第19話
《十九》
博志兄さんは次の日、押しつまった三十日の便で日本に帰ってきた。
除夜の鐘を二人で聞く計画も、美幸さんも合流して四人で行くことになった。
稔や佐和からは、物好きなことだと苦笑いされながら、大晦日の夜になって出かける。
大覚寺で除夜の鐘がつけるかもしれないと、嵯峨嵐山駅で夜の十時半に待ち合わせた。時間も時間なので、電車も乗客はまばらである。博志兄さんとこうして電車に乗るのもおよそ一年ぶりのことだ。
「店のこと、良かったな。と言っていいのかどうかわからんが」
帰ってきて早々に、稔から七重に店を継がせることにした、と聞かされていた。
「はい。良かったことにしていかないといけないと思っています」
京都までの少しの時間、向かい合って座る。
「お袋には小宮のことをいい奴だと言っておいたんだが」
「お父さんにも、それでいいのかと聞かれました。何だか、海外にでもお嫁にやってもいいような口ぶりでした」
「そりゃあそうだ。今の時代、その気になればどこでいても簡単に行き来できるからな。なのに、やっぱり店を選んだ。後悔はないのか」
「は・・・い。正直わかりません。ただ、今はまだ結婚だなんて考えられませんし。でも、いつかそんな風に思うことになっても仕方がないかなって」
「そうか。お前が決めたことだから、とやかく言うのはよしておこう。まあ、あいつに兄貴なんて言われるのも複雑だしな」
「妹の美幸さんもそう言ってました。いいお友達がお姉さんになるのは複雑だって」
「なるほど」
「でも、お兄さんこそ、そろそろ考えないといけないんじゃないんですか?結婚」
「まさか。まだまだ半人前だ」
「小宮さんには勧めておきながら?」
「それは、お前のことを思って、だ」
「今日ご一緒する美幸さん、素敵な方ですよ。とりあえず春には先生になりますけど、何年か先ならば。その間にお兄さんも日本に帰ってこられるかもしれないんでしょう?」
「俺のことはいい。しかし、そうなったら今度は俺が小宮を兄貴って呼ぶことになる。それも願い下げだ」
そんな話をしながら駅に着く。小宮と美幸さんは先に着いていて、二人を迎えてくれた。
博志兄さんと美幸さんが初対面で、簡単に自己紹介をするのだが、お互いに少しばつが悪そうにも、意識し合っているようにも見える。
ひょっとすると、小宮も美幸さんに同じようなことを言っていたのかもしれない。
それでも、美幸さんが博志兄さんのアメリカでの生活にあれこれ質問して、二人の会話が弾んでいるようだ。
「小宮さん、美幸さんに兄のこと何て?」
小さな声でそう尋ねてみる。
「いい奴だし、将来も有望、教師なんかやめて嫁に行くのも悪くないと。何か?」
思わず小さく吹きだしてしまう。
「私も同じことを話しながら来たんです」
「道理で」
七重から見ると、二人の相性はともかく、それぞれ素敵な人であることに間違いなく、お互いに悪い印象を持つはずはないのだ。
もしも、二人に縁ができてしまうと、それは素敵なことではある。ただ、もうすぐ終わってしまう小宮と七重の関係を考えると、少し心の痛むことになるのかもしれない。
ふとそんなことを考えて、少し憂鬱な気分で俯いてしまいそうになっては、これではいけないと思い直す。今日をいい思い出の一つにしなければならないのだ。
駅から大覚寺までは住宅街を抜けて一キロほどで、普段なら観光客の往来も多い場所のはずだ。さすがに、大晦日のこの時間になると、しんと静まりかえっている。
明かりのあるところへ人が集まり、思い思いの格好で話している。気温も下がってきているのだろう、息が白くなっている。
四人もその中のグループの一つになって時間待ちをすることになった。
「今年はあれこれ忙しい一年だった」
小宮が誰にというわけではなく、ポツリと呟く。
「本当に。でも、今までで一番充実した一年でした」
七重が自然にそれに応える。
「音楽に茶畑に、山吉小町、動画デビューだろ、おまけに骨折までしたんだから」
「もう、あれは事故です。でも、ある意味、それも勉強になりました」
「そして、ついに店の跡継ぎの地位も獲得したし」
「とりあえず勉強することに許可が出ただけです。これからの方が大変になります」
「そうだな」
二人の会話を博志兄さんと美幸さんが楽しそうに見つめている。
「吉野は、何年か先にでも日本に帰ってくる気はないのか?」
「わからんよ。教授や会社への義理もあって、自分で決められるものでもない」
「そうか、ま、美幸も何年かは先生をやってみるのも悪くはないか」
「何だ、それは?」
「単なる思い付きだが、お前に俺のことを兄貴と呼ばせるのも愉快だなと思ってな」
「ほ、七重と二人で楽しんでやがる。美幸さん、君の兄貴もいささか人が悪い」
「あら、吉野さん、私では不足ですか?」
美幸さんは当然同意してくれると思っていたのだろうが、どうやら美幸さんの方が博志兄さんより上手のようだ。
「いやいや、そういう意味ではなく。困ったな・・・」
「冗談です。お兄さんの仰るとおり、自分たちのことは棚に上げて。私は、七重さんのことをお姉さんと呼ぶ練習までしていたのに」
博志兄さんがほっとしている。
ちょうどその時に大覚寺の門が開かれ、皆がそちらへ向かって歩き始めた。
「じゃ、美幸さん、人の悪い二人は放っておいてまいりましょう。君たちはその悪趣味を鐘の音で清めてきたまえ」
博志兄さんはちょっと芝居がかった口調でそう言い、美幸さんにエスコートの手を差し出す。そんな仕草は日本ではあまり馴染みがなく、小宮と同じでアメリカ仕込みなのだろう。美幸さんも、それにすんなりと手を重ねて微笑みながら従って行く。
案外、瓢箪から駒が出ることになるのかもしれない。
「じゃ、俺たちも心を清めに行くか」
「はい」
除夜の鐘は一般的には百八つと言われている。ところが、本来はそれぞれのお寺によって異なるもののようで、大覚寺では参拝に来た人がつき終わるまで特に定めはないそうだ。
何十人かの列を待って、博志兄さんと美幸さんが一緒につき、その後小宮と七重が撞木の縄を持つ。
今年も変化の多い一年になりそうだ。
こうして四人が顔を合わせることはこれが最初で最後なのかもしれない。そう思うと、このまま離ればなれになるのはやはり少し淋しいことだ。
「せっかくこうして四人揃ったんだから、新年会もやらないか?」
小宮が、そんな七重の胸の内を察したのだろうか、そう提案する。
「今日はそれぞれ引き上げて、明後日、いや、もう明日か、もう一度集まろう。今年は吉野もまだ帰らなくてもいいんだろう?」
「ああ、今年は少しゆっくりできる。そいつはいいアイデアだ」
そして、山吉へご招待して、七重のお点前でもてなそうということになる。
元日は、何年かぶりの親子四人で、ゆっくりと過ごした。
朝のお雑煮を食べながら、小宮と美幸さんをお招きしたいと、博志兄さんから告げる。すると、稔は、面識ができている小宮のおばあ様も一緒にお招きしてはと言ってくれた。二人が出かけてしまっては淋しい正月になってしまうと気を利かせてくれたのだ。
七重が電話をすると、おばあ様も喜んでそのお招きに応じてくれた。
「素敵なお嬢様ですこと。本当に徹の嫁になってくださればよかったのに」
おばあ様から突然そんな言葉を聞かされて、七重だけでなく稔や佐和も驚かされる。円熟した天真爛漫さで、そんな思い切った言葉も誰もが自然に受け止めざるを得ない。
「はい。一時はもらっていただけるのならば何よりと考えもしたのですが、この通り融通の利かない娘でして」
「徹にも甲斐性がございません。吉野さんのお兄様はもう一人前なのに、こちらはまだ学生の身分。これでは仕方がありません」
そう言われては、さすがの小宮も頭をかくしかなかった。
そして、午後からは明日からの初売りに向けての準備もあり、博志兄さんと二人で小宮の家へお邪魔することになる。
店の準備は少し気になったが、最後の自由な正月だから出かけてこいと言ってくれた。
実際に店を預かってくとなると、盆も正月もない。そういう世界に身を投じていくことになる。そのことに新たな覚悟を持ちながら、もうしばらくは甘えていようと思う。稔の言っていた、娘として甘えることも親孝行になるかもしれないと思えるのだ。
とはいえ、翌日三日からは、その甘えも忘れて店に立つ。初詣のお客様も多く、幾日かは大忙しだった。
七日には博志兄さんを見送り、いつもの日々に戻っていく。
その後も何度か小宮と会い、二人の時間を重ねていった。
その頃からぼんやりと、七重の中で小宮とお別れする日を二月十四日にしようという決心が固まってきた。
三月には、小宮はアメリカに旅立つことになる。そして七重も二月末の卒業演奏を終えると、卒業式までは何も予定がなく、山岡へ手伝いに行くことになる。
そして、その日は、初めて二人が和束へドライブをすることになった記念の日でもある。あれからちょうど一年になるのだ。
何かはっきりとしたけじめを付けなくては、小宮を見送れそうにない。
小宮に心配をかけないためにも笑顔で爽やかに見送りたい。しかしその自信はなかった。ならば、それまでにうんと泣いておこうと思うのだった。
一月も末の水曜日、その日はわがままを言って朝から店を休んで小宮と一緒だった。
午前中から映画を見て、お昼を食べて川端通を歩いていると、少し雪が落ちてきた。見上げると雲は流れていたが幸い地表ではそれほど風もなく、その中を四条から丸太町へ上がっていく。
「小宮さん、あれからもうすぐ一年になります」
「そう、だな」
終わりにしなくてはいけない、その言葉は七重から告げようとずっと思っていたのに、やはり言えない。その代わりに、つないでいた小宮の手を握る。
「約束の一年になる。俺が誘ったのだから、俺が終わりを言い出さないといけない。それは分かっているんだ」
「いいえ、一年って言ったのは七重です」
「そうだったかな。まあ、そんなことはどうでもいいが、まだいい、まだいい、と言い出せなかった。やはり、往生際が悪い」
「そんなこと・・・」
「いや、その通りなんだ。今でも半分は終わりにしなくてもいいんじゃないか、と迷っている。離れてしまえば、自然に忘れられる時が来るかもしれない。それまではこのままでいいんじゃないかってね」
「はい。でも自然に忘れることなんかできません」
「やはりこの一年をいい思い出にして、それぞれの世界に飛び込んでいかなきゃいけないのだろうな」
「やっぱり、終わらなきゃいけませんね」
「一度はな」
「一度は?」
驚いて小宮の顔を見上げてしまう。
「ああ、この先何があるか分からない。現にこうして、思ってもみない偶然で七重と知り合うことになった。本田教授の命令で日本に帰ってきたこと、西野の流産で七重が主席になったこと、中山君の提案で五重奏が始まったこと、どれもその半年前には考えもしなかった」
「そうですね」
小宮の言う通り、何か一つでも偶然が違っていたら、二人がここにこうしていることもなかった。
そう思うと、これからの将来にも何が起こるのかは分からない。ひょっとすると、何かの偶然で再び二人が出会うことだってある。だけど、その偶然をずっと待っていることはできないのだ。
「だから、二月十四日。初めて小宮さんにドライブに連れて行ったもらった日です」
「ああ、懐かしい気もするし、ついこの間のような気もする。で、その日を最後にするか」
「三月には小宮さんはサンフランシスコへ経つのでしょう?」
七重は少しずつ俯いてしまって、足元の舗道から眼を上げられなくなっていた。
「きっとそうなる」
「だから、その前に・・・」
そう言ってしまって、見上げる小宮の顔が涙で見えなくなって立ち止まる。
「わかった。今から泣くな」
小宮はそう言いながら、七重を引き寄せて髪を撫でてくれる。
いつの間にか、雪は綿のようにふわふわと柔らかく落ちてきて、引き寄せられた小宮の肩にもいくつか乗っている。このまま降り続くとすぐに積もることになるだろう。
七重が冷静さを取り戻すまでのちょっとの間に、肩の雪は増えていた。
「ごめんなさい。こんなところで」
「積もりそうな雪だ。寒くはないか」
「少し。でももう少し歩きたいです。いいですか?」
「もちろん。しかしこのままじゃ二人して雪だるまになるな」
近くにあったコンビニへビニール傘を買いに行く。
「髪を濡らすと風邪をひく」
そう言って、七重の髪や肩に積もっている雪を丁寧に払い落としてくれる。ちょっと子ども扱いされているような気もするが、その優しさに身を任せてしまう。
傘は思ったよりも小さくて、ぴったりと身を寄せていても肩口に雪が積もる。
そしてその傘はいつも七重の上にあって、小宮の向こうの肩には雪が積もっていた。
「半分こです」
そう言って分け合おうとするのだが、いつの間にかに七重の上に戻ってくる。
こんなに七重を大切にしてくれる人がいたことを、生涯忘れることなどないだろう。
寒さも、雪景色も、そして小宮の優しさもしっかりと胸に刻み付けておきたい。そんな思いからもう少し二人で歩きたかった。
「これも思い出になるな」
小宮はそんな七重の心を察してくれる。
「どうして、どうしていつも七重の考えていることが分かるのですか」
七重は俯きながらそう尋ねてみた。
「さあ?」
小宮はじっと視線を前に向けたまま答える。
「七重は、自分で決めておきながら、自信がなくなりかけています」
「何の自信?」
「一人で生きていけるのかなって。小宮さんに会うまでは、そんなこと思ってもみなかったのに。小宮さんのせいで弱虫になったみたいです」
あたりはあっという間に雪景色となり、ほんの三十分前とは違う世界になった。ただ、雲の流れが速く、空は随分明るくなり、雪も小降りになってきた。
七重はもっともっと降って積もってほしかった。
「この一年、七重が大変な時、いつも小宮さんがそばにいてくれましたから」
「よせよ」
「でも」
「雪のせいで感傷的になってしまったな。少し小降りになったようだし、今日は今日の思い出を増やそう。寒いのは大丈夫?」
「はい」
「一番寒いところへ行こう」
「どこですか」
「大原。宝泉院で雪を見ながらお茶をいただくってのはどう?」
「冬の大原は行ったことがありません。本当に寒そうです」
通りかかったタクシーに乗って大原へと告げると、寒いですよと言われてしまう。
大原のバス停前で降りて、裏の川沿いの狭い道を登る。タクシーを降りたときは、寒さで凍り付きそうだったのに、急な坂道を登って行くと、三千院に着くころにはすっかり体が温まっていた。
紅葉の頃には、観光客も多いのだろうが、この季節だと閑散としている。
今登ってきた道のそこここに雪があり、メインの通りも道の両脇に、そして木々にも雪が積もっている。
漬物や土産物の店を左に、三千院の石段の前を通り過ぎて宝泉院へと向かう。
宝泉院は入り口の門から雪が積もっていて、庭の緑と白のコントラストがきれいだった。
狭い玄関で靴を脱いで本堂へ通ると、そこから見える雪景色に息を飲む。
ただ、開け放たれた空間なので、すぐに足の指先から冷えてくる。
それでも寒さをこらえて緋毛氈に座っていると、お寺の方が七重にひざ掛けを貸してくれた。拝観客が二人だけだったために特別にそうしてくれたのかも知れない。
お茶が運ばれてくると、小宮に作法を教えながらの喫茶となる。正式の茶室ではないので亭主もいないのだが、一応の礼儀と所作を説明していく。案の定、小宮は覚えきれるものではないと途中でギブアップした。
お別れする日まであとひと月もない。
「これで良かったのでしょうか」
「何のことだ?」
「二人のこと。いいえ、女としての七重自身のこととしても」
「正直、分からない。俺も、男ならもっと強引であるべきなのかと思ったりもした。しかし、きっと正解なんてものはないとも思う」
しんと静まりかえった世界で、小宮と一緒にいる。いつの間にか二人でいることが当たり前になり、それはひどく居心地のいいものになってしまっていた。
一年という時間をかけてここまで来た。
離ればなれになって、また一人の時間に慣れることができるのだろうか。そして、今度はそれにどれほどの時間がかかるのだろうかと思う。
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