第18話
《十八》
次の日からはまた山吉で表の手伝いを始めた。
十分だったかどうかは分からないが、締めくくりの演奏会として、一応自分では納得のできるものだった。森本さんのおかげで本当にいい思い出ができた。
それでも、こうして小さな町の小さな店で、お客様と一緒に小さな笑顔を繋いでいく。それが七重らしいと思えるのだ。
午後になって、少し落ち着いた頃に稔から呼ばれて奥へ上がる。
「七重、音楽の方は本当にやめるのか?」
いつもとは違う雰囲気で、正面からじっと見つめられて、無意識に姿勢を正してしまう。
「はい。卒業までと決めていましたから」
「そうか・・・」
稔は一口お茶をすすって柔らかく七重を見る。
「山吉のことだが、この間、豊君が来てな、七重なら大歓迎だと言っていた。もちろんご隠居の意向も同じだと」
「はい」
「しかし、昨日お眼にかかった小宮様のご子息とお付き合いをしていると聞いたが」
「はい。私の卒業までという約束で」
「博志は、好青年で将来もかなり期待できるから、お前の嫁ぎ先としては申し分ないと言っていたが。それも忘れられるのか」
「はい、いいえ。忘れることは難しいと思います。でも、小宮さんとは進む道が違うので」
「そうか。全て覚悟の上なんだな」
「はい」
「・・・では、私も覚悟を決めなくてはならんな」
稔はそこで一呼吸おいて、一度頷いて言葉を続けた。
「いいだろう、お前の気の済むようにやりなさい」
「お父さん、本当に」
「もちろん、私もまだ隠居する気はないし、お前も分かっている通り何年も見習いをして勉強しなきゃならんことは山ほどある。そして、どうしても任せられなければ、前にも言ったように他の誰かに任せることも暖簾をたたむこともある」
「はい、その覚悟もしています」
「お前の仕事ぶりはどうかとタムちゃんにも相談した。気働きや真摯な姿勢は評価してくれたよ。店を継がせることについては最後まで返事をしなかったが、賛成だと顔に書いてあった」
「田村さんには教えられることばかりです。好きだけでやっていける世界ではないこともわかりましたし」
「不思議なものだな。お前の周りの人たちは皆お前の味方になっていく。私一人が反対するわけにはいかない」
「お父さん、ありがとうございます。私も甘えの気持ちを捨ててがんばります」
七重が思いを込めてそう言うと、稔は逆に少し淋しそうな顔になる。
「私が心を決めかねていたのはそこだよ。お前は私にも佐和にも可愛い娘で、いつまでも甘えていてほしいし、幸せになってほしい。それが私たちの夢だったからね」
「すみません。でも、お店のこと以外ではやっぱりお父さんとお母さんの娘です。これからも甘えさせてください」
「そうだな。だが、それだけ大変なことだということは、私が一番分かっているからね」
そう言って、小さな溜息を一つつく。
「前にも言いましたが、正直、私の力ではこれだけのお店をやっていけるかどうかは自信がありません」
「まあ、山岡との付き合いはあるが、商売は規模だけではない」
「あの、お父さん、寺町の蓬莱堂さんてご存知ですか」
「なんだ、急に。何度か寄り合いで一緒になったことがある」
「そこのご主人にも教えてもらったんです。茶舗は茶舗らしく、お客様に納得してもらえる商売ができればいいって」
「ほう、いつの間にそんなところで知り合いができたんだ」
「たまたまお寄りしたときに、ご主人が私のことを見知っていてくれたのです。宗柳先生のところでお眼にかかっていたようで」
「世の中は狭いものだな。茶舗は茶舗らしくか、いい言葉だ」
「私にできることは小さな事かもしれませんが、その気持ちは忘れないでいたいのです」
これまで、お互いに遠慮するところがあり、あまり言葉を交わしていなかった分、今日の七重には聞いてほしいことがたくさんあった。
「なるほど。では、ご隠居のところで勉強した後は、蓬莱堂さんに奉公に出るか」
「えっ、そんなことができるのですか」
「無論、先方が承知していただければだが。昔は珍しいことではなかった。商売仇でもあり商売仲間でもある。しかし、お互いに最後は人だということをよく知っていたからね」
「その時が来たら是非」
「いいだろう。京都と宇治でこれまではそう親しくはなかったが、これからは少し話をしてみるとしよう」
「お願いします」
七重の夢が一つずつ現実になっていく、そのスタートに立てたのだ。
そんな七重の表情に、稔は苦笑する。
「早速だが、これから勉強を始めるに当たって、憶えておいてもらいたいことがある」
「はい」
「何事にもゆっくり時間をかけるということ、そして、七重らしさを忘れないこと、この二つだ」
「どういうことですか」
「ほらほらそこからだ」
「は・・・い」
「目的や結論を意識しすぎないことだ。まずゆっくりそこに身を置いて、自分の感性でいろんなことを謙虚に自然体で受け止める。それがどんな意味があるのかとか、何の役たつのかとかを理屈で考えるのはずっと後でいい」
「はい」
「そうしないと、一見取るに足らないように見える、本当に大事なことを見過ごしてしまう。まあ、そんなところだな」
「わかりました」
「また、そう早く納得するもんじゃない。頭で理解できることはたかが知れている。まずは五感でゆっくりと受け止めることだ」
稔も七重の決心を認めたからには、やはり教えたいことが山のようにあるのだ。それだけ山吉を継いでいくことは簡単なことでない。自分の後継者に何を求めていくのかは、ずっと考えていたのだろう。
「そして、私らしさを忘れずにというのは、こうでなくちゃいけないという姿を固定せずに、女であることや七重という個性を忘れないでいなさいということですね」
「そういうことだ。七重がどんなに頑張っても、私にはなれないし、そうなる必要もない。最後は人、その人の全人格からにじみ出てくる味がなければ、人さまには通じない」
「はい」
「さ、表に戻って店を手伝いなさい」
稔に優しさと厳しさの混じった顔でそう言われて、表に戻る。
その日の夕食で、佐和にも稔の決心が伝えられ、佐和もまだ迷うところはありながらも、とりあえず了承してくれた。
そして、山岡への年末の挨拶に、明日、稔も一緒に行くことになった。春から七重が世話になることを、稔からおじさんに正式にお願いしなければならないというのだ。
翌日、去年と同様に、好評だった和菓子と清酒を持って和束へ向かい、稔が頭を下げる。おじさんは豊兄さんを呼んで、七重のことを一緒に頼むと言ってくれた。
以前にも七重からその覚悟は伝え、理解もしてくれているので、快く引き受けてくれる。
「三月から畑の手入れも忙しゅうなるで、その頃から気の済むまでおったらええ。ちゅうても土日は山吉小町で店の手伝いもせんならんか」
おじさんが自分のことのように喜んでくれているのがわかる。
「まあ、店の方はどうしてもというわけでもありません。春風園さんの影響で、やっぱり以前よりは暇ですし。夜に注文の整理や返信をやってくれれば」
「お、稔はんも相変わらずきついなあ」
「いやいや、すでに七重のお客さんもいてますから大事にせんと。それにパソコンは私もタムちゃんも今一つですから」
「そら分かる。まあ、若いうちは楽をせん方がええでな。いや、わしはここで寝泊まりして、お嬢の今風の料理を食べさしてもらおて思てたんやが」
「それこそ、かなり修業しなければ。私と佐和が毒見してからにしましょう」
「なんや自信ないのんか」
「これまでちと甘やかし過ぎました。七重、これからは女としての修業もある。ええな」
確かに、料理となると自信はない。
これまでは音楽三昧で、茶道すら離れがちになっていた。音楽に費やしていた時間と情熱がなくなって、淋しくなると思っていたが、思いのほか勉強しなければならないことは多いようだ。
「はい。お師匠さんに褒めてもらえるように母に仕込んでもらいます」
「弟子にはせえへんて言うてるやろ」
「ダメです。押しかけですけど」
「かなあんな。この頑固なんは稔はん譲りか」
おじさんはそう言いながらひどく満足そうな顔をしている。
その後、稔とおじさんの長い付き合いの中での思い出話になる。
やがて七重もそうした歴史の新しい時代を担って行くことになる。それは責任の重いことではある。
ただ、七重が女の子であったことでおじさんや豊兄さんも無条件に可愛がってくれた。そして、本当に気心の知れた関係となり、その関係は今後も変わることがないと思う。
七重が山吉を継ぐことは、これまでのいい関係をなくすことではなく、その上に新たな関係を積み上げていくことなのだ。
その週の木曜日に五重奏のメンバーで、チャリティーコンサートのご苦労さん会と忘年会があった。今回は中山先輩の発案で広中教授を誘い、教授も喜んでご一緒してくれた。去年は予約が取れず、小宮の家へ押しかけてしまったが、大学の近くの居酒屋でうまく場所が見つかったとのことだった。
ちょうど一年前の年末に五重奏が始まり、学ぶことも悩むことも多かった一年が始まった。それまでの高校からの延長のようにも思える大学生活から、深く音楽に触れ、演奏することの難しさと楽しさを知ることができた。
お酒とともに、この一年の演奏を振り返ってあれこれと思いが交わされる。
その一つ一つに七重の思い出も重なっていく。充実していたようにも思えるけれど、ついていくのに精いっぱいで、慌ただしいばかりだったようにも思えてしまう。
十時を過ぎて、お開きとなる。表通りで広中教授のタクシーを見送って、それぞれがよい年を、と別れていくのを小宮と二人で見送った。
「さて、どうする?送っていこうか?」
「はい。でも、もう少し一緒にいさせて下さい」
京都の冬は寒く、今夜は特に足元から冷えてくる。気まぐれに歩く気にもならず、結局小宮に優しく抱かれることになった。佐和には小宮家に泊めてもらうことになったと小さな嘘を言う。それを信じているのかどうかは分からないが、そうですかと、さして心配をしている様子もなかった。
「ね、小宮さん、今年は大晦日の夜、どこかで一緒に除夜の鐘を数えませんか?」
七重は気だるさと温かさの中で、小宮の腕枕で半分うとうとしていた。ふと眼を開くと小宮の優しい視線に出くわして、ちょっと恥ずかしくなって小宮の胸に顔をうずめる。
そしてちょっとした思い付きでそう尋ねてみた。それも思い出づくりなのだ。
「いいアイデアだ。除夜の鐘といえば、清水や知恩院だが、人であふれているだろうな。
それに寒いぞ」
「はい。たくさん着込んできます」
「二人して着膨れで年越しか。あまりロマンチックとは言えないが、まあ、風邪をひくよりはいいか」
「こう見えて寒さには強いんです。宇治や和束の底冷えの中で育ちましたから」
「そうか。しかし、どうして急に?」
「思い出、になると思って」
ぼんやりと言ったつもりが、急に淋しさがこみ上げてきて涙がこぼれた。
「なるほど。そうだな・・・こら、泣くな。七重に泣かれると、俺はどうしたらいいのかわからなくなる」
「ごめんなさい。そんなつもりは・・・」
小宮はいつかのように七重の髪をそっと撫でてくれた。
翌朝目覚めると、京都の町はうっすらと雪化粧だった。道理で昨日の夜は冷え込んだはずだ。今はからりと晴れている。昨日の深夜から明け方にかけて降ったのだろう。
七重が先にシャワーを浴び、髪を乾かして簡単にメイクを済ませても、朝の弱い小宮はまだベッドで眠っている。
ちょっとした照れくささとともにそんな小宮を見つめていると、自分の頑なさが少し憎くなる。
普通の女の子なら、こうして大切に思ってくれ、望んでくれる人のところへ嫁いでいくことに迷ったりしないと思う。まだ若いというならば、何年間を待つことも大きな問題ではない。その間、自分にそれほど才能があるとも思えないものの、同じ音楽を続けていくこともできる。それに期待をかけてくれている先生もいるのだ。
それなのに敢えて何もかもを終わらせて、思いを貫こうとしている。
そこにどんな未来があるのかのかさえも、具体的に分かっているわけではない。なのに山吉の暖簾を継いでいくことが七重の定められた生き方だという考えが揺らぐことはない。
この頑なさはいったいどこから来るのだろうと自分でも不思議に思えてくる。
そして、こんなに大好きな小宮と離れることを選んでしまった。そのことを、後悔もできない自分が少し嫌な人間に思えてしまうのだった。
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