一つや二つはあるものですよ」

 そして、昨日の夜の茶会について尋ねられる。

 高台寺の夜咄は佐和も知っていた。そこで起こったことを細かく話していくと、同じように驚いたり笑ったりしてくれる。

「これまでに何度かお点前のお手伝いに行ったことが役に立ちましたね」

「はい。お稽古でも正客の振る舞いは教えてくれたことがありません」

「元々茶道はおもてなしの道ですから、これからだって習うことはありませんよ。でもまあ、そんな席には付かないのが一番です。大変だったでしょうけど、いい思い出ね。でも、これからお茶会の度にそのことを思い出すのは辛いでしょうけど」

「そうだと思います」

「それが懐かしいなって思えるようになるまでには、しばらく時間がかかります」

「そんな日が来るのでしょうか」

「もちろんですよ。でも、そうね、結婚するまでにもう一つくらい恋をしておくべきかもしれません」

 佐和はそう言って、ほほと笑う。

「今の七重にはとても考えられません」

「今はね。でも、それも縁次第ですよ。これっきりっていうのもつまらなくなあい?」

「お母さんったら」

 やはり年輪が違う。

 そして、次の日から、土日は店に立つことにして、平日は二月末の卒業演奏の練習に大学へ通う。一般の大学のように、卒業論文が認められなければ卒業できないというほど厳しくはない。そこで失敗をしたからと卒業できなくなるというものではないのである。

 これまでに練習してきた成果発表であり、どんな曲を選んでもその技量は急に変わるものではない。

 演奏時間が十分までと決められているだけで、選曲も構成も自由。何人かで演奏するものもあれば、去年の院生の期末演奏のように木管五重奏や、弦も交えての演奏もある。

 七重はソロにしようと、広中教授に頼んで伴奏にピアノ科三回生の藤井さんを紹介してもらった。

 一般的にはエチュードやソナタを演奏するのだが、七重は敢えて日本の歌曲の編曲物を選んだ。どちらも森本さんのCDにあったものだ。多少技巧的な変奏部分はあっても、楽譜上はそう難しくはない。それよりもほんの少しほめていただいたフルートらしい音色で表現したかった。心の中での恩返しがしたかったのである。

 藤井さんには初めての練習の時にちょっと意外そうな顔をされたが、その理由を説明するとわかりましたと快く受けてくれた。

 卒業演奏会は二日間、一日目がピアノと声楽、二日目が弦楽器と管楽器である。七重の出番は二日目の午後、お昼の休憩後一番手だ。

 演奏会は大学のホームページにも掲載され、部外者にも開放している。とはいえ、聞きに来ているのはオーケストラのメンバーと下級生たちで、百人ほどだろうか。人気者の演奏者には客席から頑張って、と声がかかる程度の和気藹々としたものだ。

 プログラム順にアナウンスで名前と曲目が紹介される。

「藤井さん、よろしくね」

 と声をかけてステージに進むと、パラパラと拍手をおくってくれる。

 おそらく小宮も来てくれているだろうとは思う。しかし、その姿を見てしまうと、また心が乱れてしまいそうで、できるだけ客席に目を向けないようにしていた。

 一曲目は浜辺の歌である。短い前奏に続いて七重は丁寧にメロディを奏でていく。

 練習では、フレーズの取り方も考えた。歌曲ゆえの、ともすると平坦になってしまいがちなところに、どう変化をつけるか工夫もした。ただ、ステージに上がる前に、森本さんの教え通り、それらを一旦全て忘れて心のままに歌って行く。

 客席に人が少ないために、いつもより遠くからの響きも帰ってくる。それを聞きながら、七重自身の心に流されて行った。

 藤井さんは、そんな七重の揺れに合わせてくれるだけでなく、まるで同じ気持ちでいるように、テンポの揺れや強弱をつけてくれる。練習の時とは七重も藤井さんも全く違う演奏になっているのだ。広中教授が彼女を選んでくれた意味がよくわかる。

 そして二曲目は宵待草を選んでいた。歌詞を思うと今でも息が詰まりそうになってしまうのだが、メロディは七重が何度も練習して身に着けた細い音色が活かせるのだ。ちょっと無謀だったかもしれない。

 自分で演奏しながら、その曲の切ない思いに翻弄されてしまう。それまで心の底に押し込めていた感情が次々と湧き上がってくるのを止められない。

 何とか最後まで演奏し終わって、俯くと涙が一粒床に落ちた。

 客席も少しの間、しんとしたままだった。

 七重が気を取り直して、泣き笑いの顔を上げ、頭を下げると大きな拍手を送ってくれた。

 二宮さんがステージのすぐ近くまで駆け寄ってきて小さな花束を渡してくれ、七重はありがとうと一言だけでそれを受け取る。分刻みのスケジュールなので、すぐ次の出演者が紹介されて藤井さんとステージを降りる。

「吉野先輩、大丈夫ですか」

「ありがとう。随分乱れちゃったけど、藤井さんのおかげで何とか最後まで辿り着けた」

「いえ、そういう意味じゃなくて。私までもらい泣きしそうでした」

「ごめんね。いろいろあって・・・もう大丈夫。藤井さんも頑張ってね。広中先生は厳しいでしょうけど」

「はい、それはもちろん」

「来年、期待してるわよ。藤井さんの卒業演奏、聞きに来るから」

「はい」

「じゃ、みんなが待ってるから、ここで。本当にありがとうね。」

 そう言い残して控室へ着替えに行く。

 一人になると、ふう、とため息が出る。

 この後、佐織の出番までには少し時間がある。一番付き合いの長かった親友なのだ。その演奏はどうしても聞いてあげなくてはいけないと思う。着替えを済ませて、気持ちを変えようとロビーから少しだけ外へ出てみる。

 もうすぐ春だとはいえまだ風は冷たい。思わず両手を頬に当ててしまう。

 後ろから吉野さん、と声をかけられた。その声の主が森本さんだということは振り返る前から分かった。

 何だかとても懐かしくて、笑顔で振り向くと、ロビーから手招きをしてくれる。

「先生、おいでになっていたのですか」

「はい。吉野さんの最後の演奏ですし、広中君のところへもまた情報収集でね」

「最後ですから、先生のCDから選曲させていただきました」

「随分昔のものなのに、よく見つけましたね」

「気持ちだけでもご恩返しがしたいなと思ったのですが、練習不足ですみません。でもまさか本当においでいただけるなんて」

「いや、久しぶりに音楽を聞いて感動させてもらいました。この二曲は吉野さんの演奏に差し替えてもう一度プレスしたいほどです」

「そんな、お恥ずかしい限りです」

「人の心を動かすのは技術じゃないって、聞いていた人もそう思ったでしょう」

「先生からいただいたアドバイス、本番は練習した全てを忘れてという教えは守ることができたような気がします。でも、その分テンポは乱れすぎました」

「ふむ、年末からまだそんなに時間は立ってないのに、吉野さんの中で何かが変わったんでしょうね、きっと。それくらい伝わってくるものが変わりました」

 そう言って少し首をかしげて不思議そうに七重を見つめる。

 チャリティーコンサートのちょっとした事件の時に、森本さんにも二人のお付き合いは知られているはずだ。今さら隠す必要もない。

「先生には何でも分かってしまうんですね」

「ははは、そんな超能力はありません。でも、やっぱりそうなのですか」

「はい。失恋しました。と言っても最初から決めていたことだったんですけど」

「ええと、小宮君、でしたっけ。そうか・・・彼はプロに、そして吉野さんはお茶屋さんに、ということですか。仕方のないところかな」

「私が諦めればすむことだったんですけれど」

「何かを得て何かを失う、人生っていうのはその連続なんでしょうね、きっと」

 そう言って森本さんは優しい眼でじっと七重を見つめた。七重はこくんと頷いてそれに応える。

「そろそろ佐織、あ、同級生の飯田さんの演奏の時間ですから」

「そうですか。それでは、私はここで失礼しますよ。またどこかで会いましょう」

「はい。ありがとうございます。また先生の演奏も聞かせていただきます」

 森本さんは振り向くことなく片手を上げてテンポよく階段を降りて行く。

 その背中に一礼をして、客席にそっと入る。

 ビオラの演奏が終わるのを待って、笑顔で迎えてくれる後輩たちのところへ向かった。

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