第17話
《十七》
そして、十二月十五日にチャリティーコンサートの最初のリハーサルが大阪のコンサートホールで行われた。
曲目は、ラベルの組曲とアルルだった。
ラベルの組曲も、ラベルらしく木管楽器が色彩豊かに使われていて、それぞれに活躍の場面がある。この曲も含めて、森本さんは五重奏のメンバーに白羽の矢を立てたのだろう。
これまで広中教授の指揮に慣れていた七重にとって、山本の指揮は随分奔放で誇張もされていて面食らわされた。プロの指揮者は指揮者そのものが、演奏の一部であると聞いたことがある。確かに、音がなくても指揮者の表情と動きでどんな曲なのかがわかる。
ただ、時折指摘するポイントは至ってオーソドックスなもので、七重にも十分理解できる内容だった。
初日は二つの曲の、テンポの指示と音量のバランスが中心で、メンバーに曲のイメージを把握させるのが目的だったようだ。
三日後の二回目には、ビオラとチェロにKフィルから幾人かが増強されていた。それだけで中音域が随分豊かになる。やはりプロのレベルは高いことがわかる。そして指示も細かくなり、曲想が一層鮮やかに彩られる。
前日のリハーサルでは本番さながらの指揮となり、オーケストラは山本の意のままに操られていく。このあたりがプロの指揮者の真骨頂なのだろう。
リハーサルが終わって、明日はよろしくと、山本が指揮台を降りる。皆がざわざわとする中、第二バイオリンとビオラの間から、まっすぐに七重の方へ歩いてくる。
「君が森本先生の唯一のお弟子さんかい?」
吸い込まれるような笑顔を向けられて、七重は思わず立ち上がってしまう。
「はい、いいえ。弟子だなんてとても。先生のご冗談です」
「そうそう。可愛いお嬢さんに振られたなんてニコニコしながら言ってました。それが君ですか。名前は?」
「はい、吉野と言います。桂音大四回生です」
「一つだけ私から注文してもいいですか?第二組曲のメヌエットですが、今日のリハーサルを聞いていて欲が出てきましてね。もう一つ、ためらいの心を織り込めますか?」
「ためらい、ですか」
「そう。宿題にしましょう。じゃあ、また明日」
片手を上げて笑顔とともに去っていく。
山本から声をかけられたことで、それとなく周囲の眼が向けられている。そのことに気づいて小さくうつむきながら座る。
オーケストラのメンバーが大半ステージを去っても七重は楽譜を見つめていた。もちろん楽譜をいくら見つめてもそこに答えはない。それはわかっている。
今日はもう帰ろうと小宮が声をかけてくれた。
その言葉に、はいと答えて楽譜を持って席を立つ。
「小宮さん、どうすればいいのでしょう?」
「イメージとしてはわかるが、難しいな。今のところ何も浮かばない。これから一緒に考えてみようや」
「お願いします」
二人は八幡の小宮の家へ向かった。
美幸さん、おばあ様、そして春江さんにも挨拶と一緒に茶畑の状況を話してお詫びを言う。皆から、あなたが悪いわけではないのだからと慰められる。そして、チャリティーコンサートには皆さんで聞きに行くからと励まされた。
小宮の部屋で、あらためて模範にしてきたCDに耳を傾ける。
「最初の八小節を四分割してみると、二小節ごとの会話になっている。第二主題の入りのピアニッシモは不安。そこから自信へのクレッシェンド、ってところかな」
小宮に言われると、確かに演奏はそう構成されている。
「もっと細かく見ると、最初の小節の三拍目は上昇音階で次の小節のクレッシェンドにつながっている。ところが三小節の三拍目は下降音階で次の小節の最初の音で完結している。だからその後は、音形は同じでも意味が違っている」
「そうですね、そこが疑問符だとも解釈できますね。そして、気を取り直してのクレッシェンドがあって、また自信のないピアニッシモ」
「そういうことだろうな。ただ、今でも七重の演奏は強弱としてはそれができている」
「もっと大きくコントラストをつければいいのでしょうか」
「過ぎると、わざとらしくなるしなあ。やはり自然な流れの範囲で、ということになるか」
「やっぱり難しいです」
「まあ、分析や技術論では超えられない壁があるのも事実だからな」
結局、その夜は夕飯もごちそうになって、小宮に家まで送ってもらった。
森本さんの体の状態はどうなのだろう。半年前、そして夏に会ったときにもお元気そうに見えたのに。
そういえば稔も今年の年明けには入院をした。六十歳前後となるとやはり変調を来すものなのだろうか。幸い稔は重症になる前に発見できて事なきを得たが、人の運不運というものはやはりあるようだ。
その森本さんが病院を抜け出してくると山本は言っていた。ひょっとするとこの演奏会が最後になることさえあるのかもしれない。
大きな期待を寄せてくれた森本さんに、恩返しの意味でもいい演奏をしなければ申し訳がない。
技術的にはトッププロのようにたくさんの引き出しもなく、七重にできることと言ってもたかが知れている。しかし、今の七重にできる最高の演奏をしたいと思う。
そんな思いで、眠る前にもう一度楽譜を開いて、小宮と検討した内容を七重流の記号でそこに書き込んでいく。
翌日、開演は午後三時で、午前中十時からゲネプロが行われる。いつものように会場へは一時間前に入った。
通用口からホールに入り、ロビーを通って楽屋へ向かう。
ふと見ると、明かりが半分程度しかついていないロビーで、森本さんと広中教授、そして山本が笑い合っている。
森本さんが七重を見つけて、やあ、と声をかけて手招きをしてくれる。右目に眼帯をしているものの、顔色は良く、立っている姿も以前と変わらないように見えた。
七重は驚いておはようございますと頭を下げながら、近づいていく。
「吉野さん、お久しぶりです」
「あの、お体の方は・・・」
七重がそう尋ねると、三人が改めて顔を見合わせてちょっと苦笑いをする。
「白状しましょう。見ての通り、至って元気なんですよ」
七重にいらぬ心配をかけないように無理をしているのかもしれない。
「今日は、病院からとうかがいましたが」
「はい、それは本当です。この通り目の手術をしましてね。老人性白内障。ガンはガンでも老眼です」
七重はまだ少し信じきれないで、広中教授を見る。
「放置すると失明の危険性もあって、楽譜が見えなくなると音楽家としては致命傷になる」
「四日前にこの右目、来週には左目を手術します。今日はその間に病院から抜け出してきたんですよ」
「では、本当に」
「はい、その他は悪いところはありません。ややこしい伝え方をして心配をかけました。すみません」
七重はほっとして肩の力が一気に抜け、涙が出てきた。
「もう、森本先生。本当に心配しました」
「すまない。ああでも言わないと、吉野はきっと二宮に気を使って出ないって言いそうだったから、二人でちょっと作戦を立てた」
広中教授が神妙な顔でそう言う。
「先生まで・・・じゃあ、騙されていたのは私たち五人だけですか」
「いや、厳密には吉野と小宮の二人だけだ。他の連中は私の考えに賛成してくれてひと芝居打ってくれた」
「中山先輩や高田さんまで」
「怒っちゃいかん。みんなお前と一緒にやりたかったんだ」
「でも、森本先生のお体のことで、なんて。悪い冗談です」
「私からもいいですか?」
それまでそのやり取りを楽しそうに見ていた山本が口を開いた。
「冗談の趣味の良し悪しは別にして、そうまでして君を引っ張った森本さんの思いは理解できますよ。アマチュアにしては本当にフルートらしい透明で艶のある音色です」
「とんでもないです。私程度の者はいくらでも」
「技術的にはね。でも、音色は本当に森本さんの若い頃によく似ていますよ。ところで、昨日の宿題、何か答えは見つかりましたか」
「それが、こんな風にと思うところはあっても、技術やブレスが足りなくて。十分には」
「ほう、じゃ、ゲネプロで聞かせてもらいましょう。森本さん、広中さん、ご一緒に」
「ああ、そうさせてもらうよ」
七重は、三人に深く頭を下げて楽屋へ向かった。
中山先輩も、高田さんも、結城さんまで、本当に人が悪い、と思うが、その思いに反して笑みが浮かんでくるのを堪えられない。とにかく森本さんがそう心配の要らないことがわかって安心できたのだ。
そして、その嘘も七重との演奏を望んでくれてのことなのだ。七重は、このまま演奏会が終わるまで騙されたふりをしておくことにした。
十五分前になると係員からそろそろステージへと指示が出る。
衣装こそまだ私服のままだが、リハーサルとは違って本番さながらの緊張感が漂う。
全員がそろったところで、コンサートマスターの合図でチューニングが始まる。管楽器から弦楽器へと渡されて、その後ほんの少しの間ざわざわとそれぞれの音がもつれる。
そして、再び静かになった頃合いを見て、山本が現れる。
「緊張は今のうちにしておいて、本番はリラックスして音楽を楽しみましょう」
ステージに漲る緊張感を感じて冗談を言い、メンバーにもそれが伝わる。
「じゃ、ラベルから」
元々はピアノの連弾曲で後にオーケストラに編曲したもので、ラベルらしく曲想もオーケストレーションも色彩豊かで演奏していても面白い。五つの曲で構成された組曲で、その色付けに木管の各楽器がいたるところで活躍する。
山本は、それぞれの曲想を体の動きと顔の表情でオーバーに表現する。顔が客席から見えないのが残念なほど、目まぐるしく変わっていくのだ。
繊細に、また大胆に、楽譜にはない解釈でテンポや音量に変化を持たせていく。
それが演奏家の才能だったり音楽性なのだろうと思う。そういう意味では、七重には苦手な分野だった。自分の中からこうしたいと湧き上がってくるものはあまりない。
とはいえ、今の自分に求められていることに手抜きができないのも七重の性格である。一つ一つのフレーズを山本が求めている表情に忠実に音にしていく。
弦だけのフェルマータを少しだけ長めに取って曲を終える。
「いいですね。本番はもっとオーバーになるかもしれませんから、ついてきて下さい。練習番号四の前からリテヌート、音量を絞ることで弱くなるんじゃなくて緊張感を最高潮に。そこだけ、もう一度やっておきましょう。その前の三番から」
そして、その前後の数小節だけを音にして止める。
「そうです。じゃ、十分間休憩」
そう言って指揮台を降りると、客席の最前列に近いところに座っていた、森本さんと、広中教授とやり取りをしている。
十分間の休憩とはいえ、席をはずしていた幾人かが戻ると、再びチューニングが始まる。そして、ラベルでは出番のなかったサキソフォンが加わる。
山本は指揮台に上がると、再び本番さながらにメンバーを一通り見渡して、意を決したように指揮棒を上げる。ラベルの時とは表情が全く違っている。その表情からオーケストラ全体に重厚な緊張が走る。
アルルは大学でも演奏しているので、七重も楽譜はほとんど覚えている。ただ時折広中教授よりもテンポの揺れが大きかったり、求めるバランスが異なるところもある。
第二組曲になると、フルートのソロや木管だけのアンサンブルがあり、指揮者と眼が合うことが多い。ちょっとした仕草や一瞬の表情で求める音色や雰囲気が伝えられ、七重はそれに操られていく。
そして宿題になっていたメヌエット。山本は小さく微笑みを向けて、ハープに合図を送る。七重は楽譜に書き込んだ記号に従って、主張、不安、疑問、そして緊張と緩和を研究したとおり音にしていく。そして最後の旋律では少しだけ音量を落とすことで曲を落ち着かせて、エンディング。これまで練習してきた細くて充実した音が上手く出せた。
終曲では、また山本の見事なタクトで、勢いと重厚感は増しながらも乱れることなく、クライマックスを迎えて終わる。
残響までがコントロールされているように緊張感が続き、そして本番では拍手が聞こえてくる瞬間に指揮棒が下ろされる。
「お疲れさま。いい演奏です。録音しておけばよかったな」
ちょっとした冗談でメンバーから笑いが起こる。
「一つだけ本番に向けてのお願いがあります。プロでも同じなんですけどね、演奏者が感動しないでお客様が感動するわけはないのでね、もっと心は熱く、思いを込めてやりましょう。ただし、頭はクールにね」
言葉の最後にちらりと七重を見る。
悪くはないが、もっとできるのではないか。そう言っているように聞こえた。
ただ、もう七重にできることはない。ちょっと途方に暮れてしまう。
「森本先生、もう私には引き出しがありません」
七重は役員の控室を訪ねて森本さんに教えを求めた。
「どうしたのですか?なかなかいい演奏に仕上がっていると思いましたが」
「山本先生から、もっとできると言われた気がしたものですから」
「ふむ、彼も私たちと同様に欲が出てきたんですね。君にはそうさせる何かがあるんですよ、きっと。ちょっと楽譜を見せてください」
「はい・・・あれこれ書き込んでいますが」
昨日の夜に表情やブレスの場所と大きさなど、わかりやすくするために少々漫画的に書き込んでいる。森本さんは左目だけで少し見にくそうにしばたきながらにこやかにその書き込みを見ていたが、やがてふっと小さくため息をついた。
「なるほど。よく分析もしているし、物語作りもできています。それに、演奏もそのとおりにできています。ただ、これでは音楽を牛耳ろうとしているような気がしますね」
「牛耳る、ですか」
「吉野さんらしさが出てくる隙がない。どうです?本番は、ブレスの位置くらいの書き込みにして、あなたの伝えたいことを音にしてみては」
「はあ」
「演奏というものは楽譜を相手にしているんじゃあないんです。人と人の関係ですよ。アナリーゼは基本であって、演奏するのは吉野さんという個性です。お客様は良いアナリーゼを聞きに来ているわけではなく、あなたの音楽を聞きに来ているのですから」
「でも、私の音楽と言っても、それほど中身のある人間ではないのですが」
「ならば、それでいいのではないですか。厚化粧して違う人間になる必要はありません」
そう言って、やはり暖かな視線でじっと七重を見つめて言葉を続ける。
「リハーサルまでは、徹底的に研究もし練習もしますが、本番は全て忘れて新鮮な気持ちでやりましょう。これはフルトベングラーの言葉です」
「そうですね。どうすればいい演奏になるのかを気にしすぎていました。何だか少し楽になった気がします」
「随分上手くなったのは分かりますが、上手いだけのフルート吹きは山ほどいます」
「そんなに言っていただくほどの技術もありませんけれど」
「まあ、それは別として・・・一つだけアドバイスしておきましょうか」
「はい、是非」
「恋する乙女の心ですよ。あなたの思いを、大勢のお客様に伝えるのではなく、客席で聞いているたった一人の想う方に伝える、そんなイメージでしょうか」
「ちょっと恥ずかしい気がします」
「その気持ち、それが大事なんです。計算や分析では出てこない気持ちです」
「それが山本先生の仰った、ためらいなんですね」
「ほう、彼もなかなか詩的な表現をする。なるほど、ためらいですか」
「ありがとうございます。私らしくやってみます」
「人の心を動かすのは技術ではありませんよ」
行き詰った気持ちで訪ねたが、森本さんのアドバイスでぼんやりと答えが見つかったような気がする。
七重らしさ、七重にしかないもの、それは小宮への気持ちだ。それを思いながら演奏しようと思う。七重の心にある気持ちを小宮に聞いてもらえばいいのだ。ならば、そんなに気負う必要も、難しく考える必要もない。
楽屋に戻ると、四人が配られたサンドイッチを食べながら、リラックスしていた。
「吉野さん、ごめんね、森本先生の件。今、小宮さんから叱られていたのよ。決して悪気があったわけじゃなく、成り行きで」
高田さんが、七重に笑顔を向ける。言葉ではそう言いながら、さして悪いとも思っていないようだ。
「あ、気にしないでください」
七重が経緯を知っている様子に、今度は小宮が意外そうな顔を向ける。
「私もたまたま今朝うかがったのです」
ロビーでのやり取りを説明する。
「なるほどな。俺も趣味の悪い冗談だって言っていたところだ」
「ですよね」
小宮も森本さんがお元気だったことで、ほっとしているようだった。
「でも、吉野さん、どうしたの?何だかずいぶん爽やかな表情ね」
七重の心の動きはそのまま顔に出ていたようだ。
「はい。今、森本先生に素敵なアドバイスをいただいて、色々悩んでいたのがすっきりとしたところなんです」
森本さんのアドバイスと聞いて皆興味を持ったようで、身を乗り出してくる。
「メヌエットでしょ。どんなアドバイスなの?」
「え、いや、あの」
ちょっと照れくさくて言葉にできない。
「何よ、教えなさいよ」
「あの、アナリーゼは一旦忘れて、恋する乙女の演奏をしなさいって」
七重の言葉に一瞬、怪訝そうな顔をして首をかしげる。
「なあに、それ?それで吉野さんはすっきりできたわけ?」
「はい」
「ふうん、恋する乙女にはそれで通じるってわけね」
七重の答えはちょっと期待外れだったようで、顔を寄せ合って小さくなっていた輪がまた広がる。
「ま、アドバイスっていうものは一般論じゃないところもあるからね」
中山先輩がそう言いながら、やはりもう一つ割り切れない表情でコーヒーを飲む。
やがてステージ衣装に着替えて出番を待つのだが、元々あまり緊張することのない上に、このメンバーと一緒なのでさらに平常心でいられた。
その間に小宮との一年の思い出を反芻しては、その時々の七重の気持ちを思い出していた。そして、メロディにそれぞれの気持ちをあてはめていく、ちょっとしたジグソーパズルを心の中で組み立てていた。
一部のラベルは、山本さんの言葉通りに、また、オーケストラのメンバーも気持ちが乗って、曲毎の色彩がより豊かになっていく。そして注文のついた終曲のリテヌートではデクレッシェンドとともにテンポも急速に落とし、ステージの七重も心を締め付けられた。
そして、フィナーレではティンパニのクレッシェンドに弦が重なりオーケストラ全体が感動に包まれる。
よく知っている観客からは我先に拍手が起こりがちなのだが、客席もその雰囲気に飲まれ沈黙を保っている。残響が消え、指揮者が振り返って初めて拍手に包まれる。
オーケストラは生き物だと言われる。その意味が七重にもよく分かった。これまでのリハーサルやゲネプロとは全く違った音楽なのだ。
拍手の中、山本さんは深く礼をして下手へ下がる。しかし拍手が鳴り止まない。珍しく再びステージに姿を見せ、あらためてオーケストラを立たせる。
そしてようやく休憩に入る。
休憩と言っても演奏者側は、ゆっくり休んでいる時間はなく、ひと息つくとすぐにチューニングが始まる。そしてステージに戻る。
途中で、七重は小宮の近くへ寄って、今日のメヌエットは小宮さんのために吹きますねと小さな声で伝えた。小宮はちょっと驚いた顔をして、それでも七重の意図を理解したようで、少し照れるなと返してくれた。
曲が進んで、第二組曲のインテルメッツオが重厚に終る。山本さんはほんの少し間を置いて、七重に笑顔を向け、七重もそれに小さくうなづいて応える。そしてハープに視線を向けて、合図を送るとそれまでの全体の響きとは異なり、透明な時間が流れ始める。
七重は眼を閉じて、小宮との時間やその時の表情を思い浮かべる。そうすると優しい気持ちになり、そして少し照れくさい気持ちにもなる。すると自然に四小節目がデクレッシェンドしてしまう。そしてまた気を取り直して音階とともにクレッシェンド、と心のままに演奏が進む。
山本さんは、ちょっと驚いた顔で七重を見直し、そのまま頷いて聞き入るように眼を閉じた。
第二主題の後、オーボエが重なるところで、七重は気持ちのままに少しテンポを揺らせてしまった。何の打ち合わせもしていない。ゲネプロでもテンポどおりだったのに、結城さんは七重の揺れに合わせてくれる。
中盤のトゥッティの後の第一主題で、ここでも下降半音階で大きくリタルダントすると、ハープもサキソフォンもそれに合わせてくれる。
エンディングでは、最後の音に入る前に山本さんの合図で少し長めにと要求され、それに応える。
そして今度は間を置かずに終曲に移る。七重のメヌエットの反動なのか、ゲネプロよりもずっと重厚な入りだった。その分ファランドールでは少しテンポが速くなり、オーケストラだけでなく客席の気分の高揚も伝わってくる。
今度は、最後の残響を待たずに、いくつものブラボーの声と一緒に拍手が沸きあがる。
山本がオーケストラを立たせ、客席に深々と頭を下げる。女性が二人、花束を抱えて中央へ歩み寄る。一つは山本さんが受け取り、もう一つはコンサートマスターに差し出される。すると、その彼が七重を指さした。それを受けて山本さんは自分の花束は指揮台に乗せ、弦の間を縫って近寄ってきてもう一つの花束を七重に手渡してくれる。
山本さんは笑顔で拍手を送ってくれ、振り返って客席に向かって七重への拍手を求めてくれる。すると会場もそれに応えてくれる。その中を、山本さんは下手へ下がっていく。
長い間拍手をしてもらうのは悪いからと、打ち合わせ通り次に登場したときには、すぐにアンコールに入る。同じビゼーのカルメンの前奏曲。誰もがよく知っている曲である。
そして、もう一度オーケストラを立たせ、下手へ下がると客席が明るくなり、終了を知らせる。
真っ先に声をかけてくれたのは高田さんだった。
「吉野さん、良かったわよ。まさに恋する乙女だった」
「ありがとうございます。小さな失敗もありましたけど何とか終えられました」
「十六分音符、いつ結城さんと打ち合わせたの?」
「いいえ。私の思いつきに結城さんが合わせて下さって・・・」
ちょうどすぐ横を結城さんが通りかかった。
「結城さん、すみませんでした。勝手に揺らせてしまって」
「吉野さん、ブラボーだった。いや、あそこはそれまでの流れで、そうなるだろうと思ったから。アンサンブルの頃からの吉野さんの癖だよ」
五重奏からの長い付き合いの中で理解してくれていたのだ。そういえば七重も高田さんや結城さんのリズムや音程の癖は分かっていて、自然にそれに合わせている。
あらためて、森本さんが五人を同時に選んだ理由が理解できる。
七重なりに頑張ってはみたものの、期待に応えられたのかどうか、自信はなかった。
きっとロビーでまた三人で話しているだろうと、着替えも後回しにしてロビーへ向かう。
案の定、朝と同じ場所で広中教授と森本さんが、笑い合っている。山本さんの姿はまだなかった。
「やあ、お疲れさん。良かったですよ、ゲネプロと違って、吉野さんのメヌエットでした」
「先生のアドバイスのおかげです。少しはご期待に添えたのでしょうか」
「ははは、それは彼に聞いてみよう」
指さす先には山本さんが額の汗を拭きながら近寄ってくる姿があった。
「お待たせしました。若い人ってのはいいですね。うまくかみ合うと素晴らしい力を発揮する。あ、吉野さん、でしたね。宿題、合格です。Kフィルで一緒にやりませんか。君には教えたいことが山ほどあります」
七重は合格だと言われたことにほっとしながら、Kフィルでとの誘いには答えられずに俯いてしまう。
「え?森本さん、そのつもりじゃあなかったのですか」
今度は山本さんが眼を丸くする。
「山本君もそう思うでしょう。私もそのつもりだったのですが、この子は実家のお茶屋を継ぐそうです。まあ、今日の演奏は、吉野さんにも私にもいい思い出になりました」
「ほう、森本さんが振られたってのはそのことも含めてですか。しかし残念だなあ」
「すみません」
七重は消え入るようにそう言って頭を下げた。
「まあそれも人生。しかし、昨日まで、いやゲネプロとも全く違った演奏でしたが」
「森本先生にアドバイスをいただいたんです」
「なるほど、そうでしょうね。何かがなければ急に変わることは難しいものです。で、どんなアドバイスを?」
「はい、アナリーゼは横に置いて、恋する乙女の気持ちで、と」
「あはは、森本さんもロマンチストですね。まだ十年は頑張れそうだ」
そんな話を聞いていると、ロビーに稔と佐和を見つけた。
「先生、ありがとうございました。両親が来てくれているので、ここで失礼します」
「ああ、それじゃ、また」
七重は三人に頭を下げて、そちらに向かった。
稔はいつもは和服なのに、今日はスーツ姿だ。そして珍しく七重を見なおしたとほめてもらった。稔にクラシックの造詣があるとは思えないが、それでも嬉しい。
そして、美幸さんと車椅子のおばあ様が七重に声をかけてくれ、それぞれに紹介をする。山吉のお客様でもあり、稔も丁寧に挨拶をする。
七重にとっての最後の演奏会は無事に終わることができ、いい思い出ができた。
稔と佐和には、小宮の車で美幸さんとご一緒してから帰りますと告げて、ロビーから楽屋へ戻る。
そして小宮にそのことを知らせて、大急ぎで着かえて一緒にホールを後にした。
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