第20話
《二十》
そして、二月十四日。
前日の夜、佐和に明日は小宮さんとお別れしてきますと告げると、そんなつもりはなかったのに涙がこぼれた。
佐和は、そんなに無理をしなくてもいいのにおばかさんね、と七重の頭を優しく撫でてくれた。それに首を振って、自分で決めてきたことですからと答える。
そしてやはり一年という時間が限界だったと分かる。
きっとこれ以上の時間を過ごしていたら、お別れなんてできそうもない。今だって、こんなに辛いのに。
「ご縁があれば、またどこかで巡り合うこともあるかもしれません。それに、もしもあなたがお店をやめて、彼のところへ行きたいと言っても誰も責めたりしませんよ」
そう言って慰めてくれる。
「ありがとう、お母さん。でもきちんと区切りをつけないと。悲しくなったら、また泣かせて下さい」
そう答えて、無理に笑顔を作る。
「いつの間にこんなに大人になったんでしょうね。去年まではいつまでも子供のままで心配してたのに」
「それまで女の子としての勉強をさぼっていた分、この一年でたくさんのことを教わりました。少しは成長できたのかもしれません」
「でもその最後の仕上げがお別れだなんて」
「普通の女の子ならこれまでにいくつも恋もして、失恋もしているはずですから、これでやっと人並です」
「そう?でも、明日は、泣いてあまり彼を困らせてはいけませんよ。・・・とは言っても、少しは泣かないと冷たい女の子だと思われるかしら」
「もう、お母さんたら」
おおらかな佐和のおかげで、思い詰めていた七重の気持ちも少し楽になった。
明日は気持ちが緩むことのないように、そして小宮がひどく気に入ってくれている着物姿で出かけようと思いますというと、佐和は少し首を傾げる。そして、七重は着物が似合うけれども、帰りに一人できちんと着られますかと尋ねられる。七重はその意味を理解して、少し赤くなりながら大丈夫ですと答えた。
その動揺に、女の子はいろんな心の準備をして、何があっても慎み深く、そして凛としてなくてはいけませんと真顔で言う。その物言いは母親としてではなく、女性としての先輩から諭されているようで、七重は姿勢を正してはいと答えてしまう。
そして、小宮に電話をして、明日はお着物で出かけますと言うと、小宮はやはり喜んでくれた。淡いグレーに水仙をあしらった訪問着に、これも淡いクリーム色のコートで、一足早く春らしく装うことにした。
翌朝、駅で十時の約束に間に合わせるために、随分早起きをして準備をする。小宮との最後の待ち合わせになると思うと、精一杯きれいでいたいと思う。
佐和もその気配を感じてくれ、あれこれと手伝ってくれる。
「こんな七重なのに、これまでに三度、奥様って呼ばれました。おかしいでしょう」
「それだけ彼と心の距離がなかったからですよ。二人で並んで歩いていても、ただのお友達なのか、恋人なのか、ご夫婦なのかが何となく分かるでしょう」
「そうですね」
「それはその二人の心の近さが伝わるからですよ。きっとあなたが遠慮もなく甘えて、彼がそれを自然に受け止めて下さっていたのではないですか」
「はあ、言われてみると、その通りだと思います」
「いい方とお付き合いができましたね」
出がけにコートをかけてくれ、襟元を直してくれる。
「七重、きれいですよ」
「ありがとうお母さん」
佐和は勝手口まで見送ってくれた。外は晴れてはいても、やはり寒い朝だ。
そして、しっかり甘えてらっしゃいと言い、七重もはいと答える。
ちょうど小宮がそこまで迎えに来てくれていて、佐和に遅くならないうちに送りますと言って頭を下げる。
小宮はスーツにトンビコートという、洋画に出てくるようなちょっとクラシックな姿である。七重の着物に合わせてくれたようだ。
「ふつつかな娘でご迷惑をかけました。でも、そうしていると本当にご夫婦に見えますよ」
佐和はさらりと冗談を言って柔らかく微笑む。
そんな言葉に、笑顔を返して歩き始める。
「相変わらずの母上だな」
「はい。でも、とっても素敵な母です」
「それは間違いない。七重もああならなきゃ」
「それはちょっと無理かも」
小宮の車に乗り込み、昨夜の会話を伝えると、さすがに小宮もそれは七重には無理かもしれないと笑う。
「さて、どうするかな。夕方からは予約をしてあるけど、どこか行きたいところはある?」
「やっぱり、静かなところがいいです」
「そうだな、季節じゃないが、今日は天気もよさそうだから、貴船あたりへ行くか」
「お任せです」
京都市内を避けて、宇治から山科へ出る。東山の裏を通って修学院へ抜けるとPホテルが見えてくる。西野先輩の結婚式があった場所だ。そういえば、その帰りに初めて奥様と呼ばれてしまった思い出の場所でもある。そしてしばらくすると何度か乗ったことのある叡山鉄道と並行して走ることになる。二軒茶屋、市原、二ノ瀬と過ぎて貴船口で、鞍馬へ上る道と分かれる。
「晴れていてよかった」
「はい」
一時間近くの間に、交わした会話はそれだけだった。
一年間の思い出が少しずつ甦り、その時の言葉や気持ちを思い出していると、言葉は交わさなくても七重の心は満たされてくる。きっと小宮も同じ思いでいてくれるのだろう。時折七重を振り向いて、微笑んでくれる。
今日でお別れになることは二人で決めたことで、湿っぽくならずに終わりにしようと話し合ってもいた。
佐和には泣いて小宮を困らせないようにとは言われたものの、その自信はない。どんな自分が顔を出してくるのか分からないでいるのだ。
貴船のバス停の隣に公営の駐車場があり、そこへ車を停める。
神社の入口の鳥居からはなだらかな石段が続き、両側には赤い灯篭がずっと並んでいる。
小宮はそっと手を取ってくれる。
「ね、小宮さん、貴船神社って縁結びの神様だって知ってました?」
「そうか、ちょうどいいじゃないか」
「今日でお別れなのに?」
「一度は離れてもどこかで縁が続くように祈ろう」
「そうですね。でも、随分身勝手なって神様に叱られそうです」
石段を登りきると狭い境内があり、そこでも何人かの参拝客に出会う。七重と変わらない年頃の女性のグループが神妙に手を合わせていた。今日はバレンタインデーだ。ここでお参りをして、午後からは意中の男性に告白をするのかもしれない。
気温は十度に届かないかもしれないが、風もなく木漏れ日の下ではほっとする。手水の水は深い地下水のために思ったよりも冷たくなかった。
ちょっと複雑な思いで、小宮と並んでお参りをする。
「何をお願いしていたんだ?」
「二人がまたいつか会うことになるなら、いい出会いになりますように。それから、小宮さんにはいいご縁がありますようにって」
「自分のことはお願いしなかったのか」
「だって、しばらくはそれどころじゃありません。小宮さんは?」
「同じだ。七重に素敵な出会いがあることをお願いしておいた。仕事も仕事で頑張らないといけないが、七重には幸せになってもらいたいからな。俺にはできなかったが」
「年から言うと、小宮さんの方が先ですよ。あ、兄のこともお祈りするのを忘れてました」
「そうだな。俺たちの代わりに吉野と美幸がうまく行ってくれればそれもいい。俺もしばらくはそれどころじゃないと思う」
「いよいよプロデビューですね」
「俺もどこまでやれるかはわからない。三十を過ぎて芽が出なければ、帰って来るかな。いつか言ってたように、市響あたりへもぐりこんで、好きなアンサンブルをやるのもいい」
「いけません。同じアンサンブルでも、あのベルリンのようにCDに残るような演奏家になって下さい」
「これは手厳しいな」
「そしたら将来、七重も自慢ができます。昔はこんな素晴らしい人と一緒に演奏していたんだよって」
本宮、中宮、奥宮とそれぞれに手を合わせながら歩きながら、二人の会話は一年間の思い出になる。
どれも思い出と呼ぶには近すぎて、今につながっていることばかりだ。そして、どの場面にも小宮が一緒だった。
「本当に縁って不思議ですね」
「何だ、急に」
「最初にお眼にかかった時、小宮さんにあんな冗談を言われなければ単に普通の先輩の一人だったんだろうなって」
「そうか」
「そして次のリハーサルで小宮さんが自然に謝ってくれなかったら、きっと嫌な先輩のままでした。そんな小さな偶然が重なって今があるんですから」
「なるほど。でも、俺はもっと大きな力があるような気がしている。お互いの人生のこの時期に、出会う必要があったのじゃないかってね」
「何かの目的があって神様がそんな風に仕掛けたのでしょうか」
「もっとも何のためにかは、ずっと先にならないと分からないんだろうけど」
たしかに七重にとってはこの一年は必要な一年だったと思える。
それまでは迷信のように思いこんでいた家を継いでいくことが、大切に考えないといけないものになった。素敵な音楽や素敵な恋を諦めて進んでいくのだから、中途半端な考えではいけないと思う。それまでの七重では、何かに躓いた時に簡単に挫けてしまったかもしれない。それ以前に、稔が許してはくれなかったかもしれないのだ。
恋や結婚についても何も考えないままでは、稔や佐和の期待を超えることはできなった。
そこにいくつもの七重の覚悟があったから、認めてくれことになったようだ。
そして、そうした覚悟を具体的にしてくれたのが、この一年だった。そこへ導いてくれたのも小宮だった。
七重がこの一年の意味をそう告げると、小宮は少し苦笑いをする。
「だとすると、俺は失敗したのかもしれないな。七重が頼りないままだったら、連れていけたのに」
「今だって頼りないのは変わっていませんけど。そんな風に考えると、七重にはこの一年が必要だったような気がします」
「まあ、俺にとっても転機になったのも事実だし」
「小宮さんにとっても、ですか」
「ジュリアードに行く頃から何となく情熱が薄れて、自分の枠みたいなものを自分で作っていたような気がする。だけど七重の一途さを見ていて、これじゃいけない、もう一度広い世界へチャレンジしようと思うようになった」
「やっぱり、必要な一年だったのですね」
「そうなる」
「でも、良かったです。お別れすることにもちゃんとした意味がありました」
「そうだな。この時期に出会ったということと、一年しかなかったということに理由があったのかもしれない」
貴船を出て再び市内へ向かう車の中でそんな言葉を交わしていると、やはり今日で終わりなのだということが実感として湧いてきて胸がいっぱいになってくる。
お昼を過ぎて、小宮は何か食べるかと聞いてくれたが、七重は黙って首を横に振った。
いくらお別れすることに意味が見つかったとしても、その切なさが薄れることはない。
いつかこの思いが薄れる日が来るのだろうか、あるいは何かで埋めていくことができるのだろうか。
明日から、嬉しいことがあったから、悲しいことがあったからと甘えて話を聞いてもらうこともできなくなる。しっかりと抱きしめられて何も考えずにいられる時間や、愛されていることの心地よさに心をまかせていられる時間もなくなるのだ。
「そんな顔をしていたら折角の美人が台無しだ」
七重の沈みがちな様子を見て、小宮は冗談めかしてそう言う。
「もう、美人なんかじゃありません」
宝が池を過ぎて北大路通りを西へ向かい北野天満宮に入る。
「神社めぐりのようだけど、もう早咲きの梅も咲いているだろう。気分転換だ」
「はい」
受験シーズンということもあって、境内は高校生や親子連れが目立つ。
今更、学問の神様にお願いすることもないのだが、ここまで来て手を合わせずに帰るわけにもいかないと、再び二人で並んで柏手を打ち頭を下げる。
裏手へ回ると、名物の長五郎餅のお店がある。
「甘いものを食べると少しは気持ちも変わるかもしれない」
小宮にそう言われて、手を引かれて暖簾をくぐると茶席がある。そこで煎茶と一緒に小さなお餅を二ついただく。煎茶の柔らかな渋みがお餅の甘さを引き立てていた。
「本当ですね。甘いものは、心を穏やかにしてくれます」
「よかった」
「小宮さん、夕方からは予約をしているとおっしゃってましたが、どこですか」
「高台寺の夜咄。行ったことある?」
「いいえ。お話は聞いたことがありますけど。蝋燭の明かりの中でお茶をいただくって」
「そのようだ。軽い食事もあるらしいが、何より茶道の作法を知らなくてもいいというのが気に入ったんでね」
「また教えてさしあげます。でも、いただく方はあまりうるさくは言われません。中途半端に知っているふりをするよりも、立てる側の思いを受け止めて美味しく味わってもらうことの方が大切です」
「なるほど、そういう面では音楽も同じだな。ソルフェージュを知らなくても、いいものはいいと感じてくれることの方が大切だ」
「でも、どうして夜咄なんかをご存知なんですか」
「ばあさんに勧められた。最後なんだから、心に残る時間を過ごしなさいって」
「でも、お茶席の用意なんてしていません。大丈夫でしょうか」
「向こうで準備してくれてるって」
少し早目に四条近くまで移動する。
知恩院の正面から東大路に出ると、いつもと変わらない人通りだった。
この辺りは、最も京都らしい場所の一つであり、やはり外国からの観光客が増える。
八坂神社の石段を上がって、出店の並ぶ小道から境内へ出る。そして、奥の円山公園をゆっくりと歩く。
所どころに椿の花が咲いている他は、冬枯れの木と茶色の芝であり、余計に切なさが胸にしみてくる。
「こうして一緒にいることがすっかり当たり前になってしまいました」
「あっという間の一年だったような気がするな」
「母には、七重が遠慮もなく甘えて、小宮さんがそれを自然に受け止めてくれていたのじゃないかって言われました」
「さあ、俺はもっと甘えてもらいたかったような気もするが」
「わがまま子なになって、嫌われたかもしれません」
「ははは、そんなことで嫌いになったりはしない」
「もともと、美人でもなくて・・・あれ?何でしたっけ」
「俺も忘れた」
二人で池の鯉や、水鳥が泳いでいるのを見ていると、このままずっとこの時間が続けばいいと思えてくる。
「一年が限界だったかな。これ以上長く一緒にいたら、離れることができなくなる」
「はい。そんな気がします」
そして、そろそろ行くかと言い、七重もそれに従う。
高台寺へ行くと、先着順で四つのグループに分けられていて、それぞれにお茶会、点心、庭の散策と時間帯が決められている。二人は三番目のグループだった。
先に羽柴という料亭での点心、石塀小路の喫茶店でコーヒー、高台寺の庭や文化財となっている建物の鑑賞をして、最後に茶席となる。
五時過ぎの食事は早いと思うが、今日はお昼をいただいていないこともあって、かえってありがたかった。
同じグループのメンバーは、年齢も区々、出で立ちも様々で、何人かの外国人も含まれている。このメンバーの茶席なら、緊張することもないだろうと安心する。
お茶席の前にコーヒーというのは少々興醒めのような気がして、それをパスをしてねねの道を歩く。そして高台寺に戻り、庭をゆっくりと時間をかけて見て回る。
すっかり日は暮れて、一般の拝観時間はとうに終わっている。幻想的にライトアップされてはいても、足元は暗い。
限られた人数のためだけに解放されているので、順路通りに歩く必要もなく、気に入った場所で立ち止まっていても誰かに迷惑をかけることもない。昼間には何度か歩いた場所も趣が全く違っている。
「ねえ小宮さん、今頃聞いても仕方がないんですが、一年間お付き合いをして、七重に幻滅したり、退屈はしませんでしたか?」
「本当に、何を今更、だ。そう見える?」
「だって、他に素敵な女の子はたくさんいますし。いつか高田さんに言われましたけど、いつも保護者のように見ていてくれて、七重はちっとも恩返しができていません」
「何を言いだすのかと思ったら」
「でも・・・」
「最初に約束したじゃないか、合わないと思ったら終わりにしようって。これまでにそう思ったことは一度もない。今だってできることなら連れて行きたい」
小宮は周りにはばかることなく、七重を引き寄せてキスしてくれた。
もう少しだけ頑張って泣かないでいようと思っていたのに、意に反して涙がこぼれる。
そのことにちょっと驚きもしたが、自分の心のありかを見つけてほっとしてしまう。
涙は頬を伝って、小宮の頬を濡らす。
「こら、泣くな」
小宮は七重の髪を撫でながら、ハンカチを渡してくれた。
「ごめんなさい。せっかちな涙です」
そうは言ったものの小宮の肩に額を付けたまま、こぼれる涙をとめようとはしなかった。
「お茶会もパスするか?」
しばらくして小宮が優しくそう言う。
七重はそれに首を振って答える。
「もうおさまりました。大丈夫です」
そう言って小宮を見上げると、また一筋涙が落ちた。
指定された時間には少し早く集合場所に着く。そして小宮は茶席には似合わないコートを受付に預ける。
「小宮さん、私、おかしな顔をしてませんか」
「大丈夫。それにこの暗さだから気づかれることもないだろう」
やがて予定の人数になると、お先の方からどうぞと声をかけられる。
その時になって、しまったと後悔する。やはり感傷的になって、心が乱れていたのだ。
順番通りに着席すると、正客の席に座ってしまうことになる。皆が立ち上がり、小宮もそのまま進もうとするのを、七重は袖を引いて止める。
どの程度のお茶席になるのか見当はつかないが、茶席では正客は亭主とそれなりのやり取りをしなければならないのが普通である。小宮にそんな知識があるはずもない。
そこで、少し控えて上座を避けようとしたのだ。するといくらか心得のある人がいるようで、正客席の譲り合いが始まってしまった。幾人かの外国人と小宮は何が始まったのかと面食らってその光景を見ている。
グループの中でも年長の方が、こういうところですから先着順でと言い、皆がそれに従ってしまう。七重が小宮の袖を引いたことも見逃してくれなかったのかもしれない。
「いえ、私どもではとても務まりません」
そう言って断るが、海外の方もおられるのだから、奥様のお着物姿が似合います。と追い打ちをかけられる。
「主人は全く初めてで、粗相があってはいけませんので」
夫婦ではないことを説明している場合でもなく、とにかく避けなければならないのだ。
重ねて固辞するが、ならば奥様が正客でご主人が次客にと勧められ、今度はその外国の方までが小さく拍手をして勧めてくれる。そうなると逃げられるものではない。
三度辞することはかえって失礼と、七重も覚悟を決める。
「それでは、ふつつかながら勤めさせていただきます」
神妙に頭を下げる。しかし、その意味を理解している方はほんの少しで、その方々も内心はどうであれ、笑顔で応えてくれている。
「何がどうなっているんだ」
小宮がわけのわからないまま小さい声で尋ねてくる。
「詳しくは後で説明します。とりあえずお菓子とお茶のいただき方だけは七重の真似をしてください」
湖月庵の茶席は本当に蝋燭だけの明かりで、眼のなれない間は何かがあっても気が付かず躓きそうになるほどだった。
そのことに幾分ほっとする。茶器や床の軸などについて話をするにも暗すぎて少し離れると見えないほどなのだ。七重の着物姿がいいと言ってくれもしたが、その姿や所作をじっと見られることはなさそうだ。
やがてお点前の女性に続いて亭主が現れ、七重を見てにこりとする。七重が作法通り挨拶をすると、亭主もほっとした様子で、小宮を見ながら茶席の手順をわかりやすく説明してくれる。どうやら同席しているメンバーに、茶席をご紹介するのに協力を求められたような気がする。
普通のお茶席なら、いくつかの質問をするのに大きな声を出すことはない。亭主の意図を汲んで、メンバーに聞こえるように気を使う。そして、次客の小宮が手こずっているのを見て、作法をそれとなく教えていく。すると、初めての客もそれをじっと聞いている。
次客のお点前が進んでいくころ、それ以降の客には水屋で点てたお茶を運んでくる。
一服をいただき、他の皆さんの様子を見て、おしまい下さいというのが正客の役目である。そこへ、お運びさんが干菓子を持って来てくれて、お続きがありますのでどうぞと声をかけられる。
今回は小宮も少し慣れてきたようで、一つ一つの所作を思い出しながらいただき終えた。
蝋燭の明かりの中、しっとりとした時間を期待していたのだが、成り行きで正客にされてしまい、その雰囲気を楽しむどころではなかった。
二服目を終えると、灯が付けられて、亭主から茶道具のいわれを聞き、写真もとって構わないと告げられる。すると、それまでの厳かな雰囲気から一気に解放されて、知り合い同士で会話が始まり、皆がちょっと無作法に道具や掛け軸を写真に収めている。
それもいつもの光景のようで、亭主もにこやかに見ていた。
「ご協力、ありがとうございました」
亭主には七重の気遣いが伝わっていたようで、礼を言われる。
「恐れ入ります。初めての正客で、どうしようかと」
「お若いのになかなかご立派でしたよ。もう長いのですか」
「いえ、まだ十年にもならない未熟者です」
「おかげで、皆さんも喜ばれたでしょう。是非またお越しください」
丁寧に頭を下げられて、恐縮してしまう。
一通り撮影会も終わり、静かになったところで正客としての最後の挨拶をする。
そして亭主から皆さんへのお礼が述べられて茶会は終わった。
順次退席していく中、小宮は足がしびれていたようで、七重が手を取って茶室を出る。きっと周りからは、とても仲のいい若い夫婦に思われただろう。
「ふう、とんでもないことになってしまいました」
高台寺からねねの通りへ続く緩やかな石段を降りながら、そのわけを細かく説明する。
「なるほど、そういうものなのか」
とは言うものの、小宮にはことの重大さがわかっているとは思えない。それも仕方のないことだ。
「しかし、そういう意味では、久しぶりに本番に強い七重を見られたってわけだ」
「もう、人の気も知らないで」
「悪い悪い。最後にまたいい思い出ができた」
「はい。そう考えるとこれ以上はない経験になりました」
「それに、話の成り行きだが、俺のことを主人って言ってただろう。ちょっとドキリともしたが、そう呼ばれるのも悪くはないな」
「だって、あの場面は、二人の関係を説明するよりも、何とか逃げなきゃって」
「分かってるよ。だが結局最後まで夫婦だと思われていたようだ。七重も奥さんぶりが板についてきた」
「いじわるな小宮さんです」
「まあそう言うな。正直、嬉しかった」
「でも、おばあ様に教えていただいたしんみりと静かな時間を過ごすことはできませんでしたけど」
溜息と一緒に七重がそう言うと、小宮がそれはこれからだと、つないでいた手をぎゅっと握る。
「母上の言う通り、一人でちゃんと着物は着られるんだろう?」
「知りません」
七重は小宮の言葉にやはり恥ずかしくて俯いてしまう。
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