第16話
《十六》
十一月の最後の週、七重の怪我は順調に回復して、以前と同じように動くようになっていた。ただ、今も重い物を持ったり手をついたりするときには少し怖がってしまう。
予定より少し遅れていた、七重農園での二回目の収録が近づいていた日である。豊兄さんから悲しい知らせが入った。茶畑オーナー用の木が荒らされ伐られてしまっているというのだ。とても収録できる状態ではないらしい。
朝、その知らせを受けて、七重はすぐに和束へ向かった。
山岡の家へ寄り、おじさんに軽トラックに乗せてもらって現地に着く。
豊兄さんが七重の顔を見て、沈痛な顔で首を振る。
急な坂道をおはようございますと声をかけて登り、畑に目をやって七重は声を失った。先日七重が鍬を入れた区画の成木は、電気のこぎりでバラバラに枝が刈られている。隣の苗木は根こそぎ引き抜かれていた。他の区画も同様で、見る影もない。
七重はこらえきれず、その場にうずくまってしまった。茶の木がかわいそうで、また、その犯人の乱暴さが怖くて涙が流れる。
「いったい誰がこんなひどいことをすんねん。とっ捕まえていてもうたる」
松本さんが、怒りをこらえ切れない口調でそう言う。
折角、青年団が整えて上手く根付いた畑である。
休耕地だったこの場所は、確かに人目に付きにくいところではある。夜の闇にまぎれてしまえば、誰かに見とがめられることもないだろう。
おじさんも悲しそうな顔でしばらくその光景を見ていた。
「天災におうたと思て、また一からやるしかないやろ」
溜息と一緒にそうつぶやく。
「そやかて、ご隠居さん・・・」
「松本君、悔しいのはみんな一緒や。山岡のことを心良う思てないもんの仕業やろうが、青年団にはえらいとばっちりで申し訳ない。この通りや」
そう言っておじさんは頭を下げる。
「ご隠居さんやめて下さい。そないされたら、俺らごときがどうこう言えません」
「なあ、豊、お嬢もやが、物事はそない一辺で上手いこと行くもんやないやろう。アイデアが良うて、評判も良かったら妬みを買うこともある」
「やけど、親父、これはひどすぎる。おそらくここの人間や。同じ百姓が茶の木伐るか?」
「そらそうや。しかし、酒に酔うてかもしれんし、どこぞの悪ガキのいたずらかもしれん」
「こんなされるくらいやったら、自分がどつかれた方がまだましやで」
「まあ、そう言うな。百姓ちゅうのんは辛抱してなんぼやで。もっぺんやり直したらええんや。お嬢も泣いたらあかん。なんぼ辛うても毎年春は来てやり直せんねん」
おじさんにそう言われるとその通りだと思えてくる。
「はい。あきらめたら終わりですよね」
七重も立ち上がって涙を拭う。
「そや、その意気やで」
そう言いながら、七重を見つめるおじさんの眼も潤んでいた。
「しゃあないな。七ちゃんに根性見せられたら俺らもやるしかない。なあ松ちゃん」
松本さんも頷くが、しぶしぶである。
「松本君もこないだまで学校の窓ガラス割ってたやないか」
おじさんが冗談交じりでそう言うと、松本さんもばつが悪そうに頭をかく。
「ご隠居にはかないませんわ」
「そらしゃあない。生きてる年数がちゃうでな。ほなお嬢と先に帰っとくわ」
ようやく七重の気持ちも落ち着いてきた。
倒れていた『七重農園』と書かれた手作りの看板をもう一度立てる。あきらめずにまた一から始めていこうと気持ちを込めた。そしておじさんと一緒に畑を後にする。
「お嬢、辛抱するちゅうことから始めなあかんで。こんなことは珍しいこっちゃないんや。誰かのいたずらだけやのうて、遅霜で新芽がやられてしまうこともあったし、台風で新しい苗木が皆流されてしもたこともある」
「はい」
「それを辛抱して、一からやり直して手をかけていくとな、次の年には必ずええ茶ができんねん。不思議なことやが」
「やっぱりおじさんは私のお師匠さんです」
「知らん知らん」
ようやくおじさんの顔にいつもの笑顔が戻る。
アイデアや評判が良ければ、それだけで心無い人からは嫉妬を受けることになる。それは少しわかる気もする。
豊兄さんの和束を思う気持ちが理解されてなければ、いわゆるスタンドプレーと受け止められることもある。たしかにこの企画は勢いだけで進めてきたところも否定できない。
専属のパートナーを持たない農家の方が一般的である。それが、山岡と吉野が長い時間をかけ、お互いに努力をしてきた結果ではあっても、やはり恵まれた環境であることに違いはない。
七重の人生では初めて直面したともいえる悪意だった。しかし、こんなことで挫けていたのでは、とても商売を続けてはいけないと思う。
今の七重には、おじさんの言う通り、辛抱すること、そして困難を乗り越えていく強さを持っていくことが必要なのだと思う。
「折角ここまで来たんやから、ゆっくりしてな」
「はい、そうさせてもらいます」
おじさんと一緒に炬燵に入ってお茶を入れる。やっぱりほっとできる時間である。
「お、そういや佐和はんから聞いたんやが、手ェ怪我したんやて?」
「ちょっと不注意で、小指にひびが入っただけです。でも、もう大丈夫」
そう言って左手を回して、指を動かして見せる。
「相変わらず華奢な手やな。これからも百姓すんのはええが、気いつけときや。油断しとったらひびではすまん」
「はい。注意しておきます」
「怪我なんかさせてもうたら、稔はんに一生恨まれるでな」
「でも、甘やかされると成長しませんから、仕事のことでは厳しくしてくださいね」
「うん、まあ、そっちはわしが何や言わんでも、世間や自然が教えてくれるもんや」
確かに、今日はその一端に触れた。
「はい。今日のことはかなりショックでした」
「覚悟しときや、こないだ豊が言うてたけど、こんなことは山ほどある。難しいのは自然よりも人間やさかいな」
そんな話をしていると、豊兄さんと松本さんが上がってきた。
ホームページは予定を変更してお茶の種類と美味しい淹れ方を紹介する動画にすることになったと聞かされる。冬の間は絵になる作業があまりないということで、見る人の理解は得られるだろう。
「七ちゃん、小宮美幸さんて、知ってるか?」
「はい。私の友達です。美幸さんが何か」
「ああ、道理で。オーナーの申し込みしてくれてたんやけど、七重さんの隣を是非って希望があったさかい知り合いかなて。ちゅうても今回は断らなあかんねんけど」
「もう、私にも内緒にしているなんて」
「申し訳ないなあ、七ちゃんからもお詫びしといてくれるか」
「わかりました。ちゃんと事情も説明しておきます」
そして、その日の夜に電話をすると、やはり驚き、残念がってくれた。
七重と小宮のお付き合いが終わってもずっと友達でいたいから、とあらためて聞かされて涙ぐんでしまう。そんな風に考えていてくれたことが嬉しかった。
春江さんもたまには手伝いたいと言ってくれ、何よりおばあ様が楽しみにしてくれていたようだ。
それだけでも、やはりここで挫けるわけにはいかないと思う。
翌日、吉野の居間で収録となった。お茶の種類や茶道具も吉野なら苦労なく揃えられ、簡単な茶室もある。
七重は畑でのイメージとは変わって、着物での出演となる。稔や佐和をはじめ、店の人たちが覗きに来るものだから、自宅であるのに却って緊張させられる。
とはいえ、お茶を淹れることはいつものことなので、迷うこともなく終了した。
「宇治や和束の人は、急須にお湯を入れると無口になるんですよ。お茶の葉が開いていく音を聞いているんです」
そうしたアドリブを入れると、それがひどく好評だった。
撮影時間は一時間半で、それを十分ほどに編集しなくてはならない。パソコンの得意な松本さんの腕の見せ所となる。
その日の夜になって小宮から電話があり、五重奏のメンバーに広中教授から招集がかかったことを聞かされた。
翌日、五人が指示された午後一時に広中教授の研究室に集まった。
「急に呼び出してすまなかった」
広中教授が静かな笑顔を向けてくれる。
「あらためてこのメンバーで演奏会ですか?」
このメンバーは集まったときに中山先輩がリーダーであったために、今でも何となくその役割が続いている。
「実はね、Kフィルの森本さんからの依頼なんだが・・・」
と広中教授が話し始める。
森本さんの名前を聞いて七重は少し緊張させられた。
ただ、事情はそう軽々しいものではなかった。森本さんが、ガンが見つかって近々に手術をすることになったと聞かされる。広中教授の口ぶりから、状況としてはあまり芳しくないようで、どうやらご自身もそのことを承知しているらしい。
その森本さんから、クリスマスのチャリティーコンサートに出演依頼があったというのだ。このコンサートはKフィルの常任指揮者である山本周三と森本さんが中心となって開催され、もう五回目になる。大阪の飲料メーカーがスポンサーとなり、関西の若手アマチュア音楽家育成と、災害被災者の支援を目的にしている。
森本さんから広中教授に直接連絡があり、たっての希望だという。そして森本さんの最後のわがままとして、山本周三も了解してくれているというのだ。
そう聞かされると、断るわけにはいかない。
「広中先生、喜んで協力させていただきます。そんな事情ならば尚更です。ただ、森本先生としても思い入れのある演奏会に、僕たちで大丈夫でしょうか」
中山先輩が代表して言葉にするが、皆同じ気持ちのようだった。
七重としても自分を認めてくれ期待もかけてくれた恩義のある先生である。
「ああ、その点は私も君たちを自信をもって推薦できる。それぞれの力量とこれまでのアンサンブルもあるが、メインが先日やったばかりのアルルだからね」
アルルと聞かされて、七重はもっと驚くはずなのに、意外にも冷静に受け止めていた。
元々、定期演奏会のプログラムにリクエストされていて、七重は怪我でそのリクエストに応えられていないままなのだ。
「なるほど。森本先生も僕たちの演奏をお聞きいただいてのことですか」
「そういうことだ」
「ならば慌てることもないですね」
「吉野もステージには立てなかったが、リハーサルでは十分にこなせていたから大丈夫だろう?」
そういわれると自信があるわけではない。
「あの、私、嫌だというわけではありませんが、二宮さんの方が安心ではないでしょうか」
「しかし、森本さんは約束だから、と仰っていたが・・・」
Kフィルでの演奏に誘われたことを言っているのだろう。七重の返事を待たずに強引に決められたことだった。
ただ、この状況からは森本さんの指名を断れない気がする。
「約束というわけではないのですが・・・」
「まあ、断るわけにもいかないだろう」
「はい・・・それは」
「じゃ、決まりだ。今度こそ怪我をして穴をあけることがないように」
リハーサルの日程は山本周三の都合で三度、すでに日にちも決められていて、そのメモを中山先輩が受け取る。
「それまでに二、三回、うちのオーケストラで合わせておこう。下級生の練習にもなるから、メンバーは集まるだろう。よろしく頼む」
そう言われて、五人は研究室を出る。
「しかし、惜しいな、森本先生。吉野の話じゃまだ六十前だろう」
中山先輩がしんみりとそう言う。
「大師匠は七十を超えていまだ健在なのにな。病気ばかりはどうにも」
小宮が応える。
修士演奏会で出会うまでは、一人の著名な演奏家で、遠い存在だった。ところが広中教授との縁もあり、そして実際に言葉を交わしたのは七重だけだったが、そのつながりからも随分近い人になっていた。その分、動揺もさせられてしまう。
「ね、吉野さんのリハビリに少し音を出して行かない?吉野さん、あれからほとんど楽器を触ってないんでしょ」
高田さんが気分を変えるように皆に声をかける。
「はい。でも、皆さんにご迷惑はかけられません。オケの練習までに自分でやりますから」
「いいね。ホールも空いているみたいだし」
結城さんも賛成してくれる。
皆に促されて大ホールに向かう。しんとしたホールのステージに照明が点く。練習なので、半分ほどで十分な明るさがある。
楽器のソロか声楽の発表会の練習のためか、ステージの中央やや奥にピアノが置かれていた。こちらの予定外の使用なので動かすわけにはいかない。
いつものように七重が椅子を出そうとすると、横からそれぞれが自分の椅子と譜面台を持っていく。
「また、怪我をされたら困るからな」
小宮が笑いながらそう言う。
「そんなにドジじゃありません」
「前にも言っただろ、オケじゃ先輩だがここじゃ仲間だって」
それぞれが自分の定位置でウォーミングアップを始める。
一ヵ月半も楽器に触れないでいることはこれまでになかった。そして、今ではすっかり良くなっているとはいえ、左手の小指は思う通りに動いてくれるのかどうか。
ちょっとした緊張を感じながら音を出す。音は低音も高音も違和感なく鳴ってくれるが、半音階では、少しもつれそうになってしまう。やはり練習不足だ。
「左手、大丈夫そうね」
高田さんが向かいから声をかけてくれる。
他のメンバーも心配してくれていたようで、それとはなく七重の様子を見ていた。
「はい。でも練習不足で指が思うように動きません」
「吉野さん、何だか中低音の音色が力強くなったような気がするが、僕の気のせいかな」
結城さんが隣で首をかしげている。
「やっぱりそうよね、私もそう思う」
「そうですか?久しぶりだからでしょうか」
そう言われても、七重にはピンとこない。自分では意識して何かを変えた意識はなく、以前のままのつもりである。
「俺の最初のアドバイスの成果が現れてきたのかな」
「ああ、小宮さん、やめて下さい」
あれから一年以上になる。そして、ここ半年ほどで七重の体重も少し増えていた。
「へえ、小宮さんなんて言ったの?」
「まず、もう少し太った方がいい、ってね」
「あはは、それは当たってたかもね。たしかにアドバイスは効いているみたいだし」
「もう、高田さんまで」
そんなやり取りで笑い合って場がなごむ。
ずっと練習をしてきたライヒャが始まる。
七重の指も次第に自然に動くようになってきて、どうやら心配することはなさそうだ。
「しかし、こちらも残念だな。春からは小宮君はまたアメリカで、吉野は卒業か」
二回通した後、中山先輩が皆を見渡しながらそう言う。
「すまない。また次のメンバーで新しいアンサンブルを頼むよ」
小宮がちょっと頭を下げる。
「もっとも、残る我々も後一年で、その後はバラバラになるんだけどね」
「またいつかどこかで集まることができるかもしれないし」
ちょっとしんみりとしてしまう。
いつかどこかで、とは言っても、七重にその日は来ないだろうと思う。
「そうだな。それぞれたくさん勉強をして、いい演奏を聞かせてもらいたいものだ」
広中教授の声がして、皆が驚いて振り返る。
教授はコツコツと足音を響かせて、置かれているピアノの椅子に座って、メンバーに微笑みかける。
「先生、どうして」
「帰ろうとして、庶務の前を通ると、君たちが練習しているって聞いたものでね」
「練習というよりも、吉野のリハビリという口実で、ちょっと音を出したくなりまして」
「いいじゃないか。それじゃ私も参加しよう」
広中教授は、ピアノを開いてアルルの弦のパートを弾きはじめる。突然のことで、皆教授の方を向いたままだった。
「みんな、何をしている」
そう言って、一旦手を止める。
メンバーはその言葉にはっとして、改めて楽譜を出して自分のパートを演奏し始める。ピアノと五重奏の変則的なアルルが始まる。
オーケストラほどのボリュームや表現の幅はなくても、それでも曲としては完成してしまう。やはり、木管のための曲であることがわかる。
そしてメヌエット。
ハープのパートを教授が弾き、七重はそれに合わせながら、自分流の起承転結を主張していく。これが森本さんの求めている演奏なのかどうかはわからないし、レベル的にも全く追いついていないかもしれない。今の七重にはここまでしかできないのが現実だった。
終曲のファランドールを終えると、オーケストラとはまた違った充実感がある。これも音楽の楽しさの一つだ。
「やはり心配することはなさそうだ。どういうメンバーがセカンドについてくれるかにもよるが、それなりのレベルのメンバーだろうから。吉野もいい。森本さんのイメージにまた一歩近づいている」
次の週、オーケストラはオフにもかかわらず、ほぼ正規の人数が集まってくれていた。
フルートのセカンドには二宮さんがついてくれた。
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