第22話

  《二十二》

 そして、卒業演奏という締めくくりを終えて、七重の学生生活も後は三月十日に卒業式があるだけとなった。これも高校の卒業式のように大きなイベントではない。

 変化のない日々を送っていると、何かにつけて思い出に浸り、また切なさを思い出してしまう。それではいけないと、その日を待たずに、山岡へ手伝いに行くことにした。

 去年の十一月に一度荒らされた七重農園には、月に二、三度手入れに行っている。手入れと言っても、これまでは伸びてくる雑草を抜いたり、準備してもらった肥料をやったりする程度である。

 成木はみな上手く根付いてくれたが、隣の若木は三本ほど枯れてしまった。やはり植え替える時期が悪かったのだ。春になれば間違いないと、しばらくはそのままで、ちょっと淋しい部分は残っている。

 それも間もなく山岡の畑から選ばれた若木がやってくる。

 七重農園で新しい七重の世界が育っていくことになる。

 朝家を出て、夕方まで七重農園の世話をし、山岡の広い畑で七重にできる仕事を探してそれを手伝う。そして、夕方には山吉へ帰って店のパソコン処理をするというパターンができ上がっていく。

 山岡の広い畑は二月の間に春の整枝がされて、それまでは多少ばらつきのあった木がきれいに形を整えられる。去年の夏以降も新芽は出て育ち、小さな枝がいくつも伸びている。それをきちんと高さを揃えておかないと、今年の新しい茶葉を機械で刈るときに古い葉や枝までが混ざってしまうのだ。

 三月に入ってすぐ、芽吹きを促すように肥料をやる。畝と畝の狭い間を三輪の手押し車を押していく。七重もほんの少し手伝わせてもらったが、これもなかなか扱いが難しい。七重では、どれだけ時間がかかるかわからないと、おじさんにバトンタッチする。

 どんな作業でもそう簡単にはできるものではないことを思い知らされる。おじさんが休憩している時間やその日の作業が終わってから、その手押し車を扱う練習もする。一年間に何度か行う作業なので、いつまでも足手まといになるわけにはいかない。

 よろよろとする七重を見ては、おじさんが笑いながら無理をするなと言ってくれる。そう言われると余計に頑張ろうと思うのだ。

「お嬢よ、そないに頑張ってたら、腕が太うなってしまうで」

「ちょっとはそうならないと、お手伝いになりません」

「ちゅうても、たくましなって日に焼けてもうたら、着物が似合わんようになる」

「しばらくはそれでも仕方がありません」

 そんな会話が繰り返される。

 それでも草取りで長い間陽の光を浴びるときには、おばさんに言われて手拭いを巻いて麦わら帽子をかぶる。

 たかが草取りと言っても、とにかく広いのだ。しばらくは一時間もしゃがみ込んでいると足腰がふらついてくる。立って腰を伸ばそうとするとバランスを崩して尻もちをついてしまう。それを見ておじさんおばさんに笑われ、七重も一緒になって笑ってしまう。

 豊兄さんがのぞきに来て、三度目のネット動画の収録の打ち合わせをする。そして七重の姿を見て、あまり農家の娘らしくなってしまうと、新鮮味がなくなると冗談を言う。とはいえ、そんなに急にらしくなれるものではない。

 そんな中、美幸さんがオーナーとなっている七重農園を見に来てくれた。

「四月からの配属が決まったのよ。近くの長岡京市の小学校」

「よかったじゃない。そしたら家から通えるね」

「少し慣れれば、休みの日にはここへも来られるし」

「先生としての仕事も大変なんでしょう。落ち着くまではちゃんと私が面倒見ておく」

 二人で草取りをしながら、そんな会話になる。

「でも、良かった。七重さんとっても元気そう」

「もっと落ち込んでいると思った?」

「うん。兄は今でも浮かない顔してるから。そろそろ日本を発つ準備はしてるけど」

「ここへ来てお手伝いをしていると、毎日新鮮だし、結構大変で、そうそう落ち込んでもいられないもの」

「とっても似合ってる」

「手ぬぐいに麦わら帽子が?」

「ううん、茶畑が。兄が言ってたの。七重さんはお茶の話をしている時が一番七重さんらしいって」

「自分でもそうだと思う。小宮さんに七重は元気だって伝えておいてね。少しは心配してくれてると思うから」

「わかった」

 そう言って美幸さんが小さく吹きだす。

「なあに?」

「茶畑と競争して兄が負けたことがおかしくて」

「あは、そんな。比べられるものじゃないのに。でも結果的にはそうかな。ここが私の居場所だって思えるから」

「兄は一人でホルンを抱いていなさいって言ってやる。モトサヤってやつね」

「もう、美幸さんたら」

 美幸さんに会うと、小宮を思って気まずくなるかもしれないと心配していた。しかし、それはいらぬ心配だったようで、これからもいい友達でいられそうだ。

 そして小宮のことも、どちらにしろそう簡単に忘れることなんてできそうもない。かえってこうして美幸さんから様子を聞くことでほっとするところもある。お別れしたことは悲しいことだけれども、やっぱり頑張っていてほしいのだ。

 十日の卒業式に出席すると、佐織からも随分日に焼けて別人のようだと言われた。話したいことはお互いにたくさんあったが、佐織はもう引っ越しを済ませていて、すぐに香川に帰る予定だった。京都駅まで見送りに行き、お別れにお互いにちょっと泣いてしまう。

 仕事と一緒に遠距離恋愛も頑張ってと言うと、先のことは分からないとさっぱりしている。逆に早く小宮との思い出から卒業して、新しい恋をしなさいよと言われてしまう。

 みんなそれぞれの新しい人生が始まって行くのだ。

 夕方には卒業証書を持って家へ帰り、稔と佐和に卒業を報告し、ありがとうございましたと礼を言う。美幸さんや佐織のように、就職をして収入を得ていく立場から比べると、まだしばらくは修行の身で少し肩身が狭い。引き続きお世話になりますと頭を下げると、家業とはいつまでもそういうものだと稔から諭される。

 そして、驚いたことに田村さんが代表で、従業員一同からご卒業おめでとうございますと、花束を渡される。稔の言った家業というものが少し理解できた。いつまでも皆さんとお客様に支えられて生きていくものなのだ。卒業を祝ってくれることよりも、これからその仲間になることを歓迎してくれているのだと思う。

 これからは皆さんと一緒に頑張っていきますのでよろしくお願いしますとあらためてお礼を言うと、笑顔で小さく拍手を送ってくれた。

「頼みますよ、七代目」

 田村さんがちょっと芝居がかった口調でそう言ってくれる。

「タムちゃん、残念ながら私はしばらくは隠居しませんよ」

 稔の言葉にまたみんなで笑い合う。

 そんなことを考えたこともなかったが、そう言われると百二十年の歴史はやはり重いものだと思う。

 これからの毎日はそう呼ばれて恥ずかしくないように勉強もし、人間としても成長することが七重の仕事なのだと思う。

 七重には七重の人生があり、今日がそのスタートとなった。

 とはいえ、今の七重にできることは山岡で畑と茶の木を育てるお手伝いだけだった。

 次の日から、畑の一部の木を若木に植え替えるのを手伝う。おじさんに細かく指示されながら、またその意味を教わりながら、土に触れていく。稔から言われたように、理屈だけではなく、土の香りや温かさも感じておこうと思う。そして、教わったことや感じたことを自分流のノートを作り、家に帰ってからまとめ直す。すると、聞き洩らしていたことや、更に疑問が生まれてくることもあって、次の日に質問する。

 また、その合間に七重農園での収録もあった。一見単純な作業もその意味がわかると、心が込められ、またその先にある楽しみも伝えることができる。おじさんに教えてもらったことを早速台本に織り込んでみる。だからといって急に体力がついたり、手際がよくなるわけではない。録画を見る限り、相変わらず不器用でたどたどしい。

 そろそろ新芽が顔を出す時期が近付いてきたようで、おじさんも豊兄さんも気温や天気を気にする言葉が増えてきた。新芽は霜に弱く、この時期の注意を怠ると、その年の収穫に大きく影響が出る。

 まだ油断はできないが、幸い今年は今のところうららかな春になりそうだった。

 三月二十日、まだ卒業式から十日しかたっていないのに、何だか随分遠くに思えてくる。

 暖かくなってくると、雑草も元気に伸びてくる。茶の木のために一年を通して肥料をやっている豊かな土壌であるのだから当然だ。折角の養分が茶の木に届くように、しばらくは草取りが主な仕事になる。

 慣れないうちはこたえたが、今では休憩をうまくとりながら一日中畑で茶の木の間で過ごすこともある。おじさんは相変わらず気にかけてくれるものの、七重はそんな時間が楽しかった。子供のころに見ていた茶の木が、今しゃがんで見ていると同じくらいの高さなのだ。懐かしいだけではなく、どこかほっとする。

 もちろん子供心に何を思い考えていたのかは思い出すことはできない。ただ、感覚としての記憶は意外と残っているものだ。

 また、このところよく動くせいもあって、よく食べるし、お昼前にはおなかが空いてくる。おかしな表現だが、心地よい空腹感なのだ。

 そんなことを思っていると、おーいと呼ぶ声が聞こえる。

 その瞬間、どきりとして身を固くしてしまう。

 聞き間違えるはずもない小宮の声なのだ。

 弾かれるように立ち上がって声の方向へ眼を向けると、ジーンズ生地の上下にTシャツというラフな姿で小宮が坂道を登ってくる。

 そして七重を見つけて手を上げる。

 七重も木の間から少し広い畦道へ出る。見送りにも行かないと覚悟を決めてお別れしてから、もうひと月が経っている。何だかひどく照れくさい。

 数歩のところまで来て、小宮は微笑みながらじっと七重を見る。

「山岡さんに寄ったらここだと・・・元気にしているか?」

「はい。見ての通りです」

「ああ、美幸から聞いた通り、生き生きとして輝いているな」

「あの・・・」

「麦わら帽子がよく似合って七重らしいってさ」

「あの、小宮さん、どうしてここへ?」

 七重はちょっと素っ気ない言葉になってしまう。

 お互いの気持ちが少しも変わっていないことを感じてしまって、今まで会わずにいられたことが不思議にさえ思える。こうして小宮に見つめられて親しく話をしてしまうと、簡単にひと月前に戻ってしまいそうだ。そのことがとても怖かった。

 小宮はそんな七重の気持ちを察してくれたのか、少し俯いて、今度は遠くの茶畑を眺めるように顔を上げた。

「ああ、今日の夜の便で日本を発つ。随分迷ったが、七重には直接そのことを伝えておきたかった」

「そう・・・ですか。いよいよですね」

「それから、卒業演奏のこともほめておきたかったし・・・いや、そんなことは小さなことで、そのために来たわけじゃない」

 小宮は迷いながら、視線を空へと向ける。

「何ですか?」

「あれからひと月だな。その間に気が付いたことがある」

 七重は少し首をかしげて見せる。

「三年。三年経ったら日本へ帰ってくる」

「え?」

「そして、その後も一年の半分以上は日本にいられないかもしれない」

「はい・・・」

「それに、日本にいる間もお茶屋は手伝ってはやれそうもない」

 小宮が何を言おうとしているのかが少しずつわかってくる。そしてそれを聞いてしまっていいのかどうかわからずに動揺してしまって言葉が出ない。

「もしも、それでもいいなら・・・三年経ったら七重を迎えに来る。俺には忘れることなんてできやしないって気が付いた」

 逃げ出そうかどうかと迷っているうちに、小宮の言葉が七重の心に届いてしまった。

 一年前のことだ。車の中で聞いた小宮の言葉も、全く予想してなかった七重を慌てさせた。その時は七重自身のことなのに、自分の心のありかが分かっていなかった。

 では今は、と自分の心に問いかける。

「もう、小宮さん」

 七重は、手ぬぐいと一緒に麦わら帽子を取って、首を振って髪を風に梳かせる。どうしようかと迷いながら、小宮の前を通り過ぎて二、三歩前に出る。

「七重は三年経ってもまだ見習い中です、きっと。家事やお料理の勉強はちっとも進んでないかもしれません」

 小宮は黙って七重を見つめてくれているのだろう。

「それに、その先も、お店と主婦を上手にやっていけるほどの器用さもありません。ううん、お店のことばかりになってしまうと思います」

 今日の七重は、落ち着いて自分の心のありかを見つけることができたようだ。

「そんな七重でいいのですか?」

「お互い様だ。七重が店のことで辛くても近くにいてやるなんて約束できない。そんな俺でよければ、だ」

「とんでもない家庭になってしまいそうですよ」

「俺たちの春江さんを探そう」

「三年経ったら必ず迎えに来てくれますか?両親はすぐにお見合いだ何だって言い始めます。七重はそれを断り続けなくてはいけません」

「なるほど・・・約束する」

 七重はやっと小宮を振り返ることができた。

「もう、小宮さん。そんなお話を今日するなんて」

「悪い。相変わらずの考えすぎだ」

 普通の結婚をして幸せになるという夢は、あきらめなくてはならないようだ。

 もっとも、それは七重が山吉を継いでいこうと決心したときから決まっていたことなのかもしれない。

「卒業演奏、どうでしたか?」

「ピアノに助けられてばかりで、ひどかった。なのに俺まで泣かされた。だからいたたまれなくてすぐに逃げ出した」

「やっぱり。そうですよね」

「しかし、その時に俺は自分の心のありかを見つけたし、七重も同じ気持ちでいてくれると信じることができた」

「なら、もっと早く言って下さい」

「ただ、それが七重にとってベストなのかどうか自信がなかった」

「もう。それは七重が決めることなのに」


                                   (終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

七重の選択 ゆう @haru_3360

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る